第一章 社畜、推しになることを決意する
1
濛々と土煙が上がっている。砲撃と魔法の一斉攻撃に曝されて、砕け散った敷石の成れの果てだ――
煙にむせ返りながら、少女は叫んだ。誰かが叩きつけるように叫んでいる。両腕で彼女を抱え込み、衝撃から守るようにして「彼」は思った。視界が覆われ何も見えない――一切が煙で覆われている。「――ハール!」
ぽたりと少女の頬に何かが落ちた。血だ、傷口から溢れたばかりの鮮血。「彼」は蹲っていた。片膝をつき、彼女を庇うようにして。その背に巨大な瓦礫が覆い被さっており、
だが彼は強引に振り払うようにして自らそれを押し退けた。煙はまだ漂っている。周囲は何も見えず、ただ声が響いているだけ。「ハール!大丈夫なの…!」
その瞬間、彼は目を上げた。漆黒の髪の下から赤く光る瞳が弧を描く。魔力が漲った瞬間にしか見せない虹彩の輝き――刹那、抜き打ちに腰の剣を放つと、目の前に迫った兵士の首に白刃を突きつけた。ゾッとするような瞬間つんのめったように相手が固まる。
煙が晴れてゆく。この後は――この後は。「彼」は、思った。とっさのことだが逡巡する。そう、確か煙が晴れて、周囲を包囲されていることに気付く。兄王から差し向けられた祖国の兵だと。戦で姿を消していた第三王子、ハールを殺せと。だが、彼は冷え冷えとした声で誰何し、
こう言うのだ。『何者だ!我が名はハール、アルタイルの子にして第三王子である。身分を知っての狼藉か!』
少女は目を剥いた。そう、ここで彼女は初めて男の素性を知る。そしてその後は――その後は、
逃げ出すのだ。少女が、隙を見て詠唱していた魔法で竜巻を起こして。
そう――そうだ。「彼」は思った。あのシーンで惚れたんだっけ。どちゃくそ格好良いと。それを私がやる羽目になるなんて……!
誰何する。筋書き通り、冷え冷えとしたよく通る声で。兵士がおののき、刹那、隙を突くように白い光が閃いた。ドッ、轟音と共に足元から六本の竜巻が広がる。
『うわああああ!』
兵士がうろたえた。風に巻かれ、踊るようにたたらを踏み互いの体に掴まり合う。彼は駆け出した。少女を抱き上げ建物の陰へと。
ど、どうすればいいの?思った。どうすればいいのよ?ここから先は書いてなかった!だって、だって次読んだのは『目が覚めてから』で――
(どう逃げればいいのよ?誰か助けて!!)
――話はふた月前に遡る。
四月は年で一番活発な時季、そして社会人にとっては――こと低所得の会社員にとっては最も理不尽で面倒な季節だ。
トボトボと花の少ない街路樹の桜を見上げて歩きながら、橋本コノカはそんなことを考えていた。四月二十日、世間はお花見とようやく訪れた春を満喫している。夜遅くまで飲み屋が賑わい街には笑顔の人が溢る。本来なら、そんな時期なのに……
いや、彼女も例外なく、ほんの数年前までは春が一番好きだった。キャンパスに溢れる一面のソメイヨシノに、新入生の姿で賑わう大学。履修登録を済ませて仲間たちと一緒にサークルの新入部員を勧誘する。暖かで、何かが始まりそうで、幸せな時季。それがこんなふうに成り果ててしまうだなんて……
新歓コンパは年で一番楽しみな行事の一つだった。コノカは思い出し、薄い笑みを浮かべた。それが今となってはこのざまだ。地獄の番人から、新たにやってきた新入りたちにせめてもの選別と安寧を祈る闇の旅路の送別会……
無理やり飲まされるアルコールも、少しも面白くない上司のギャグも、有り難さのない訓辞も全てが地獄だ。こんなものに少ない給与を逐一削られる。かつては目を細めて見た桜も、今じゃ『またこの季節がやってきた』の象徴。ついでに原因不明の鬱を誘発させる悲劇の象徴にまでなってしまっており――
こんなハズじゃなかったのに?コノカは、ぼんやりと目をしばたきそう思った。どうにか潜り込んだ中堅どころの会社で、馬車馬のごとく働かされる日々。せめて高ければ良いものの、生かさず殺さずのはした金を掴まされて、サービス残業は当たり前。定時の帰宅は反逆罪。有休、何それ?ついでに健康診断の結果は『体脂肪率、去年より五パーセント増し…』(※翻訳、痩せろ)
こんな生活に潤いを与えてくれるのが、恋でないのが悲しいところである。本屋に行って買い込んだ本を鞄から出し、そのときキーホルダーがちりん、と揺れて彼女の鞄で微かに鳴った。
『RG―ロイヤルギルティ―』
表紙に黒髪の、若い男が剣を構えている。片目が赤く光っており、特装版だ。漆黒の甲冑に破れた灰色のマント。ああ…
こいつをどれだけ待ってたことか……!!
二ヶ月前から、秒で予約。『RG』は最近始まったばかりの小説である。偶然立ち寄った本屋でコミカライズを見て、どっぷり。アルタイル王国の第三王子、通称ハール黒太子……!
幼少期から「要らないもの」として蔑まれてきた王子。唯一血の繋がる父とは確執があり、武勲を立てることでしか愛を示せない不器用な青年。国で随一の魔力を持ち、更に秀でるは剣の腕前。黒ばかり着る不気味な出で立ちから忌まわれて、付いた渾名が「黒太子」…
でもそんなのもひっくるめて素敵過ぎる、コノカは思った。傍から見れば痛い光景だろう。春先に、成人を過ぎた女が本を片手にホクホクなんて。だがそれでも一向に構わなかった。これだけが彼女の生き甲斐だから?帰って朝まで読み尽くそう――
鞄に付けているハールのキーホルダーが鳴る。会社では死んでも外には出せないものだ。退勤して、一人暮らしのマンションが近くなった頃にようやく鞄の外ポケットからお目見えする宝…
そんな彼女を見て友人たちが危機感を抱かぬはずがない。先日、会社帰りに久々に会った大学の同期が言っていたっけ。社会人になって急遽オタクを発症したコノカに、心底心配し、なおかつ同情した顔をして。「あんた、彼氏作れば…?このままじゃ婚期逃すよ……」
せめて恋人作る努力するとかさ…ねえ。
恋人、ね。コノカは思った。生憎と今はそんな気分になれずにいるのだ。何せ、彼女の『王子様』はこちらの方なので。まあ、このように、概して「今だけ」と称してオタクは婚期を逃がすらしいが――そんなことはどうでもいい。日々の激務に(いや、奴隷制に)身も心もすり切れて、もはや絶命寸前なのだから。帰ってさっさと養分補給を…
すぐ側に、巨大なトラックが停まっている。エンジンが唸っており、山積みのパレットがぎっちり後ろに積まれている。その脇を過ぎようとしたとき、ふいに微かな音が響いた。
それは、空気の音だった。パンッ――タイヤのパンクみたいな?だが、その瞬間、ふいに何かが動いたような気がしてコノカは目を上げた。ゆらん、と夜空に何かが身震いする。
「危ない!!」
声がした。どこかから。無理やり飲まされたアルコールでぼけた視界に何かが襲ってくる。それは、目と鼻の先で車をなぎ倒し――
ドッ、音がした。耳が壊れるような轟音を立てて。ドドドドドド!!
何かが当たる。体に。あっと言う間もなくコノカは投げ出され地面に転がった。頭が何かに当たり目眩がする。だが次の瞬間胸が圧迫され、
く、コノカは思った。苦しい……!!息が出来な――
声が聞こえた。わああっと、叩きつけるように。遠くに人の足が見えている。大変だ!大変だ!!誰かが喚いており、「崩れたんだ!急にパレットが――」
誰かが下敷きに!!
冷たいものが触れた。頬に、ひんやりと。ああ、コノカは目を上げた。何となくだが事態を察する。だが幸いかなアルコールの回った身体で痛みはなく、胸から上がただ苦しいだけだ。真っ赤になるほど首から上に血が上ってゆき、手足が冷え――
私、死ぬの?思った。ちらちらと走馬灯のようなものが見え始める。
意識が遠のいてゆく。死ぬんだな、思った。だったら――
どうか、出来るなら、大好きな人の傍に居られますように……
手を動かす。キーホルダー…指を動かし、コノカは願った。
(どうか次こそは、「彼」に――一番近い場所に居られますように………)
意識が遠くなる。身体が軽くなり、そこでふっつりと視界が途絶えた。
2
「……た」
声が聞こえる。控えめな声だ。酷く焦っているような――誰かがコノカの頬を叩きながら懸命に呼びかけている。
「もし、あなた!」
引っこ抜かれたように、コノカは目を覚ました。正確には「目を開けた」だ。頭のコードがまだ繋がっていない。誰かがこちらを覗き込んでいる。「ああ」ほっとしたように息を吐き出し、言った。「お目覚めになられましたわね!」
バタバタと足音が聞こえてくる。若い女の足音だ。お嬢様!アリエスお嬢様!叫んでおり、「お目覚めになられましたわ――殿方が。早く!」
アリエス、コノカは気付いた。途端にぷっと吹き出してしまう。嫌だわ、まだ夢の続きを見ているのだ?さっきから酷く左手が痺れている。身体が何だか重くて堅い――急に金属の板でもあちこちに仕込まれたみたいに?
アリエス・ロッド。コノカは思った。ハールの恋人だ。というより、後々恋人になるはずのご令嬢。確か、戦で敗れてしまい、倒れていたハールを見付けて救った良家の娘。羨ましいこと限りなくて、でも確かにお似合いの――完璧な二人。でも何でそんな夢を?「あなた…?」
金色の髪の娘が、覗き込んでくる。まだまどろんでいらっしゃいます、誰かが囁き、娘が手を触れた。コノカの額にだ。泉みたいな紺碧の瞳がおっかなびっくりこちらを覗き込む。「お身体は…?」
視界の隅に、何かが見えている。刃物みたいな鈍く光るもの。その瞬間コノカは起き上がった。
きゃあ!悲鳴が響いた。カシャーンと音がして何かが床に落ちる。半円形の銀の皿だ。上に絞った手拭が乗っている。「お嬢様!」
叫び声がして誰かがとっさに娘の前に割り入る。下女のメリンダ。焦げ茶色の髪を丁寧に束ねて、頭の後ろで団子にしている。「お下がり下さい!この――」
「待ってメリンダ」娘は言った。目を見開き、こちらの様子を窺っている。頭がフラフラする。身体が、重い――何だかいつもの倍くらいに…?
