五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。
蝉の鳴く夜。布団に包まり、親指の爪を強く噛む。夕飯だけ食べて、それからはずっとこうしている。
別に眠かったからとかでは無い。ただ、こうするしか無いのだ。
真昼と最後に話してから、もう六日も経つ。
僕は知らなかった。彼女が僕の中でどれだけ支えになっていたのかを。
学校で僕に話しかけてくれるのは、彼女だけだった。登下校も彼女と一緒だった。
真昼は何故、僕とそんなに良くしてくれたのだろう。今となっては分からない事だ。
ああ、五月蝿い。五月蝿い。
まだ、蝉は鳴いているのか。
お前らの生きる事への必死さが、僕には憎くてしょうがない。何故、そんなに頑張れる。覚悟を持てる。僕にはわからない。
努力って何だよ。受験って何だよ。
ああ、何でこんなに苛立ちが止まらないんだ。
仰向けに倒れて、拳をベッドマットに叩きつける。
重たい音とともに、振動が伝わり、静寂が訪れた。何かがおかしい。
そして、その違和感の正体はすぐにわかる。
蝉が鳴いていなかった。
立ち上がり、衣服を着る。髪を整え、水を一杯飲み、外へ出て、公園へ向かう。その一連の動作を僕は、まるで糸に操られているかのように行った。
確証は何も無いのに、あの人がいる気がした。
歩道に出て真昼の家を通り過ぎ、進む。
公園の目の前に着くも、あの日と同じく、木が邪魔でよく見えない。
よしと覚悟を決め、 一歩踏み出すと、そこから別の世界が広がっていく。
「みーん、みーん、みーんっ」
純白のワンピース、滑らかな黒髪、細い腕。秋風月夜は変わらず、蝉の鳴き真似をして、そこで座っていた。
その姿はやはり美しく、儚げで、そしてー
「前より、もっと綺麗だ……」
つい言葉が零れ、彼女がこちらに気づく。蝉も鳴かない夜は静かで、離れていても声がよく聞こえる。彼女の頬は赤く染まった。
「あっ、すいません。つい……」
「君って意外と、そーゆータイプの子なの?」
ベンチに右手をつけ、前かがみになって彼女は言った。ワンピースが少しズレて胸元が見える。
僕の視線に気づいたようで、彼女は慌てて身体の前でバツをつくり、ワンピースが肩から落ちないように抑えた。
「エッチ……!」
目を細めて彼女が言う。頬だけでなく、耳まで真っ赤だ。
不思議と見てはいけないものを、見ている気がしてきて、僕は咄嗟に視線をずらした。彼女も何も言わないため、どうすれば良いのかわからず、ただ左頬をかく。
「すみません」
静寂に耐えきれずに言葉が出た。何に謝っているのかは分からないが、良くない事をした気はする。
「よし、許す!」
その言葉で、僕は彼女の方を見る。彼女は天使のような笑顔を見せ、そして言った。
「まあ、それよりさ。 ここ座って話そうよ」
「あ、はい!」
彼女がベンチを叩き、そこに僕が座る。あの時と同じだ。
ああ、ここが僕の居場所なのかもしれない。
思わず口元が緩んだ。何だか久しぶりに、自然と笑みが出た気がする。
「こうしてると、何だか落ち着きます」
「そうだねー」
彼女も僕と同じように感じていた事が嬉しかった。僕らは意外に波長が合うかもしれない。
彼女とならば、会話のない時間も包まれているような安心感がある。
少しの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「ねえ、暗夜君。一つ聞いても良いかな?」
「はい、良いですけど……」
彼女の目はいつもと違い、今この瞬間ここを見ている。何か覚悟を決めたような様子だ。
「必死に生きてるものにどう感じる?」
偶然というべきなのか、彼女が聞いたのは、蝉の鳴き声を聞いてさっきまで感じていた事だった。
だからか、意外とすんなりと僕の中での答えは出た。
「僕は、嫌だなって感じます。自分が必死になれないのも、それが否定されるような感覚も、全部に嫌気が差します」
「そっか……」
気づけば彼女はまた、いつも通りどこが遠くを眺めていた。雲でもなく、月でもなく、もっと離れたものを見ているように見える。
「月夜さんは、どう感じるんですか?」
僕がそう言うと彼女は、自分が聞かれるとは思っていなかったと驚いた表情をした。そして、その後に彼女は言った。
「私は羨ましく思う。私も、ああやって死にたい」
彼女がいつも遠くを見ているのには、価値観の違いもあったのかもしれない。僕はこの時、そう思った。 蝉の鳴き声から僕が生き方を感じた時、彼女は死に方について感じていた。
一体どんな人生を送って、そんな感じ方になったのか。それについて聞いてみようかと思ったが、それ自体が生き方について考える事だと気づいてやめた。
