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「その、俺はこのへんで。レポートを見なきゃならないから」
ずり落ちそうになる冊子を膝で支え、蓮はよろよろと進みだす。
よしよし、うまくやれた。
このあいだのことに触れずに、講座に来るようにちゃんと言えた。
先生らしかったぞ、俺──なんて思いながら。
このまま背中越しに先生らしい威厳を伝えつつ、去っていければ合格である。
しかし、哀しいかな。
威厳が伝わった様子などない。
梗一郎の気配が背後に迫る。
うつむいた瞬間、彼の姿は視野の端に侵入し、やがてためらいがちに隣りに並んだ。
「持ちますよ、レポート。先生、倒れそうだから」
「い、いいよ。いらないよ。俺が一人で持たなきゃ。だって、俺はしっかり者の先生なんだから」
問答無用といった態度で冊子を半分奪い取りながらも、梗一郎は戸惑ったように言葉を濁した。
「先生、その……さっきの人は」
「えっ、何だって?」
何でもないです、という梗一郎の声が小さく掠れているのはマスクのせいだろうか。
「今日もバイトが長引いて、先生の講座に間に合いませんでした。すみません」
「バイトだったのかい? そんなの全然いいんだよ」
荷物が軽くなったためか、蓮の足取りは軽い。
「もう俺の検定講座には来てくれないのかなって思ってたから」
「なんでそんなことを?」
周囲に視線を走らせてから、蓮はわざとらしく声をひそめる。
「君がキス魔だってことは秘密にしておいてあげるよ。だから気にしなくていいからね」
「は?」
したり顔。
そしてこの笑顔。
少々鬱陶しいはずだが、梗一郎の表情はマスクのせいで窺い知れない。
僅かに目元が少々引きつったのが分かったか。
「……僕はキス魔じゃないです」
「えっ、そうなのかい?」
信じられないというように視線を蓮に向けて、梗一郎は呆然と呟く。
「ついでにいうと、先生はしっかり者じゃないです」
「ええっ、そうなのかい?」
教員棟の蓮の部屋に入りレポートを机の上に置くと、梗一郎はもう一度言った。
「僕はキス魔じゃないし、先生はしっかり者じゃないです」
とりわけ後半部分がショックだったか、蓮が「ぐうっ」と息を呑む。
「や、やっぱり俺は服もちゃんとしてないし。寝ぐせだってついてるし……」
梗一郎は静かに首を振ってみせた。
「今日は先生には声をかけずに帰るつもりだったのに。今だって向かい合わないようにと気を付けて……」
「えっ、何で?」
黙ってマスクを指さす梗一郎。
「何だい? 風邪でも引いたかい?」
そこで蓮は「あっ!」と声をあげた。
「まさかあのとき……」
ペタペタと己の顔を触ったのは、額が、頬が熱くてたまらないからだ。
「俺がその……伝染しちゃったってことかい?」
「お、おそらく……」
気のせいだろうか。
梗一郎の目元も少々赤いような。
「ごめんよ……」
シュンとする蓮に、梗一郎は慌てて手を振ってみせた。
「いや、あれは僕が悪かったというか。その……」
一瞬の沈黙が、随分と長く感じられる。
不意に梗一郎の手がのびた。
「あっ、何す……」
ぽんぽんと頭を撫でられ、蓮が抗議するかのように口をとがらせた。
「もぅ! 頭がグチャグチャになっちゃうじゃないか」
「あいつにグチャグチャにされたところを、僕が直してるんです」
マスクがなかったらいいのにと蓮は唇を噛む。
梗一郎が今どんな顔をしているのか、見たくてたまらないのに。