片腕をつき損ね、コノカは倒れた。お話の再現だ、頭の中でそう思う。そう、確か、ハールは彼女に助けられて、暫く屋敷に世話になるんだった。余りに口数が少ないせいで最初口が利けないと思われて。この後は、確か、
「……大丈夫?」娘はそう訊いてきた。慎重そうに、コノカの様子を窺っている。「つ、掴まって。無理はいけません。まだ横に――」
そのときコノカは鏡を見た。足元に大きな姿見が置かれている。女性用の大きな鏡で、見事な金淵細工のもの。部屋の様子が映っている。どこかの瀟洒な室内に、金髪の娘。そして――
彼女に支えられる男の姿。
コノカは鏡を見た。ややあってから自分を見る。大きな手。どう見ても、男の手だ。そして、
「……傷は、治しましたよ」相手はそっと言った。冷や汗をかくような顔をしている。コノカの様子を見て怯えているのだ。「千切れかけの腕も――」
何だって?コノカは目を見開いた。生憎それ所ではなかったのだ。ペた、と胸に触れる。鍛え抜かれた体。筋肉。そして袈裟懸けに伸びる大きな傷。
(む、胸は?ていうか身体が堅い?大きい?あと何か股に)
布団を捲る。その瞬間、ブツッ、頭の中で何かが切れ、今度こそコノカはこれ以上ないほど大きな声で(ぎ―――ゃあああああ―――――!!!)ありったけの悲鳴を上げ卒倒した。
世の中何が起きるかは分からないものだけど――
一週間後、街を歩きながらコノカはそんなことを反芻していた。しみじみと、噛み締めるほどにそう思う。傍らでアリエスが子供と戯れている。ようやく傷の癒えた彼を、彼女が町に連れ出したのだ。ろくに受け応え出来ない、そんな彼を「口が利けない」と今や誰もが誤解している。
「……最初は気味が悪いと思ったが」御者が街の人間と話しているのが聞こえてきた。剣を携えるコノカを――いやハールを見て笑っている。「あれで意外と良い人だよ。穏やかで」
「………」コノカは思った。そう――でしょうとも……アリエスは笑顔で子供の頭を撫でている。良家の娘らしくない、施療院で働く女のような格好に、大きな籐の籠を持ちながら。こちらを見ると、微笑んだ。「ねえ、手伝って下さる?」
籠を代わりに持ってやる。ついでに腕を貸すと、彼女はまごついた。「お、お優しいのね。ハール…?」
う……コノカは思った。とっさに泣き出しそうになってしまい慌てて堪える。
あれから知ったのだ。コノカはそっと頭を巡らせた。とんだ事態が起きたことを。夜中にこっそり起きて、散々確かめたのだから間違いない。胸に袈裟掛けになって伸びた傷、呪文を詠唱すると微かに赤く光る瞳。剣に刻まれた紋章。
烏の濡れ羽のような黒髪。長身。そして、鍛え抜かれた体躯。
信じられないけど、そうらしい。気付いて絶句してしまう。どうやら自分がハールになっているということに……
ち……彼女は叫んだ。しゃがみ込み膝をつく。違う~~~!!違うの――――!!!思わず内心泣き叫んでしまう。そうじゃないのよ!!一番近いってのは、そういう意味じゃなくて!!
愛されたかったの!!膝をついた。ドサリと地面にそのまま突っ伏し嘆く。(好かれたかったのよハールに―――!!!)
だ、大丈夫かい……?御者が聞いた。わ、分からない……アリエスが呻いている。何かの発作かしら……密かに怪訝そうな顔をしている。目覚めて以来度々こうなるコノカを(いや、ハールを)見て周りの人間は持病の癪か何かと勘違いしている。「だ、大丈夫?ハール、もう帰る…?」
まさか自分が彼になるなんて―――!!
うわぁぁあん!!むせび泣く。ドン引きしている街の人間と、い、一体……フリーズしているアリエスの横で、ハールはひたすら突っ伏し続けた。
世界とは概して計算違いと予測不能で溢れている。
齢二十三才にして、コノカはその事実を悟ったのだった。山積みのパレットが突然崩れてきて、(恐らく)ぺしゃんこ。確かめる術はないけれど、彼女がここにいる辺り、大方そうなのだろう。俗に言う「転生」というやつで……
にしたって、ねえ……?薄く笑う。どうよ。いくらなんでも男なんかに……
ハール黒太子。コノカは頭の中で反芻した。生憎最終巻は読めなかったけど、おおよそ現在自分がどの時点に居るかは把握できている。おおよそ一巻の真ん中ぐらいで、そう、話とすればこの辺りのもの。
戦に破れ、姿を眩ましたハール。死んだと思われていた祖国では、その頃騒動が起きていた。それは、かねてから彼に(ハールにだ)冷たいことで知られていた王がむせび泣いたことで……
〝我が唯一の跡取りよ〟。この言葉から、二人居る兄たちは真相を知った。それは、自分たちの誰もが≪王であるエルメンガルド王の血を引いていないこと≫。アルタイル王国の直系は虐げられてきたハールただ一人であり、それを知った兄たちは激情にかられる。結果、父を滅多刺しにして殺してしまい、
そして第四王子を幽閉してしまうのだ。唯一ハールを慕っていた弟、ユリジェス。知らせを受けハールは絶望する。それを支えたのが令嬢アリエスで――
(今からでも間に合います)そう言うのだ。弟君を――あなたの国を、救わねば!
そして盟友の力を借り祖国へ舞い戻る。そこから後が、情報不足で……
今頃あっちじゃ大騒ぎよね……コノカは、ぼんやりしながら思った。気の毒にエルメンガルド王の遺骸が城壁に逆さ吊りにして曝されるんだもの。で、「あんまりです兄上!」と飛び出したユリジェスが捕らえられてしまい…
投獄されてしまう。母親譲りの少し紫がかった髪の毛に、銀色の目の美少年が……!
絶対避けねば。ハール(コノカ)は思った。それだけは回避せねば。何たって、ユリジェス君は私の二番手推しなのだから。俗にいう「男の娘」で、年の離れた腹違いの弟。大きな目に象牙のような肌の子供。兄様、兄様、とすがってくる姿が可愛くて…!!
あの子は体が弱いのだ。確か獄中で病に倒れたはず。下手すれば死んでしまうかもしれなくて、とにかくそれだけは回避せねば!!
こうなっては仕方がない。コノカは目を据えた。お話がどんな形で完結するかは分からないけど、今言えることは三つある。それは、ハールの〝イケメン無口な黒太子のイメージ〟を頑として損なわないこと。次にハールの使命を全うすること。最後に、原作改悪でも何でもいい、この際残された推しだけは守り抜くことで……!!
この見た目じゃ報われないけど。涙ぐんだ。仮に弟を救ったとして、薄い本的結末だけは回避しなきゃならないけど……!
妙なオーラを漂わせる。アリエスが(な、何なの……)僅かに引いており、(やらねば)コノカは目を光らせた。私がやり遂げねば……
何がどうあっても、こればかりは成し遂げねば…!
推しだけは絶対に守る。そんな具合で、コノカは今、現時点では平和で穏やかな隣国ソマールの町に立っているのである。
3
「お帰りなさいませ、お嬢様」
屋敷に戻ると、メリンダが使用人らしく迎え出てきてお辞儀した。相変らずの質素な街着姿を見て呆れている。「またそのお姿ですか」 はあ、と困惑するような、呆れるような溜息を漏らした。「マクスェル家のご息女ともあろう御方が……」
そう――ハールは思った。アリエス・ロッド・マクスェルは、伯爵家マクスェル家の令嬢なのだ。父が厳しく敬虔で苛烈なほどに信心深い。娘にこんな使用人まがいの仕事をやらせているのも『全ては神の国に迎え入れられるため』だとかで…
「お風呂をご用意致しております」メリンダは促した。「お館様は、今宵久々に戻られるそうですよ。ドレスにお着替えを」
途端にアリエスはぐっと顎を引っ込めた。ハールの手前に気付き、慌てて目を上げる。「そ、そうね」早口に言うと微笑んだ。「では、お願い。メリンダ」
「水色のドレスのご用意を――」
ロイヤルギルティの筋書きではこうだ。稀にしか話さない、身なりは良いが素性不明の男ハールと、何故かそれに優しく接する令嬢アリエス。それをあまり良く思っていないのが侍女のメリンダだ。どうやらお嬢様に付く悪い虫とでも思っているみたいで、まあそれが普通なんでしょうけど……
ちら、と視線で追い払われてしまう。と、アリエスが振り向いた。
「まあ!とっても綺麗!本当に流行りの色合いね。どう?ハール――」
へ?ハールは途端に足を止めた。そんな展開筋書きにはなかったのだ。確か原作では、さっさと部屋に引っ込んでしまったハールは、どうにか故郷に戻れないかを画策する。素性を明かさず、一刻も早くこの館を後にしようと。だが、そのとき『今宵のお客』から予期せぬ噂を耳にして……
祖国で叛逆が起きた、と。そう知らされるのだ。ハールは復習した。「兄たちが結託して父を貶め、王位を奪ったという噂がまことしやかに流れている」と――
え、えっ?ハールはうっかり慌ててしまった。呼ばれた手前とっさに部屋を覗き込む。そこには、アリエスが真っ白のリボンの付いた水色のドレスを体に当てており――『やだ可愛い!』
ウソ!凄く素敵!「コノカ」は言った。「あでもちょっと腰のパニエは派手すぎるかな――もうちょっと後ろにズラし……」
間が空く。………はい?二人が揃ってフリーズしており、「あ゛」
やっ、た。ハール(コノカ)は――固まった。たまにやってしまうのだ。そう、つい先日まで女だったせいもあって、ついつい可愛いものに過剰反応する癖が!!
