BL学の研究において重要な工程に「タグ付け」というものがあります。
任意のカップリングに、その特徴を端的に示す単語を設定するというものです。
例として弁慶×義経は『主従』、新選組の近藤・土方は『幼なじみ』、戦国時代の武田晴信・信繁は『兄弟』などが挙げられるでしょう。
統計学に寄与する重要な工程ともいえるのですが、このタグで一番多いのは何だとお思いでしょうか。
それは『ライバル』です。
仕事のライバル。
あるいは政敵。
恋敵というものもあるでしょう。
さまざまなライバルがありますね。
「敵」とひとくくりにしてはなりません。自分の力を最大限に引き出すことのできる、かけがえのない存在──それがライバルなのです。
日本史BL学において、この『ライバル』タグが非常に多いと判明したのも、地道なタグ付け作業を行ったおかげなのです。
さて、本日はこの『ライバル』タグから、もっとも有名なカップリングを例に挙げ、考察を交えながら論じていきます。
日本の歴史の中で数多くいる『ライバル』ですが、まず武蔵・小次郎の名が思い浮かんだという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
宮本武蔵と佐々木小次郎。
そう、有名な巌流島決戦の主役の二人です。
日本史上もっとも有名なライバルと評しても差し支えないでしょう。
一六一二(慶長十七)年四月十三日、関門海峡に位置する無人島である巌流島で両名の決闘が行われました。
結果は宮本武蔵が勝利しています。
数多くの小説や映画、ドラマにも取り上げられた有名なシーンですね。
この日付に関しては諸説ありますし、決闘当事者の武蔵と小次郎の年齢・生国にもさまざまな説が取りざたされています。
まずは、史実として伝えられている宮本武蔵の経歴をご紹介しましょう。
武蔵の生まれは播磨とも美作ともいわれています。
幼いころより武芸に通じ、当時有名だった剣術一門である吉岡清十郎との立ち合いに勝利しました。
その後も各地の剣豪と立ち合いを行い、ことごとく勝利をおさめたと伝えられています。
その試合数たるや六十を超えるとか。
その後、二十九歳で佐々木小次郎との決闘に至ります。
一方の小次郎ですが、こちらは武蔵以上にあやふやな情報しか伝わっていません。
武者修行で諸国を周ったのち、小倉藩の細川家に仕え剣術指南を務めていたというのは確かなようですが、生まれも年齢もはっきりとは分かりません。
作家・吉川英治は決闘当時の小次郎を十八歳の美青年として描きましたが、実際は六十から七十歳のおじいちゃんだったという説もあります。
このように「諸説あり」というワードをそこかしこに付けなくてはならないくらいあやふやな両名。
なのに、この「巌流島決戦」という出来事は広く世に知られています。
有名な剣術師範だった小次郎に、武蔵が試合を申しこんだことがきっかけとも、小倉藩主催の立ち合いであったともいわれています。
武蔵がわざと刻限に遅刻し小次郎を苛立たせたとか、剣ではなく船の櫂で戦ったとか、逸話は数多く残っています。
この時代の決闘は、いわば殺し合いです。
負けた小次郎はここで殺されるのですが、実は武蔵ではなく、武蔵の弟子たちによって殺されたという話も残っているのです。
巌流島決戦を調べていくと、一体そこで何が起こったのかまったく分からないというのが正直な感想でもあります。