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ゆっくり目を開けると、見知らぬ天井。
(……そういえば、彼の家だ)
ぼんやりした意識のまま身を起こそうとした瞬間、
自分が大きめの長袖Tシャツを着ていることに気づいた。
肩が落ちそうなくらいゆるくて、
袖は指先まで隠れてしまう。
生地からふわりと漂う――
昨日、何度も全身に押しつけられた体温の匂い。
胸がどくりと脈打つ。
(……もときさんの……)
視線を横へ向ける。
そこには、静かに眠る彼がいた。
長い前髪に隠れた横顔は、
昨夜の“壊れた男”とは思えないほど無防備で、
どこか満ち足りた表情をしている。
ただ“隣にいるのが当たり前”みたいに。
胸の奥がぎゅっとしめつけられる。
昨夜、泣かされて、息が止まるほど抱かれたのに。
恋人でもないのに。
なのに、この寝顔はまるで――
私を大切にしている恋人そのものだった。
その温度が、逆に苦しい。
身体を包む大きなTシャツが、
彼に完全に支配された証みたいで……
温かいのに、泣きそうになる。
そのとき。
すぅ、と寝返りを打った彼の腕が自然に伸びてきて、
当たり前みたいに私の腰を抱き寄せた。
「……ん……ちかちゃん……?」
寝ぼけた声で名前を呼ばれ、息が止まる。
その声は
“昨日のことなんて何も悪いと思ってない”
“これは当然のこと”
そんな安堵の響きをしていた。
「……おはよう。
ちゃんと寝れた……?」
目を閉じたまま、指先が私の背中をゆっくりなぞる。
優しい。
優しすぎる。
でも、その腕の抱き寄せる力だけは
“絶対に離す気がない”みたいに、しっかりしていた。
(……逃がさないように、なのかな……)
そんな考えがよぎっても、
身体はそのぬくもりを拒めなかった。
胸に抱き寄せた私を、
彼は寝起きのかすれ声で、幸せそうに抱きしめる。
「……ちかちゃん、かわいい……
朝から一緒にいられるの、ほんと嬉しい」
恋人みたいに甘く。
でもその甘さの奥に、昨夜の支配の余熱がかすかに残る声で。
まるで――
抱き潰したことも、泣かせたことも、
全部この腕の中で“愛情”に塗り替えようとしているみたいだった。
そのあとは、まるで同棲している恋人のような一日だった。
昨日のことは何ひとつ触れないし、触れることも、怖かった。
朝ごはんのあとは、2人でお風呂に入り、
「髪、乾かしてあげる」とドライヤーで髪を乾かしてもらう。
彼のTシャツ姿のまま、台所に並んで、昼ごはんを作って食べる。
午後は「映画でも観る?」とリビングのソファで横並びになり、
お菓子を2人でつまみながら、何気ない映画を眺めて過ごした。
夜ごはんも「一緒に作ろ?」と言われて、2人で食材を切ったり炒めたり。
「これ、味見して」と差し出されるスプーン。
食卓を囲んで、食べて、片付けて――
気づけば、時計は夜の20時を回ろうとしていた。
「ちかちゃん、明日仕事だよね?」
「は、はい……」
「タクシーで帰りな。お金出すから。
帰り道、危ないし、なんかあったら僕、嫌だから」
やさしい声。
でもその言葉の奥には、“もうひと晩引き留めたい”みたいな未練がにじんでいるのがわかる。
「いや、でも悪いです……お金……」
「僕がいいって言ってるから、いいの。
ちかちゃんが他の男にちょっかいかけられるところなんて、見たくないから」
声はやさしい。でも、その目だけは――どこか怖い。
気づけば、私はもう“逆らう”という選択肢を持っていなかった。
「はい、わかりました。……ありがとうございます」
帰り支度を終えて、私は彼の座るソファの隣に腰を下ろした。
彼は何気ない手つきでスマホを取り出し、アプリでタクシーを呼んでくれる。
「10分くらいで来るって」
「はい、ありがとうございます」
答えた途端、彼の腕がふいに伸びてきて、私はぎゅっと抱きしめられる。
「……ちかちゃん、帰っちゃうの、寂しいな」
耳元で囁かれる声は、どこか拗ねたように甘い。
その吐息に、胸の奥がきゅっと疼く。
「……ずるいです、そんなこと言うの」
彼は、顔を引き剥がし、目の前で意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ホントのことだもん。なに、冷たくした方がよかった?」