街で可愛いものを見たらウソ何コレ!となってしまったり、ついつい男前に目が行っちゃったり(完全にそっちの人である)気が付いたらお花屋さんでブーケをガン見してたりとか、これでも(ええ、これでもよ!)ボロが出ないよう必死にやってはいるんだけど…!!
「……とでも言うと思ったか」フッ、とコノカは笑った。アリエスが完全にフリーズしている。どうでもいい、言い捨て離れようとする。がメリンダが盛大に吹き出した。
「嫌だわ、ハール様ったら!」持ち前の性格らしく大笑いした。笑ってから慌てて声を引っ込める。「でも確かに的を得てますわね、パニエがちょっと目立ち過ぎ…」
そ、そう?アリエスが途惑っている。「わ、私は別に何とも…」「縫いましょうか今からでも…」
「ピンは?」
はっ、再びアリエスが硬直する。「え?」「だからね、ピンするのよ。帽子用のピンをこう刺して…」
言いかけてコノカは言葉を飲み込んだ。ごっきゅん。「…帽子のピンを」せいぜい無愛想に言ってやる。よいしょ、上手く彼女の背中の位置でパニエを留めてしまうと、くるんとアリエスの身体を回した。「いいじゃない!どうです?お嬢様」
も、もういいや……やってしまってからコノカは思った。ハール様趣味がお宜しいのね、メリンダが感心している。まあ、これでも一時期ドレスデザイナーを目指していたことはあったからで――「ついでに髪飾りはこれなんてどうです?」
派手過ぎない?コノカは思った。だがこれ以上ボロは出せない。シュバッ、別の飾りを指してやる。「あら、確かにこっちの方が良いかも……」
あああああ!コノカは思った。黒太子、仏頂面で不気味にも見える冷徹王子。鉄面皮でイケメンででもホントは優しくて。私の彼のイメージが~~~!!
ついでにと渡された櫛でアリエスの髪をせっせと梳る。この国には無いはずの編み込みにしてしまい「まあ!何て可憐!」「でしょー得意だったのよフィッシュボーン」言ってしまってから(じゃなくて―――!!)
……何だか思ったよりも良い人ですわ?部屋を出るときそうメリンダが評しているのが聞こえてきた。そ、そう?アリエスが呻いている。「わ、私は、何というか…」
そこから後は聞けない。聞きたくもない。不審者確定!!部屋に飛び込むと、ハールは耳を押さえて思いっきり床にしゃがみ込んだのだ。
その日の晩――
ハールは間に合わせに盛装させられ部屋で待機していた。昼間はやらかしてしまったが、今夜はビッグ・イベントがある。そう、それは、来賓としてやってきたアスヴェロス卿たちの噂話から偶然祖国の様子を知ることで――
えーと?コノカは、もといハールは逡巡した。確かお話では最初にアリエスが呼ばれて出て行く。「まあ叔父様!」と。その声を聞いて部屋に佇みながら、画策するのだ。これ以上自分がここに居てはならない、と。平和な家族、穏やかな生活。彼等に不要な影を負わせてはならない――
で、考える。このまま黙って屋敷を出るための算段をするのだ。幸い彼等(マクスェル家の人たち)は彼の素性に気付いていない。だからこそ、戦で傷を負った死に損ないの彼を不憫に思い親切にしてくれている。屋敷を出るとなれば、それなりの理由が要る――だが、そのとき『お客』の会話を漏れ聞いて……
アリエス!階下で奥方が声を張り上げた。伯爵夫人だ。はい!メリンダが代わりに返事する。「アスヴェロス殿がお見えよ!ご挨拶なさい!」
ああ、コノカは思った。ドアの内側にへばりつき涙する。本当は出来るなら私がやりたかったこと。楚々としているようで、意志が強く誇り高い令嬢アリエス。確か鈴の鳴るような声でこう言うのだ。「はい、只今!」と。スカートを摘んで廊下に飛び出して……
だが、そのときドアが遠慮がちに開いた。は、い……低く呻くような声がする。何だか屈辱の極みみたいな物言いで、メリンダが言った。(しゃんとなさいませ!どうなさったのです、もう?)
ずずず、とスカートの裾を引き摺る音がする。あら?そっとドアを空かすと、アリエスがよろけながら廊下に向かい手摺りに捕まるのが見えた。その足取りもまるで酔っ払いか何かみたいだ。「くっ……!」
メリンダが気付きこちらを見る。パッと慌てて扉を閉め、ハールは思った。あら…記憶を確かめる。こんな展開だったっけ?このシーン…
きゃあっ!そのとき声がした。途端にズダダン!と音が響き渡る。メリンダが悲鳴を上げた。「お、お嬢様!!」
刹那、音がした。ドッシャーンと盛大に何かが割れる音がする。玄関に置かれていた大壷だ。とっさに我を忘れて外に飛び出す。「どうしたの!じゃなかった、何だ!」
廊下に出る。そこでハールは、階段の下で誰かにしがみ付いているアリエスと、粉々になった壷を見た。
「………!」
う、そ!ハールは――コノカは思った。階段の下で誰かがアリエスを抱きとめている。金色の髪に、燃えるような緋色の目立つ見事な盛装。レリオットじゃないの!
盟友レリオット。コノカは目を剥いた。確か祖国の事態を知ったあと飛び出そうとしたハールに気付きアリエスは追いすがる。〈何処に行くのです!〉と。そこに、アスヴェロス卿付きの従者として従っていたレリオットが口を出す。(無論祖国へ。貴方の――故郷へだ。そうでしょう?ハール殿)
そして相手は口にするのだ。途惑うハールに膝をつき頭を垂れて。〝初見にて、気付きました。流れ者じゃない、貴方はハール黒太子だ――〟
コノカははっとなった。相手がこちらに気付いている。階段の上を見上げており、僅かに顔を顰めており――
ぎ――ゃあああ!!コノカは後じさった。正確には、階段の手摺りの下に隠れてしまう。護国卿レリオット!!齢二十四才にしてアスヴェロス卿の護衛に任命された凄腕の騎士!ぶっちゃけ好みじゃなかったけど間近で見るとぅぉあああ!!
頬を押さえてじーんとする。気が付くと、すぐ傍でメリンダも似た顔をしていた。(やばいしんどい…)という顔をしている。そうだった、メリンダは彼が好きだったのだ?思い出す。こっそりと見つめていたりして。(分かるわぁ、推せる……)
「――大丈夫ですか」相手は、そう訊ねた。少し長い襟足の金色の髪。水色の目が美しくハールよりずっと王子らしい容姿だ。「お怪我は?マクスェル嬢」
まあ!アリエス!婦人が飛び出してきて叫んだ。粉々になった壷としゃがみ込んでいる娘を見て仰天する。「何てこと!怪我はない?!」
「無い――と良いのですが」困ったように男は言った。階段の上を見る。「急に足を滑らせたのです。危なかった…」
「メリンダ!」婦人が叫んだ。はい!メリンダが飛び上がる。あーあ、とばっちりで叱られてしまうのだ。「お前が付いていながら…!」「申し訳ございません!」
そのときハールは口を開いた。懐からハンカチを取り出す。床に屈み込み「誰だ」呟いてやる。「こんな所に水を零したのは……」
は?途端にアリエスが振り向いた。婦人が目を剥いている。おおアリエスよ、騒ぎを聞きつけアスヴェロス卿がやってきてアリエスに手を貸した。卿の婦人も一緒に顔を出す。「何ですって?水?」
とっさに階段脇の花瓶にハンカチを浸してやる。婦人が顔を上げ、叫んだ。「――花瓶ね!昼間花瓶を変えたのは誰!」
だがそんなことよりアリエスだ。アリエスは、唇を噛むと姿勢を正した。平気です、下を向き口ごもる。まだ痛むのか顔を顰めており、膝を屈めて一礼した。「申し訳有りませんお母様……」
怪我が無くて幸いだった。アスヴェロス卿がそう言った。仕切り直すようにアリエスの肩を抱き居間に入っていく。これから食事が始まるのだ。気が付くと、メリンダがこちらを見ていた。感謝の顔で涙目になってしまっている。(ハール様ぁあ)と囁いた。(助かりましたわ…)(いーのよ、気にしないで)
親指を立ててやる。びし、向こうも親指を立て返し、そのときふいに再び視線を感じた。
レリオットだ。居間の入り口に佇み、じっとこちらを眺めている。
その顔は、微かに懸念を帯びている。だが途方も無い男前で、また美貌だ。純白のマントに金の飾りが揺れている。無理矢理仏頂面になるとコノカは相手を見返し踵を返した。角を曲がり悶絶する。
手を合わせて拝んでしまう。ああ、好き!!!あんなもんが盟友だなんてもう最高かよと……
思わずニンマリしてしまう。だが、運命は既に異様な方向に進んでいたことを、コノカはこのときまだ知らずにいたのだ。
4
食事の最中でハールは呼び出された。
正確には、下で彼等が優雅に会食中の折にだ。余りのことにあっけにとられてしまう。
流れとしてはこうだ――部屋に戻りコノカは考えていた。食事の間、脱走計画を練る。確かハールの計画は以下の通り。まず、夜の間は厩舎は見張りが無く静まっている。そこから馬を一頭拝借すればいい――
手紙を残す。『アリエスへ』 書きなぐりながらコノカは思った。確かこうだった。無断で出て行こうとして、ハールはとっさに思い留まる。初めて躊躇するのだ。唯一本当の意味で親しくしてくれたアリエスのことを。そして、とっさに机にあった紙に手紙をしたためようとして――手を止めるのだ。〈アリエス、黙って去ることに侘びを言う。俺は〉
そして途中で丸めて捨ててしまうのだ。彼女がそれを拾い、おいおい気付く。彼の素性を――それが確信になるのはあの襲撃からで、
が。手筈通りこんな感じ?と手紙を書き、くちゃくちゃと丸めてポイと捨てたハールは耳を疑った。階下から声が聞こえている。ハール!大奥様で(アリエスのお母上だ)ハールを呼ばわっている。「ハール!困ったわね、メリンダ呼んで来て頂戴」
な、んで?コノカはあっけにとられた。あれ?待ってそんな展開だった?だが階下からパタパタとメリンダの足音が近付いてくる。「ハール様――」
