「雨、止みませんね……」
その言葉に対し、彼女は何も返さない。
雨が降ってきてから何分経っただろうか。少なくとも十分は経ったような気がする。
月夜さんの服装は白いワンピース。雨で濡れば下着や肌がよく透けるだろう。だから僕は彼女の姿を見ないように、ただ地面を跳ねる水の動きをじっと見つめる。
今は公園の木の下で雨を凌いでいるが、思っていた以上の大雨で、たまに葉っぱに溜まった水の塊が落ちてくる。
それに服はもうビショビショだから、かなり寒い。このままでは風邪を引いてしまう。でも、僕はここから動かない。彼女とこのままで別れるのは嫌だからだ。
雨の音が五月蝿い。それこそ、蝉以上かもしれない。孤独はもうごめんだ。
「月夜さん。さっきの事、僕はそんなに気にしてませんよ」
僕がそれだけ言うと、また雨の音の時間がやってくる。ザーッとますます勢いが増してきている。
ベンチの傍に溢れたコーヒーはもう、雨水と混ざってよくわからない。僕らの過ごした時間もあんな風に、薄まっていくのだろうか。
「あのね、」
月夜さんがようやく話し、雨の音が次は一音一音ゆっくりと聞こえる。木の葉にのしかかる雨音も、地面とぶつかる雨音も、コーヒーの入っていた缶に当たる雨音も全てが聞こえた。
「ありがとう」
僕の視線は変わらず、雨にあった。いや、もう何を見ているかなんてどうでも良かった。今、僕にとって大事なのは彼女の声だけだ。
「寒くないですか? 風邪引きますよ?」
「そうだね。寒くなってきたね。風邪引いちゃうね。大変だね。暗夜君は、大丈夫?」
「僕は、そうですね。たぶんバカだから大丈夫ですよ」
少しずつ会話をして、空白の時間を埋めていく。ある程度、心に余裕が生まれてきた。
「家近いんで、雨具とか、月夜さんが着れそううなものとか、一度持ってきますね……」
彼女がこのままの服装でいるのは非常にマズイ。風邪とかもあるだろうが、それ以上に透けてしまっている事は普通に危険だ。
夜にはどんな人がいるかわからない。彼女が服のせいで襲われるかもしれない。
いつもはそこそこ落ち着くと感じられる夜が、急に恐ろしいものに見えてきた。
だから一秒でも早く動き、行動しなければいけないと感じたのだ。
だが、彼女は僕の服の端を掴んだ。
「まだ、行かないでほしい」
僕は何も言わず、何もせず、それに従った。
「ごめんね、自分勝手で。でも、なんかさ、君と会えなくなっちゃう気がしたんだ」
何故僕は、こうも彼女の言葉に、彼女という存在に心を惹かれるんだろう。彼女の一言一言が重く、厚く感じられる。
「会えなくなんて、なりませんよ。また、この公園で会える。そうでしょ?」
「……そうだね」
もう、僕は彼女を一人にはしない。今決めた。何があっても僕は夜、この公園へ行き、彼女と時を過ごす。
最初は孤独を掻き消すためだった。でも今は違う。僕はもう、そういう損得とかはどうでもよくて、ただ彼女と一緒にいたい。
「暗夜君。お願いがある」
彼女は掴んだ僕の服を引っ張り、言った。
「抱きしめて」
僕は目を瞑って振り向き、彼女の背中に腕を回した。恥じらいからなのか、それとも単に身体が冷えていたからなのか、彼女の肌がとても温かいように感じた。
そして、胸の奥でかつてないほど強い想いが生まれた。 幸せだ。
僕はこの時、人生で最も生を実感し、初めて今なら死んでも良いと思えた。
「目、開けて」
彼女がそう言い、僕は目を開く。目の前には彼女の瞳があった。
その瞳が何を見ているのか、僕にはわからない。ただ、だからこそ、そこに僕は吸い込まれる。
彼女は僕の頭を支え、瞳を閉じた。そして、そのまま顔を近づける。
僕の唇と彼女の唇が交わった。
柔らかい。そう感じて、そこでこれがキスだと気付く。でも、嫌ではなく、むしろ嬉しかった。
彼女を、秋風月夜を、今僕は全身で感じている。
今まで生きていく中で、いつの間にか空いていた、心の大きな穴が完全に消えたのを僕は感じた。
ああ、ずっとこのままでいたい。
息が苦しくなったあたりで、彼女が僕から手を離す。月夜さんの瞳は、初めてはっきりと僕を捉えていた。 僕も月夜さんを見つめた。
彼女が息をする音がよく聞こえる。彼女の鼓動の音が聞こえる。彼女の命の音が聞こえる。
「ひゃっ!」
彼女の頭に水が落ちてきて驚き、声を上げた。彼女を中心にして、少しずつ視野が広がっていく。
「あれ?」
彼女が木から少し離れて、天に手をかざす。
「雨、止んだよ」
雲がかっていた空はすっかりと晴れ、月が出ていた。
「本当だ、月が綺麗ですね」
彼女は今になって、先程までのことが恥ずかしくなったのか、耳を真っ赤にした。
その時、家の方から強い光が差し込んできた。それは遠く遠くから来た光だ。その周りの空は赤っぽく染まっていく。
「もう時間か。君といると何だか、すぐ時間が過ぎるね」
太陽の差し込む方をよく見ると、一台の白い車が止まっていた。迎えだろうか。
彼女はそっちに歩いていった。
彼女が足を動かすたびに、柔らかくなった土がグシャリグシャリと音を立てる。
太陽が逆光となり、彼女の像がはっきりと浮かぶ。その姿はまるで天使のようだ。それなのに、やはりどこか儚げさがある。
僕は彼女がこのまま消えてしまうような気がして、必要以上に大きな声で叫んだ。
「月夜さん!!」
少し驚いた様子で彼女が振り向く。
「また、会いましょう!!」
僕は笑顔でそう言った。それなのに、彼女は微笑みもせず、そのまま歩いていった。
僕に残ったのは幸せの残り火と、危機感そして喪失感だった。何かが、僕の中で引っかかる。
誰も居なくなった公園で僕は、コーヒー缶を拾ってゴミ箱へ投げ捨てた。
コメント
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「厚いく」⇒「厚く」 スラスラ読めてとても楽しいと思ってます。 続き読んできます。m(_ _)m