「……冷たくされるのは、イヤです」
そう答えると、彼はふっと笑い、満足そうに目を細める。
「ふふ、かわいい。素直でよろしい」
そっと、触れるだけのキスを落とされる。
その熱が、肌の奥までじんわり染みる。
「……ん、下まで送るから。でも、もうちょっとだけ」
もう一度、強く抱きしめられる。
このまま時間が止まってしまえばいいのに、と思った。
やがてタクシー到着の通知が鳴ると、彼は「よし、行こっか」と頭を撫でてくる。
上着を羽織る私を見守りながら、彼は財布から一万円札を取り出す。
「これで足りると思うから。お釣りは返さなくていいよ」
「……ありがとうございます」
玄関を出るとき、彼がさりげなく手を繋いでくる。
その指先のぬくもりに、もう一度胸が締めつけられた。
「ね、ちかちゃん……どこにも行かないでね?」
エレベーターを待つあいだ、ぽつりと呟くその声が、思った以上に切なかった。
横顔を覗くと、彼は少しだけ寂しそうな顔をしている。
そっと目が合い、私は小さく頷く。
「……はい」
「嬉しい。ありがとう」
エレベーターの扉が開く。
別れ際、もう一度手を強く握られ、そのままタクシーまで送り届けられる。
「また連絡するから…
寂しくなっちゃうから返事してね?」
頷く私。そのままタクシーの扉が閉まり、
車窓越しに小さくなっていく彼の姿を見つめながら、
胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じていた。
タクシーの窓の外を、東京の夜景が静かに流れていく。
彼から届いたメッセージは、
『今日はありがとう。無事に帰ったら教えてね。気をつけて』
――本当に優しい、あの人らしい文面だった。
指先が震える。
さっきまで一緒にいた体温が、まだ指先や首筋に残っている気がして、
現実のはずなのに、どこか夢の中みたいだった。
でも――
胸の奥に、どうしようもなく冷たい影が差し込む。
彼に言われた、答え合わせ。
そして、そのあとの行為。
(……売ったの、はるくんなの?)
あの夜、突然すべてを知られたこと。
彼が話してもない自分の“情報”をすべて持っていたこと――
ふとよぎるのは、はるくんの存在。
(どうして、私のこと……)
今は確かめずにはいられなかった。
スマホを握りしめたまま、
(怖いけど、ちゃんと聞かなきゃ――)
“久しぶり。今日、少しだけ話せるかな?”
送信ボタンを押した指先は、
ほんの少しだけ震えていた。
(返事、くるかな……)
タクシーの振動が、膝に置いたスマホをわずかに揺らす。
夜の街並みをぼんやりと眺めながら、
返事を待つ時間が、永遠みたいに長く感じられた。
家について「無事に着きました」と彼にLINEを送ると、すぐに既読がついた。
それと同時に、はるくんから電話の着信が鳴る。
「もしもし、ちかちゃん?どしたー?」
いつも通りの、軽い調子の声。
久しぶりに声を聞くけど、どこか他人事みたいな軽さが胸に引っかかる。
「……あのさ、もときさんのことなんだけど……」
「大森さん? あー、で、なに?」
急に言葉の端に“何か”を含ませる。
私はひと呼吸おいて、勇気を出して尋ねた。
「……私のこと、もときさんに、何か話した?」
一瞬、電話の向こうで舌打ちする気配がした。
「……はぁ、あの人、ほんと面倒くさいっていうかさ……」
はるくんの声色が、どこか面倒そうに落ちる。
「――抱かれたんでしょ? ちかちゃん」
胸の奥が、ぞわっと冷たくなる。
「……っ、はるくん……」
「いいじゃん、好きな人に抱かれたんだったらさ。普通にラッキーじゃない?」
悪気なく、淡々と言い放つ。
「……ワンナイトで有名だよ? あの人
でもさ、ちかちゃん、今“お気に入り”なんでしょ?大森さんの」
「な、なんで……そんな、ほんとにそうなの?」
「え?だってそうでしょ。ちかちゃんさ、あんなのに選ばれただけでもありがたく思いなよ
なに言われたか知らないけど、気に入られてるんだったらさ、いいじゃん。深く考えないでさ」
はるくんの声は、どこまでも軽くて、優しさなんて欠片もなかった。
(――全部、他人事みたいに言うんだ)
目の前が、じわじわと暗く滲んでいく。
「……そう、だね……」
自分の声が、どこか遠くで響いている気がした。