途端にコノカはフリーズした。血の気が一気に引いてしまう。ちょっとぉお!扉にとっさにしがみ付き、そのときノックがしてメリンダが言った。「ハール様?奥様がお呼びですわ」
何で!?ハールは訊いた。扉の隙間から覗くハールに「さあ?」メリンダが首を竦める。「お会いしたいのだと――お越し下さいませ」
ちょっと―――!!コノカは途端に拒絶した。イヤ―――!子供のように扉を閉めようとするハールに負けじとメリンダがドアにしがみ付く。何言ってるんですの!戸を破られてしまい、怒鳴られた。「しゃんとなさいませ!殿方ともあろう方が、もう!」
何を話せって言うのよ!!コノカは騒いだ。ていうか話が違うじゃないの!!?引きずり下ろされてしまう。居間は扉が閉ざされており、「何をしろと?!」「さあ?奥方様、お連れしました」
無碍にもメリンダがドアを開けてしまう。使用人らしく優雅に礼を取り、ハールは(コノカは)その場に突っ立ったままでいた。「ハール!」
パッとアリエスが立ち上がった。おやおやアリエス、アスヴェロス卿が笑う。アリエスは随分と彼がお気に入りのようだな。ゴブレットを傾け椅子に促す。「来たまえ。私の名はアスヴェロス。ソマールの執政だ」
「………」ハールは、突っ立ったままでいた。ど、どうしろと?アリエスがやってきて腕にくっ付いてしまう。だが、頭の中の情報を総動員させ「ハール」は言った。あくまで目を伏せ控えめに。「……存じております。ソマール一の槍の名手であると…」
途端に相手は破顔した。ハハハハ!頬まで繋がった口髯に銀灰の髪が目立つ貫禄ある中年だ。古い話だ――伯爵は機嫌よく笑い口出す。「君の武勲もまだ廃れてはおらんな」マクスェル卿が笑い、「何をいう!貴殿こそ」
「私の従者が君に目を留めてな」アスヴェロス卿はちら、と目をやった。壁際にレリオットが立っている。「話を聞きたくなった――君は何処から来た?」
途端にハールはぎくん、と背筋を突っ張らせた。え?こんな展開無かったはず、明らかな違和感に固まってしまう。相手は返事を待っており、更に続けた。「少々聞いた。戦場で倒れていたそうだな。手傷を負って――先のアルタイルとオスタバの戦いか。君はオスタバ傭兵か?」
軍服を見た限りアルタイルのようだが。伯爵が言った。途端にアリエスが横から口を出す。フォローみたいに。「お父様、彼は記憶をなくしております」
そ、そう。ハールは思った。それよ。とっさに頭を整理する。彼はここに居るてい、記憶をなくしているのだ。自分の氏素性も判らない――答えたのは、ただひと言、献身的に手当てし介抱するアリエスに(…ハール)と名乗っただけで……
「何と…」アスヴェロス卿は顔を顰めた。「とすると君は祖国も分からんのか?」アリエスが代わりにこっくり頷く。どういう訳か、しっかりハールの腕に捕まっており、怯えるような表情だ。「左様でございます。問い正すのは酷かと……」
すると、ここでふっと微かにレリオットが笑った。形の良い唇を吊り上げる。何だレリオット?卿が目を上げる。「申してみよ」「いえ、聞く所、全てが分からぬようですが……」
「の割に卿の武勲にかけては熟知していらっしゃる」そう言いニッコリした。卿がきょとんとし、「はは!」再び笑った。「昔語りでも聞いたか?記憶とは皮肉なものよな」
なん――ハールは、コノカは思った。何なの?奇妙な違和感が立ち込める。どう見ても、この展開はおかしい……メリンダは気付いておらず大人しく杓に回っている。何だかカマでもかけられているみたいな――「では」
この噂も耳に入れるべきかは判らんな。アスヴェロス卿は、ふうっと鼻を鳴らした。噂?メリンダが杓を止める。「君がもしアルタイルの者なら――他ならぬ悲報なのだから。逆にオスタバの者なら願ってもない吉報」「あなた」ここで初めてアスヴェロス婦人が牽制するように口を挟んだ。「お慎みになって」
何?ハールは眉を顰めた。伯爵に目配せし、卿がそっと切り出す。「実は」とハールを見据えた。「先ほど知らせが入った。王城で――アルタイルで謀反があったと」
途端にハールは目を剥いた。何だって?今、ここで?戸惑ってしまう。だがそれよりも一瞬早くアリエスが声を上げる。「何ですって?」
確かではない。伯爵が遮るように付け足した。だが机に杯を置き身を乗り出してしまう。「早馬で、先ほど届いた。王都で謀反があり――エルメンガルド王が崩御したと。仔細は知らぬが王子の謀反だ」
途端にメリンダがデカンタを取り落とした。カシャーン!音が響き、とっさに静かになる。「申し訳…!」
「故にアルタイルは王位交代し――」アスヴェロス卿が再び後を引き取った。「第一王子が即位すると。第二王子は執政になる」
なん……だって?ハールは、口をうっすら開けた。卿が微かに彼の顔を読むような目をしている。だが、それよりも伯爵が声を張り上げた。「おお、アリエス!」
ガタン、音がしてハールは我に返った。アリエスが口を押さえている。いつの間にか俯いてしまっており、その顔はたじろぐくらいの蒼白だ。頬が土気色になっている。「……そんな…」
まあ、アリエス!アスヴェロス婦人が席を立った。可哀相に!こちらに寄ってくる。「すまぬ、お前に聞かせる話でなかったな」だがアリエスは黙って細かく首を振った。「いえ、気分が…」
し、失礼します……そのまま居間を出て行ってしまう。メリンダが慌てて後を追ってしまい、ハールは置き去りになった。
「――まあ」アスヴェロス卿が、気を取り直したように口を開いた。「君も、そう気に病み給うな」そう言いゴブレットを取り上げる。「第一君にとっては吉事か凶かも分からんのだ…今はゆっくりと身体を休めて」
だが曖昧に頷き外に出てしまう。どう――すればいい?だが、お話は確実に次の段階に進んでいる。
どうすればいいの?歩きながら、思った。そのまま屋敷の外に出る。表には卿の乗ってきた馬車と御者が待っており、ハールはそれを素通りすると屋敷の裏へ向かった。どうすればいい?動くべきなの?筋書き通りに?
おかしい、冷や汗が出てしまう。さっきから妙な汗が止まらず、コノカは思った。悪い夢でも見てるみたいだ――全然話が違うじゃないの!私の知ってる流れじゃない。これから一体どうすれば。
そのとき声がした。ふいに後ろから咎めるような険しい声で。
『待て!』
矢のように声が届く。刹那、ハールはつんのめるように立ち止まった。
声と同時にハールは振り向いた。
建物の裏は闇に包まれている。マクスェル家の屋敷は広大だが、家の正面以外は静まっており――人気は無いのだ。塀に囲まれ庭に濃い影が下りており、「はい?」立ち止まったハールは気付いた。
すぐ後ろに、レリオットが立っている。
金色の髪が、一目見て彼と分かる。どういう訳か、腰の剣に手が伸びており――確かレリオットはこの国一の斬撃の持ち主。その細腕からはそうは見えないけど「……貴様、何者だ」
その瞬間、ハールは目を剥いた。はっ?思わず問い返してしまう。だが相手は少しも笑っておらず、それどころか目が底光りしており――何だか威圧するような。「答えろ。アスヴェロス殿の手前あれ以上の追求は伏せたが――」
え、えっ?ハールは、いやコノカはポカンとした。また設定変更?だが相手は僅かに顎を引いている。確か、原作では飛び出そうとするハールに追いすがり止めるアリエス。その後、見計らって物陰からレリオットが姿を現すのだ。で、こう言う。(勿論祖国へ。そうでしょう?)
えっと。「ハール」は向き直った。何だかさっきから番狂わせの連続だ?ここで名乗らなきゃいけないの?だが相手は片目を細めた。真っ向からハールを見据える。「記憶が無いと言っていたな。にしてはやけに通じている――答えてやろうか」
ハールは目をしばたいた。えっ何を?だがそのとき、レリオットは音も無く腰の剣を引き抜いた。ひぇっ、言う間もなく僅かに腰を落とし構える。「貴様、アルタイルの間者であろう!」
その瞬間相手は飛び出した。思い切り、間合いを詰めるようにして。まるで瞬時に移動したみたいに――だが、そのとき、ほとんど本能みたいにハールの腕が剣を引き抜いた。
音がする。ギィイン!耳が痛くなるような音がして、気が付くと顔の前に抜き身の白刃が静止しておりハールは叫んだ。「ぎ――ぎゃああああ!」
ち――コノカは思った。ちょっと――――!!だが再び音がして剣が弾き返される。ギャリィッ!鼓膜が振動し、ま、ま、コノカは思った。再び打ち込まれる。どういう訳か身体は勝手に動いて受け止めているけれど。『待って――――!!』
鬼!!そう思った。相手の目が光り緩慢に弧を描く。魔力を溜めているサインだ。レリオットは魔法にも明るい。コノカはゾッとした。このままじゃ、至近距離で撃たれて殺される!
その瞬間、ボッと音がした。レリオットの左手に光が宿る。まずい、思った瞬間、出し抜けに声がした。『お止めなさい!!』
刹那緑色の光が横から飛び出した。魔法を無効化する反転魔法、それはレリオットに直撃し、
きゃああ!!メリンダが叫んだ。ドッと音がしてレリオットが吹き飛ぶ。思い切り横から跳ね飛ばされたみたいに。「レリオット様!!」
目の前に、アリエスが飛び出した。一体どうやって――というくらいの速度で章印を結んでいる。アリエス、ハールは目を剥いた。彼女こんなに強かったっけ?だがそのときレリオットが剣を突いて立ち叫んだ。「アリエス殿!」
「下がって!下がるのです!」アリエスが言った。メリンダが口を押さえている。「この者を傷つけてはなりません!誰か!」
な、に。レリオットが目を剥いた。声を聞いて家人が飛び出してくる。「しかし――」レリオットが口を開き、叫んだ。「この者は恐らく間者です!」
へっ!?コノカは思った。やっぱりだ――同時に今度こそ確信してしまう。やっぱりだ、私の読んだお話と違ってきている!