僕はこの時、彼女の奥にある想いの断片を味わった気がした。そして、それは僕のある気持ちを強くさせた。
「僕は、あなたになりたい」
それは紛れもない本心だ。彼女を、秋風月夜を理解したいと心の底から思った。
彼女は僕のその言葉に対して何も言わず、立ち上がった。
「何か飲む?」
「コーヒーお願いします」
彼女は自販機で缶コーヒーを二つ買った。前と同じく僕の頬に一度当ててから、彼女は渡してくる。僕の反応はそんなに面白いだろうか。
一度、飲む前に何コーヒーかを確認しておく。今回はしっかり、無糖では無いようだ。
コーヒーに限らず、僕はペットボトルよりも缶に入った飲み物の方が好きかもしれない。中身が同じでも、そっちの方が気分が上がる。
缶を傾けると、飲み物の熱が近づいてくるのを感じられるのがとても良い。
糖分の入ったコーヒーは、ほんのり苦くて、まろやかで、美味しかった。
「月夜さんはやっぱり、コーヒーがお好きなんですか?」
そうなのだと思って聞いたが、彼女は答えに迷っているようだ。その証拠にコーヒーを飲む手が止まった。
「うーん、好きではないかな」
なら、何故飲むのか。それには僕が聞く前に彼女が答えてくれた。
「コーヒー飲んでると、大人の気分がするんだよ」
大人の気分というのは、意外とわかる。だが、月夜さんが言うとなると話は変わる。彼女はそもそも大人ではないか。
「失礼かもしれませんが、月夜さんって大人ですよね……?」
「うん。年はね。でも、中身は君より子どもかもしれないなぁ」
僕が反応に困っていても、彼女はそんなのお構い無しに続けた。
「だからさ、ちょっと甘えても良いかな」
彼女は僕の方に身体を寄せ、覆い被さるように抱きついてきた。僕らの身体はゆっくりと倒れ、ベンチに横になった。
飲んでいた途中の缶コーヒーが地面を転がっていって、中身が溢れる。
突然の事に理解が追いつかないが、ただ僕の心臓の鼓動が早まっている事だけはわかる。
彼女は耳を僕の胸につけた。
「心臓、ばっくんどっくんだね」
彼女の体温や感触が直接伝わってくる。温かく柔らかい。そして、か弱い。
きっと抵抗すれば、彼女にだって勝てる。でも、何故か僕はそうしなかった。
「暗夜君ってさ。年いくつだっけ?」
「今年で十五です」
「そっか。じゃあ、コレ犯罪だね」
彼女の指が僕の腕を辿って、僕の手と重なる。彼女は僕の指の感触を一本一本確かめ、そして指を絡めた。
初めての恋人繋ぎは案外、呆気なくて強烈なものだった。
次に彼女は、僕の目をじっと正面から見た。そして、そのまま僕らの距離は近づいた。互いの鼻が当たったまま、見つめ合う。
綺麗な肌だ。こんな時に何を考えているのだという感じではあるが、本当に綺麗な肌だった。まるで赤子のようで、彼女がいかに今まで刺激を受けずにここまで来たのかがわかる。
彼女は繋いでいた手を少しずつ、離していった。いや、力が抜けていったという方が正しいだろう。
僕と彼女の手が、完全に離れたその時だ。
僕は目を瞑った。何かが僕の目に向けて落ちてきたのだ。冷たい何かが僕の頬に落ち続けている。
そして、もう一度目を開いた時、僕はそれが何か理解した。涙だ。
ほんの数センチ近づくだけでキスが出来るような距離にある彼女の瞼からは、涙が溢れ溢れていた。
どうしてと思った時、僕の視界が曇った。
僕も泣いていた。
「怖い、助けて」
そう言ったのは彼女の方だ。不思議な事に僕を襲ったはずの、彼女の方が恐怖を感じていたのだ。
僕は初めて彼女に会った時の事を思い出した。
『君を待っていた気がする』
彼女は確かにそう言った。
僕に会うまで彼女は、どれだけの時間を一人で過ごしていたのだろう。あの夜、孤独を感じていたのは僕だけだったのだろうか。あれから、彼女はどう夜を過ごしていたのだろうか。
僕はそんな、つまらない事を考えてしまった。考えても考えても仕方の無い事。 でも、彼女の涙は冷たい、悲しい涙だった。
僕はせめてと思い、彼女を抱きしめた。
この姿勢からは、空がよく見える。そして、今日の空を見るのは、この瞬間が初めてだった。
曇り……。いや、、、
僕の額に水滴が落ちた。これは、さっきまでの涙とは違う。雨だ。
コメント
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●最初の『五月蝿い』3つ(普通の文字・太字・大きい太字)にしたりしてもいいかも。最初だからより物語にのめり込めそう。まぁ自由だから何にしてもいいけども。 ●セミの鳴き真似の部分、「テキストの斜め字(みたいなやつ)」にしたら強調が出来るかも こういう終わり方すごい好き。 続き待ってますm(_ _)m