「聞くと戦場で倒れていたとか」レリオットは睨んだ。顔に怪我をしてしまっている。メリンダが駆け寄ろうとしており、「記憶が無いと言うのもすこぶる怪しい――もしや、陛下を裏切る売国奴!」
そのとき使用人が流れ込んできた。アリエス様!彼等を見付けて飛び出してくる。何だ!一体どうした!アスヴェロス卿まで出て来ており、目を剥いている。彼の目は、剣を抜いたレリオットと、ハール、そして印を組んだままのアリエスを眺めており、
「こ、これは、その!」メリンダが慌てた。そこでようやく我に返る。屋敷の裏で抜刀だなんて――絶対やってはいけないことだ。アスヴェロス卿が目を剥いた。「説明せよ!レリオット!!」
途端にアリエスが遮った。叔父様、違います。急いで口に出す。「実は夜風に当たろうと、外に出ておりましたの。すると木陰に誰かが居て――」
横目で激しく目配せされる。わ、私?鼻を指してしまい、「そそ、そう!で、彼女がいきなり悲鳴を上げて――不審者だと思った彼が斬りかかってきて!」
メリンダが付け足す。「ハール様がとっさに防がれたんですわ」三人順番に交互に喋り合う。「あーもう、ビックリしましたわ、よく防げましたわねハール様」「いやー参った参った死ぬかとははは……」
沈黙が訪れる。余りの事態に、凍りついたような。アスヴェロス卿が、どうにも納得しかねる――そんな顔をしており、レリオットは石のように沈黙している。本当か…?そんな目を向けられ、三人は揃ってカクカク頷いた。『そらもう!間違いなく!!』
ゆ、優秀な従者をお持ちですな……「ハール」は言った。多分彼ならそう言うはず、無理やり言葉を捻り出す。「凄まじい斬撃だ。流石は護国卿レリオット殿」
何?レリオットが目を剥きこちらを見る。知っているのか?アスヴェロス卿がハールに目を向け、だが、アリエスがパンと手を叩いた。「有名ですもの!ささ中に戻りましょう!折角の酔いが覚めてしまいますわ」
何とも言えぬままその場を後にする。メリンダ喉が乾いたわ、お茶を用意して頂戴。さっさとアリエスが中に入ってしまい、『ハール』は呆然とした。まだ頭が混乱している。だが――
「――おい」
声を掛けられ、再びハールは固まった。は、い…ぎこちなく答えてしまう。レリオットは前に立っており、こちらを振り向いている。まださっき見た鷹みたいな目をしており――
「……不意を突いたことには侘びを言う」そう言った。唾でも吐きそうな表情だ。「よくぞ剣を受けた。だが、覚えておけ。次は無い」
は……?ハールはフリーズした。それは、『盟友』にあるまじき疑惑と敵意の念だ。それどころか是が非でも“その化けの皮剥いでやる“とでも言うような…
「貴様の正体を、必ず暴く」そう言った。振り向き顎まで反らしてしまう。「家人に上手く取り入っているようだが、忘れるな。貴様が口を割るまで容赦はせん――」
俺は貴様の敵だ。不審者め。
は………何かにヒビが入る。それは、コノカの頭でビシッと音を立てた。レリオットは行ってしまい、コノカは思った。は、はああああ~~~!!?
なん――なのよ?棒立ちになる。それどころか、推しに拒絶されるのは想像以上の(大)ショックで、コノカは愕然としながら立ち竦んだ。
やっぱり、おかしい……!盟友どころかスパイ疑惑の不審者扱い……!!?
(俺は貴様の敵だ)
頭にループする。メリンダが迎えに来てくれており、それを見て、もはや構えずに、(も、もう、イヤぁあ―――!!)今度こそ絶叫するとコノカは全力で地面に突っ伏した。
5
それから三日というもの、ハールはレリオットの情報集めに入った。理由は複数ある。それは、まず革命を成功させるには彼の援けが不可欠であることで――
我が子に殺され、城壁に吊るされ曝された前王エルメンガルド。その知らせを受けハールは絶望する。首謀者が他でもない兄たちと知り激情に駆られるハール。それを、押さえろ、と必死に引き止めるのがレリオットで――
今は時期尚早、彼はそう言うのだ。曰く兄たちはハールの存在を最も警戒していると。既に敵の手に落ちた第四王子の身も懸念されるが――残す所は、最後の一人、唯一の血縁者ハール。前王を嗜虐した罪は例え王子でも重い。民心が離れることを兄たちは何より恐れているはず――
そこに死んだと報じられていたハールが戻ってこればどうなるか?レリオットは必死に説くのだ。(もし貴殿が名乗りを上げれば民たちは貴方に従う。だが兄君はそれを是が非でも阻止するでしょう。下手を打てば多くの命が奪われる――今はどうか収められよ!)と。
そしてレリオットの予想どおり、兄たちはハールの消息を嗅ぎつけ軍を差し向けるのだ。包囲された際名乗りを挙げ、姿を眩ますハールとアリエス。だが関所はとうに封鎖されている。それを護国卿の名のもと通過させてくれるのがレリオットで……
ソマールとアルタイルを結ぶ無数の関所。コノカは思い浮かべた。そして、アルタイルの城下に聳える鉄城門。それはレリオットの援けなくては突破不能だ。迂闊にノコノコ近付こうものなら、剣でメッタ刺しか、魔法で蜂の巣、下手すりゃ竜の餌になって生きたまま真っ二つの裂きイカに……
だがあの調子では到底無理だ。はあ、とハールはお茶を飲みながら溜息を吐いた。トホホな顔で涙を浮かべているハールをメリンダは気にしてくれている。あれ以来、メリンダはどうやらハールに好意的で(そりゃありがたい、ありがたいんだけど)あれこれ世話を焼いてくれているのだ。「ハール様、お茶でもどうです?」呼ばれてハールは大人しくお邪魔した。頼れるのは今や彼女だけ……
「レリオット様の情報?」ポットからお茶を注ぎながら、メリンダは言った。微かに眉を顰めている。「有りますけど、何故です?何故急にそんなことを…」
いやぁ――「ハール」は弱ったように笑った。が、慌てて真顔になる。何でもない、せいぜい仏頂面に付け足すと、「ただ、その……どうやら誤解があると言うか……」
メリンダはまだ顔を顰めている。間が持たなくなって、お茶をひと口飲んだハールは途端にボロを出した。「やだ!これ美味しい!」
でしょー!メリンダは途端に笑顔になった。陶器の『これだけでも持って帰りたい!』と言うような可愛いポットを出してみせる。「新種のお茶なんですのよ!薔薇とカモミールがたっぷり入ってて」「可愛い~!!」
「………」コホン、とハールは咳払いした。もう今更、彼の(もとい彼女の)可愛いもの好きは隠すまでもないらしい。メリンダはクッキーを勧めている。「で?一体どういうことなんですの?ハール様」
いやね、ハールは息を吐いた。もう隠す気にもなれず先日のことを告げてやる。不審者呼ばわりされていること、ついでに敵だと宣言されたこと。「あらぁ…」
いいんだけどね別に…ハールは独りごちた。べ、別に良いのよ?別段そこまで推しでもなかったし、嫌われるのは構わない。ただ、問題なのは彼の援け無しでは話が進まないという事で……
金髪の王子のような見た目の男。ハールは思い起こした。確かに美形でルックスがいい。剣の腕といい声のトーンといい、あれに嫌われるのは確かに相当キツいけど……
メリンダがちょっと頬を赤らめている。思い出しているのだ。先日の訪問時の夜会服。護国卿の制服が凛々しくていっそ尊い。「しんどい無理…」「分かる…」
だが薄い本的展開は断固ナシだ。ハールは目を据えた。そういう意味じゃなく、とかく仲間に引き入れねば?メリンダが唇をすぼめた。「ライバル心の可能性は有りませんの?ほら、だってハール様」
途端にハールはきょとんとした。メリンダが腰の剣をちらと見やる。「ハール様、剣の腕は立たれるようですし。先日も奇襲を防ぐだなんて…」
それなのだ。ハールは目をしばたいた。まさか防げるとは思ってなかったけど?いきなり斬りかかってきて、本当なら斬られるか殺されるか確実にしていたのだ。だが勝手に手が動いて彼の剣を見事に受けて。
「レリオット様は、ご存知護国卿と謳われるほどの方ですし」メリンダは目をしばたきながら続けた。「斬撃はこの国一とも言われています。まさかそれを受けるだなんて、正直意外で…」
メリンダは掬い上げるような目付きをした。途端にうっかり慌ててしまう。やだー偶然よ!両手を振り「ていうか絶対手加減してたって!本気だったら今頃とっくに」
言ってから、ハールは口をつぐんだ。そう――その可能性もある?手加減したとはいえ、自分の剣を止めた男。相当腕が立たねば出来ないことで……
「兎角疑われきりで」はあ、とハールは肩を落とした。「……不審はこの際認めるが?確かに素性は知れないし、少々怪しい自覚もある。だが再々見張りに来ることは…」
途端にメリンダがギョッとして椅子を鳴らした。見張り!?窓を向いてしまう。レリオット様が?!「そうなのよー、今朝なんて気付いたら門の外からガン見してきてめっちゃビビって…」
そこまで言ってからハールは口をつぐんだ。メリンダが急にそわそわしはじめている。中腰に窓の外を覗いており、ああ、そうだった。ハールは思った。メリンダはレリオットが好きだったのよね?密かに目で追う意中の人。
ふとハールは動きを止めた。メリンダは(そうですか…)と呟いている。ま、毎朝来ますの?屋敷の近くに?盛んに気にしており、ハールの顔に気が付くと慌てた。「いえそんな妙なことでは!」
閃きとは、突如として訪れるものだ。ハールはじっとメリンダを見つめながら思った。メリンダは赤くなってしまっている。「違いますのよ!そんな、気にしてるとか、そういうのじゃ…!」
ポン。ハールはメリンダの肩を叩いた。メリンダが硬直してしまう。いいのよ、ハールはにっこり笑った。隠さなくても…
そう――だったらこの手がある?
「メリンダ」ハールは前のめりになった。きゅっと両手を捕まえてやる。
「ね、良い案が有るのよ。まあメリンダ次第なんだけど?」
ちょっとお互い協力してみない?
そう言いウインクしてやる。途端にメリンダは口と同じくらい目をまあるく見開いた。
「ぎ、逆スパイ?!私がですか?」
全てを聞き終えるとメリンダは真っ先にそう言った。よほど意外だったのか自分で鼻の頭を指してしまう。「レリオット様を?!」
ざっと言えばこうだ。ハールは笑った。レリオット攻略にはどうも彼女の援けが不可欠になる。なら、こうだ。『いっそのことくっ付けて仲間にしてしまえ作戦!』
レリオットは、どうやら相当勘が鋭いらしい。ハールの違和感にもとうに気付いている。だからこそ、ここ数日市内巡察のふりをして屋敷に足を向けているのだ。ならそれを逆手に取るまで。しょっちゅう覗きに来るならこっちから情報を掴ませてやればいい?
ただしこちらに都合の良い情報を。ハールは笑った。「まず、メリンダ。暫く一人で外をうろついて」
メリンダは目をぐりぐりさせた。ハールはお茶を片手ににっこりした。
「レリオットは、今頃相当気を揉んでる。だって屋敷の中に裏切者のスパイが居るかもしれないんですものね?先日言ってたわ、『貴様の正体を暴く』って。だから屋敷の中の様子を知りたいはず!」
それには使用人の言葉が一番信用できる。ハールはニッとした。「知ってる?どんな場所でも一番の情報通は使用人なの。奥様の下着の数、旦那様の癖と帰宅時刻まで熟知してる。だからメリンダ、あなたが敢えて捕まるのよ」
つ、捕まる?メリンダは片手を頬に当てた。妙な連想をしているらしく赤くなっている。「そう!一人で居たら絶対向こうは接触しようとしてくるはずよ――そうね、こんなとこじゃない?偶然を装って近付いて――『最近屋敷で変わったことはないか』って」
メリンダは前のめりになった。なるほど……で?というような顔をする。「そうね、最初は相手の顔でも見返せばいいわ。どうしてそんなことを……って。そこから後は黙ればいい。勝手に向こうが何かを勘繰る」
沈黙は雄弁な肯定。ハールは笑った。「多分向こうから切り出してくるわ。もしやハールが怪しいのではって。後は適当に合わせればいい。確かに少々変かもって!」
「でもそれだとハール様が――」
まあいいから聞きなさいよ。ハールはニヤニヤした。「向こうは情報を掴みたい――だから、何か有ったら告げてくれ、と言って来るはず。そうね、どうせ毎日顔を出すとかそんなんじゃない?もしくは会う時間を設定してきたりして!」
あとはメリンダ次第よ。ハールはにっこりした。「最初は怪しい、相手がいかにも喜ぶ情報だけ流せばいい。あ、徐々にメイクは忘れないでね?ナチュラルメイクよ。ちょっとずつ、こう、糸を引いていく」
なるほど……メリンダは何かを引っ張る仕草をした。ハールと一緒に手をクイクイやる。完全に危険な会議状態で「こう、じんわりと」「そそジリジリ……」
「日が進んできて、少しは脈有りに思えてきたら、そんなに怪しい方では無さそうですわ、とでも言えばいい。ただの可愛い物好き?とか。最終的に、貴女がある情報を流せば相手は食らいつく」
メリンダは途端にきょとんとした。「ある情報?何か有りますの?」と言う。「まあそんなとこ…」
レリオットは、確か前国王に借りがある。ハールは思い出した。そう、あれはちょこっと話に出てきただけだったけど――彼は元々、アルタイル生まれだ。だが家族が無く遠縁の身内を頼ってここソマールへ流れてきた。通行の手形がなく関所をくぐるのは死罪。幼い頃、関所破りで捕まり殺されかけていたレリオットを、偶然通りかかった前王エルメンガルドが助けるのだ。彼自ら手形の変わりに封蝋(シール)を与え、肩を叩く。「好きに生きよ」と。
そのお陰で彼はソマールで雇われた。隣国とはいえ王家の封蝋を持つ少年に貴族は優しい。そこで教育を受け、武芸を学び、そして今の彼が有る――
だからそれを利用してやればいい。ハールは内心笑った。あれから確かめた。ハールの持ち物と身なりと装備。彼は自分の身元に繋がるものを隠していた。案の定、肩の甲冑の裏側に王家の紋章を刻んだインタリオ(封印つきの指輪)を隠していたのだ。
これが彼の甲冑に隠されていた、そう言わせればいい、メリンダに。彼女が偶然掃除の最中に見付けた事にして?王家の章の刻まれたインタリオ、つまり彼は王子だと!
ふふふふふ、ハールは笑った。薄笑いを浮かべているハールをメリンダは完全に不審がっている。わ…分かりますけれど、呻くように目を上げた。「どうも見えませんわね?そこまでしてハール様に何の得が……」
有るとも。ハールはコホンと咳払いした。とかくお前は従えばいい…言ってからメリンダの目を見る。彼女はますます疑いの眼差しになっており、ああ、コノカは溜息をついた。分かったわよ、じゃあこう言えばどう?
「恋バナ好きなの」言ってやった。「ついでに友達の恋は応援したい主義。分かった?」
メリンダは目をぐりぐりさせた。更に言い足す。「もいっちょ言うと楽しいし…」
女とは実に単純なものである。メリンダはあっさり(それはもうあっさりと)納得してくれた。
6
翌日――
正午過ぎになって、メリンダはハールの部屋にブッ飛んできた。隠密ともあるまじき、凄まじい勢いでダッシュしてくる。「ハール様ハール様ハール様ぁ―――!!」
バッシーン!盛大に扉を開け閉てされてハールはビビった。丁度遅めの身支度をしていたところだ。今日は朝からアリエスが教会に赴く日である。アリエスはこの国でも珍しい、女性だけが崇拝する女神信仰の信者で、朝一番にその礼拝堂に出かけていくのだ。当然男性はお荷物ゆえお留守番…ついでに信者以外もお留守番。メリンダが凄い勢いで部屋に入ってくる。「聞いてくださいませ!言われた通りでしたわよ!」
やっぱりね。ハールはふふんと鏡を向いたまま笑った。借りた貴族の礼服に身を包む。格好良いけど、やっぱりアリエスの可愛いドレスが羨ましい……というのは置いといて、ハールは聞いた。「で、どうだった?上手く約束に漕ぎつけた?」
メリンダは頷いた。鼻息も荒く、そらもうバッチリと、というように。「今日はお嬢様が女神崇拝の日でしたから朝が空いておりましたの。なので、お茶を買おうと外に出たら――」
バッタリ鉢合わせた。偶然を装って、ちゃっかり張り込んでいたレリオットと。
「やだもービックリしましたわ!」メリンダは顔じゅうに笑みを浮かべながら言った。「だって、向こうから話しかけて来るなんて初めてなんですもの!「今帰りか」と言われて、会釈したら向こうから寄って来られたんですのよー。「待て、女手には重かろう」なんて!」
ぎゃ――――!ハールは叫んだ。早速フラグ立ててるじゃないの!思わず向き直る。「で、で?」「荷物を持って頂きましたわ!!『そこまでだ。送ろう、遠慮するな』ですって!」「何それ裏山!!」
「ま、まあそんなので」コホンとメリンダは咳払いした。「…思った通りでしたわよ。訊いてこられました。最近屋敷で何か変わったことはないか、と」
そこから後は筋書き通りだ。ハールは真顔になり黙った。沈黙は雄弁な肯定。どうしてそのようなことを……口篭るメリンダにレリオットは訊ねる。「もしやあの男か」
イエス。メリンダとハールは揃ってガッツポーズを取った。
「べ、別に目立ったことがあるわけではないんですのよ」メリンダは言ったという。「た、ただ、どこか違和感というか……中々部屋から出て来られないですし、それに、何かを考えていらっしゃるような…」
お、おお……聞きながらハールは思った。それってまさにロイヤルギルティの筋書き通りだわ?思わず目が光ってしまう。当初、本来なら怪しんでいたのは侍女のメリンダ。中々部屋から出てこず、常に何かを考えているような様子の男に、当然ながら不審感を抱く。仮にも同じ屋敷には妙齢の娘が住んでいるのだから…しかも、彼女の主人アリエスは何故かハールに好意的だし……
部屋を探れど何も出ない。だが確実に募る不審感。そんな折、隣国での謀反の知らせが流れてくる。本来の筋書きでは飛び出そうとするハールを引き留め盟友となるレリオット。だが、彼等の繋がりが強固になる一方で、一層孤独感を強めることになるのは他でもない彼女で……
「ま、まあそんなので、怪しいとは思いますと答えたんですの。そうしたら「やはりか」と。で、で!ここからが本題なんですのよ!「実は俺も不審な者だとは踏んでいる。間者と決め付けるのは早計だが、そちらの主のため、我が卿のため、少し協力して貰えないか」と!」
ハールを見張り、逐一動きを知らせて欲しい。そう言ったというのだ。「出来れば毎朝でも――こまめに声を掛けさせて貰う。貴殿に頼めるだろうか」と!!」
いよ――…っしゃ、ハールは声のないガッツポーズを取った。メリンダは興奮も冷めずまだ頬を赤らめている。「で、でも」とふいに不安げな顔をした。「よろしいんですの?本当に。だって、これだとハール様が本物の不審者になってしまってますし…」
いーのよ、ハールはウインクした。気にしないで。唇を吊り上げ肩を叩いてやる。「そっちが上手くいけばそのうちこちらの誤解も解けるでしょうし…ありがとメリンダ」
すると、メリンダは目をぱちぱちさせた。変わった御方ですわね…とでもいうような顔をしている。だが、ふいにぷっと吹き出すと突然笑い出した。「す――すみません、何だか」
「?」
「私、誤解してましたわ」メリンダは首を竦めると苦笑した。「ですから謝らないと?ハール様、とってもいい御方ですわね」
ハールはきょとんとした。だがメリンダはにっこりしている。「最初は何て怪しい方かしらと思いましたけど。でもこうして見ると、凄く明るいし、何と言うか……」
趣味も合いますし、そう言いニコリとする。そう言われると悪い気はしなくて、ハールはにっこりし返した。「嬉しいですわ、ハール様を理解できて」
メリンダは行ってしまった。はあ、その足音を耳に密かに独りごちる。本来なら、アリエスの姿だったらもう完璧だったんだけどね……女性としてメリンダとも親友になれるし、大好きなハールとも一緒に居られて。でも…
世の中そうは上手くはいかないもんよね。「ハール」は思った。多々問題のある部位を鏡でチラ見する。コレとかアレとかあーゆーやつとか。いい加減多少は見慣れたけど、好きな人のそんなのを見慣れるのは流石にどうよと……へへっ…
ま、まあ仕方ないけど?無理に頭を切り替える。とにもかくにも、メリンダのお陰で話は第二の段階に入った。そんなら次は新たな手に出るまでだわ…
コンソールに近付き、引き出しをまさぐる。あろうことか、定期的にこの家の主人が渡してくれている小遣いを出すと、ハールはポンと宙にそれを投げキャッチした。
ふふん、と唇を吊り上げる。今に見てなさい、レリオット?
「な、何です?一体。朝から騒々しい……」
翌日の朝、とんでもない鳴き声と共に起こされたアリエスは、ハールの部屋を覗くや否やそう言った。部屋の中で、悲鳴を上げている二つの生き物が居る。一つ、不審者ハール。もう一つは籠の中で盛大に声を上げている隼で――
ギャギャギャギャギャ、ギャ――――!!隼は屋敷じゅう響き渡る声で盛大に喚いた。ああもう!耳を押さえて唸ってしまう。うるさい!もうどこまでも斜め上なんだから!メリンダが閉口しており、箒を手に言った。「なんだってこんなもの買って来られましたの…」
ロイヤルギルティの筋書きはこうだ。どうにか祖国に連絡が取れないか、考えた結果ハールは一羽の隼を求める。伝書鳩や鷹商用の鳥を扱っている店で、一羽項垂れていた手負いの鳥を。祖国はアルタイル。どうも心無い商人に闘犬ならぬ闘鳥用に捕まえられ、案の定手負いになり捨てられていたところ拾われたらしく…
こいつは使い物にならんよ、主の言葉をよそにその隼を求めるハール。折れて曲がって繋がった翼を、魔法で癒してやり使い魔としての契約を結ぶ。こいつが話の後半で大活躍してくれるのだ。ハールのもう一人の盟友、隼のアスガルドで……
だが、今籠の中でギャンギャン鳴いている隼は全くの別物だ。それ、隼の鳴き方!?というような鳴き方をしている。ついでに頭には何故かピンクのオウムのなり損ないみたいな毛が生えており、ハールに向かって叫んだ。「ヲギャ――――!!」
な、何をしたんですの、ハール様……メリンダがドン引きしながらそう言った。何もしてないわよ!泣きながら言ってやる。「コイツ、羽根が変だし治してやろうと思って。で治そうとしたら…」
呪文集の基礎の本を出してくる。本屋で買い求めた、『サルでも分かる魔術の基礎』。なんですのそれは……メリンダがうんざりする。「失敗するハズないんだけど!なのにトサカが生えてきちゃって……」
……ぶっ。アリエスが笑った。というか、吹き出した。ぶ、ぶぶっ…「笑った――――!!」
「だ、だって」アリエスは初めて笑うと言った。「あ、あんまり…なんですもの。何をしてこんなことに……あ、あはは!」
酷い!ハールは嘆いた。「と、とりあえずこの頭何とかしなきゃ…さっきはオレンジだったのよ、このトサカ。でも何故か今ピンクに……」「動物虐待じゃないですのよ~~もう」
つとアリエスが籠に手を出した。お嬢様!メリンダがとっさに箒で身構える。だが、再び隼が(もういい。格好良い名前付けてやらない。あんたの名前は「ぶさ子」よ…)嘴で突こうとした途端、ふわりと淡い水色の光が広がった。スッと頭のトサカが消え元通りになる。
アリエスは印を組んだ。音もなく。それは金色の輪で、隼の体の回りに現れると、羽根に向かってじわじわと広がっていった。眩い光が籠に満ち、あっと言う間に癒してしまう。
「………」ハールは目を丸くした。メリンダが何故かドヤ顔している。嘘、凄い…ハールは目をしばたいた。アリエス――やっぱり彼女こんなに魔法が上手かったっけ?
すっかり隼は大人しくなってしまった。ついでに心を静める魔法もかけたらしい。不思議そうな、澄んだ目でアリエスを見つめている。だがハールが手を出すと途端にズガァン!と嘴で攻撃し『ギャ――――!!』
「ふ、ふふっ!」アリエスが笑った。ふふふふふ!口を抑え笑っている。それはまるで花みたいで、やっぱり羨ましくなるような美しさ。「ね、ねえハール」アリエスはこちらを向いた。「この子、私に貰えない?私が飼いたいわ」
…マジで?ハールは言った。またしても斜め上。「ぶさ子を?」「何ですのその悪意ある名前……」メリンダがすかさず唸る。「…いーわよ、じゃなかった。いいぞ。コイツ可愛くないし」
ありがとう、ハール!アリエスはにっこりした。籠を大事そうに抱えてしまう。隼は何故か大人しくしており、こちらを見るとケッ、というような顔をした。こ、この野郎…思ったハールをよそに、アリエスは目を細めた。「…そうね、じゃあ、名前はアスガルド」
途端にハールは目を剥いた。だがアリエスは上機嫌で出て行ってしまう。それって…名前――だが数瞬してから戻ってくる。何故か犬を連れており、「ごめんなさい、じゃあ、ついでにこの子と交換して貰える?」
へっ?ハールは目をしばたいた。それはアリエスの飼い犬だ。確か彼女を守っていた長毛種の大型犬。だがアリエスは困ったような顔をしており、
「……この子、私になつかないの」そう言った。それはアリエスが国を離れて隣国に乗り込むとき唯一気にした存在だ。不意に祖国を追われ、ハールの故郷に乗り込む決意をしたアリエスが、呟いたこと。(国を追われるってこんな気持ちなのね…)
焚き火で身を竦め、眠りながらアリエスは呟くのだ。(ラリマー、良い子かしら。あの子は私が居ないと寂しがるの。きっと今頃泣いてる…)
ラリマー、だっけ?ハールは聞いた。え、いいの?それって凄く大事な子なんじゃ。だが今アリエスの横に居るラリマーは何故か身体を横に反らしている。「さあ、ラリマー」促された途端、『バウ』思い切り彼女の手に噛みついた。「………」
「こ、こんな調子だから」アリエスはそそくさとあとじさった。手を擦りさすりしている。それってハールがされたことじゃなかった?最初に手を出した途端、思い切り手にバクッと。だがハールは試しに屈み込むと手を鳴らした。「ラリマーおいでー」
途端に犬はワン!と鳴いた。パッと飛びついてくる。え、えっ?あれ?犬はじゃれついてしまっている。「そ、そういうことだから……」
アリエスは行ってしまった。残された部屋で、きょとんとする。やっぱり変…思いながら犬に屈み込んだ。「ラリマー、お手。お座り、おまわりー」
まあまあまあ、メリンダが目を丸くした。ちゃんと出来るんじゃないですの?ラリマーったら……呟いている。犬は従順そのもので、「よーしよし」頭をわしわししながらハールは思った。やっぱりだ。何だか、彼女と私の筋書きが入れ違っている……?
奇妙な違和感が立ち込める。ま、まあとにかく仲間が出来たのはありがたいけれど。ラリマーだって、確か心強い仲間だし。物凄~くありがたいけど。
……これって、もしや……
少し調べる必要性がある……?目をちまちまさせると、ハールはラリマーとそっと顔を見合わせた。
7
「隼を飼った…だと?あの男がか?」
二日後の昼、レリオットはそう言った。いつもの如く町に出てきたメリンダを捕まえて一緒に歩いている途中だ。メリンダの横にはラリマーが歩いており、大人しく彼女の買い物籠を口に咥え下げている。レリオットには、ラリマーはアリエスの犬だと思われてるからバレてない。まさかもう一人スパイが真横にいるとは思わないらしく(……良くないな)
(何がですの?)メリンダはきょとんとした。今、ハールは怪しい占い師さながらの状態で部屋のカーテンを閉め机の上に突っ伏している。ついでに頭から布を被り、真ん中に水晶玉を置いて、残り二方向からメリンダと犬が一緒に覗き込んでいた。
(…鳥を飼うということは、外部の者とやりとりしようとしていることだ)レリオットは、言った。水晶玉の中で端正な顔をしかめ考えている。襟足やっぱり長めだけど、エグいイケメン。メリンダがニマニマしている。(そう……なのでしょうか?だって、ハール様、魔法が本当にお下手で頭にトサカを生やされてたんですのよ?)
メリンダったら!ハールは唸った。すみません~つい、メリンダは失笑している。(トサカ?)(ええ、トサカ。翼を癒し損ねて変な頭に…)
するとますますレリオットは唸った。(余計怪しい)眉を吊り上げる。(動物の治癒は基礎中の基礎だぞ?そんなもの、失敗する訳がない。やはり安心させようと意図的にやっているとしか――)
どこまでも疑うのね、アンタ。ハールは内心独りごちた。何かこいつ嫌いになってきたかも…密かに思い唸ってしまう。ラリマーも同感らしくウー…と唸っており、(兎角、油断するな。間者の基礎は確実に紛れ込み用心を解くことから始まる。油断したが最後、命はないぞ)
ああ見えていつ本性を出すかも分からん。レリオットは重ねて言った。(隼の動きにも注意しろ…何か掴んだら、知らせてくれ)
そう言い屋敷の前で足を止める。いつものていで、屋敷まで送ったらしく、メリンダに持っていた荷物を手渡すと言った。
(お館様に宜しく伝えてくれ)託ける。と、ついでのようにメリンダを見ると付け足した。
(その髪形、良く似合っている…)
うおおおお、お!!?途端にハールは叫んだ。メリンダも何故か犬も同じ顔をしている。「でしょ?!もーハール様のお陰ですわよ!」「やったわねメリンダー」
ラリマーもよしよし。ハールは頭から布を取りながら犬の頭を撫でた。先日からハールはある行動に出ていたのだ。それは、こうして密かにこちらからも敵の(悲しいかなレリオットだ)内情を探る一方、アリエスの動きも密かに探ることで……
本物のスパイみたいで気が引けるんだけど。ハールはトホホ、と肩を落としながら思った。まず朝一番にメリンダに提案する。悪いが、今日はラリマーも散歩に連れていってくれないか?と。メリンダは目を丸くする。「あらまあ、何故です?」
籠を犬に渡してやる。中には昨日一日さんざっぱら失敗して作った覗き見用の魔法のかかった水晶玉が一つ。そりゃもう悲惨な状態で、火傷はするわ爆発するわ指は切るわ(嫌い!魔法なんて大嫌い~~!!)
どうにか成功したものをラリマーの咥えるお使い籠の中に入れてやる。(いーい?ラリマー。これから凄くイケメンだけどお堅い男と一緒に歩く形になるけど、良い子にしてるのよ?)(バウ)
で、ちゃっかり二人の様子を覗き見る。百聞は一見にしかずというやつだ。レリオットがどの程度不審感を持っているかも、ついでにどんな思考回路をしているかも。「やっぱり不審者扱いみたいね…」
まあ、仕方ないっちゃ仕方ないけど?ハールは諦めてカーテンを引き開けた。この水晶、頂けません?メリンダは言っている。記憶媒体みたいなものなのでレリオット観賞用に使うのだ。「良いけど作るの大変なのよ…」「大丈夫ですわ私が作って差し上げますから」「マジで?うう…」
本当に下手くそなんですけどね。メリンダは顎に手を当てて歎息した。「こればっかりは、実際に見ないと分かりませんわね…レリオット様も、誤解なされてますわ~~」
「そんなに魔法下手?メリンダ…」
そりゃもう。メリンダはバッサリ断言した。「基礎中の基礎ですもの。昨日の治癒にしても、この「覗き玉」にしても、子供が勉強を教わって二日か三日目に習うものですわよ?子供はこれで遊んでますし」
つまり足し算引き算のレベルって訳ね。ハールは肩を落とした。「それも記憶の影響なのかしら……ハール様、記憶を無くされてますでしょう?」
ようは頭打ってバカになってると言いたいわけね…ハールはますますチョチョ切れた。それでは、また。メリンダがお辞儀をして去ってしまう。ラリマーがちょこんと横でお座りしており、もう一度よしよしするとハールは目を上げた。
ここから先は、メリンダにも内緒だ?ハールは素早く扉に近づくと外の様子に聞き耳を立てた。実は昨日からハールは動き出していたのだ。申し訳ないかなラリマーの首をわしわしやる。「行ってきて、ラリマー」
ラリマーは走り出した。この国では、使い魔の契約をしなくとも相性の良い動物とはある程度の意思疎通が出来る。これぞ「天性の魔力」というやつで、よほど仲の良い動物なら飼い主の意図が分かるのだ。ハールの部屋を出てラリマーはてててと足音を立てアリエスの部屋に向かっていった。器用に前足でドアを開け、中に入る。
ごめんね、アリエス。ハールは片目を閉じた。隼の動きに注意しろ――とはよく言ったものだ。内心思い笑ってやる。そう、実は私もそう思ってたのよ。怪しい動きがあるなら先ずあれだと?
ロイヤルギルティの筋書きではこうだ?本来なら、ハールと使い魔の契約を結んだ隼は――アスガルドは、ハールの手足となって密かに動く。祖国に居るハールの唯一の仲間、剣術の師であり元司祭クザーヌスに手紙を送るのだ。何て送ったかは分からないので私では動けないんだけど…(ていうか、魔法ほとんど使えないから使い魔契約とか結べないし)、だが返事を見てハールは危機的状況を知る。兄たちが、軍隊をここソマールに向けていること。じき到着し、彼を――ハールを見付けて殺そうとしていることを。
この助言が有ったからこそハールは間一髪で危機を免れるのだ。常に魔法を手に溜めていた、だからこそ、あのとき、奇襲を受けたときも、ともすれば致命傷になりかねない攻撃を防げたので……
声がした。アリエスの部屋で盛大な鳥の鳴き声が。良かった、つまりまだ隼は部屋に居る。戻ってきたラリマーを見てよしよししながらハールは思った。アリエス――彼女を見ておく必要性がある?
何だか良く分からないけど、勘なのだ。ハールは密かに目を据え思った。それは説明が付かないけれど、どうにもならない違和感。彼女を用心しなければならない、と。ハールの立てた『仮説』にはまだ遠いけれど――もし本当に「そう」ならきっと遠からず隼は動くはず。絶対に。だからその瞬間を押さえればきっと謎は解ける!
き――ゃああああ――――!!声がした。メリンダだ。足音がして飛んでくる。鬼神の顔で。「ハール様!!」
う、っ。ハールは思った。またか、とっさにラリマーを見る。ラリマーはフンとしており、すましたようにお座りしてそっぽを向いている。「またですわ!この、ラリマーったらとんでもない犬!!」
言うなり火箸が飛んでくる。ついでにちりとりも。「どうして毎回お嬢様の部屋で粗相をするんですのこの子は~~!!」
戻ってきたアリエスが固まっている。部屋の奥に、ついでに「ぶさ子」(アズガルド、だ)の籠の側にデカデカとモザイクを掛けなきゃならないものが居座っており…
「か、鍵かけたら?」ハールは言った(かけられちゃ困るんだけど)。「ダメです!」メリンダは歯噛みしてちりとりに灰を入れている。「令嬢たるもの、いつどんな事態があるかは分かりませんもの!部屋の施錠は命取り!」
ラリマーはしれっと床に横になっている。捨ててきて~~!メリンダにモザイクつきのちりとりを押し付けられ、ハールは思った。
動きはない。まだ。もし隼が消えたならラリマーが部屋に入っても騒がれないはず。返事が来るのは、確か鳥が飛んでから六日後の昼だ。だからいつ飛ぶかその瞬間さえ押さえれば!
「あー!ここにも――――!!」
メリンダが嘆いている。悲壮ともいえる叫び声を聞きながら、ハールはそそくさと部屋を後にした。
それから暫く、ハールは何でもない日常を過ごした。
何でもないと言っても、準備はしてきたけれど。密かに思考を巡らせる。毎日のようにラリマーを送り込み、ついでに部屋でトイレをさせて(アリエスはもう諦めていた。メリンダは換気のため窓を開けっぱなしにしている)。隼がギャアギャア鳴き、駆けつけるときは時既に遅しの繰り返し。「報復してんじゃないの?」ハールはぼやいた。メリンダも唸っている。「ホラ、いきなり飼い主変えられた訳だし…」「にしても……」
一週間後の昼、それはやってきた。ラリマーがいつもの通りに出て、何でもないように戻ってきたのだ。いつもの鳴き声が響かない。彼女の部屋に行ってみると、籠の戸が開き中身が消えていた。来たわね、思って周囲を確認する。
メリンダは酷く不安そうな顔をしていた。戻ったアリエスが籠を見て目をしばたく。だが、(探しましょうか、お嬢様――)言ったメリンダに、アリエスは首を振るうと微笑んだ。(いいわ、きっと帰ってくる、信じましょう)そう言って。
隼が飛んだことを、メリンダはレリオットに知らせなかった。レリオットは、アリエスが犬と鳥を交換させたことを知らないからだ。どの道彼の杞憂でしょうし…というような顔をしている。二人はちょっとずつ距離が近くなってきているらしく、ハールは笑った。「今度の休暇、卿のお屋敷の側でお祭りが有るんですのよ。子供が踊るだけなんですけど」
「へーいいじゃん」
「それに来ないかってお声掛け下さいましたのよ~~!!」
メリンダはホクホクだ。これも『ロイギル』の筋書きとは全く違ったもの。本来なら、丁度今頃、彼女は本当にドン底だから。大事にしてきたお嬢様がドンドン離れていってしまうような気がして。ハールは不気味だし、そんなハールとレリオットは堅い絆で結ばれている。だからこそ、あんなことに……
(部屋に忍び込んで、ハールを探るのだ。そして置き去りにされた彼の甲冑の内側から、彼の指輪を見付けてしまう。そして知るのだ。ハールが隣国の王子だと。このままでは、大事なお嬢様がとんだ内乱に巻き込まれてしまうと知り)
だがそのタッチの差でハールたちが街で襲われる。自分が暴く前に、ハールの正体が知れ、屋敷中に衝撃が走るのだ。それと同時にハールとアリエスが行方を眩ましてしまい、何も出来ない自責の念で彼女は屋敷を飛び出してしまい……
そしてその先は知らない。何故ならコノカはそれを見ていないから。それは最新刊に、引っ張るだけ引っ張られたオチで……!
と――ともあれ。ハールは思った。やるべきことは幾つかある。先ず、こうなった限りは推し(幽閉中のハールの弟)を助けてやらねばならないこと。次に大分狂ってはきているけど、ハールの使命を全うすること。そして、
ハールはまばたきした。目の前の、この侍女の姿をじっと見つめる。メリンダ。確かに偶然だったけどこの世界で唯一出来た、本当は明るくてとても気の合う友達を助けること。あんな酷い有様になって何もかも失ったような気持ちに駆られて、消えてしまうなんてことだけは、絶対にさせないことで――
「何ですの?」メリンダが言った。やだ顔に何か付いてます?パパッと口を叩いてしまう。クッキー屑が、と言うとメリンダは怒った。「もう、教えて下さいませ~~!」
和気藹々と過ごす日々。アリエスは相変らず静かだ。本当はもっと明るい性格だったはずだけど、ハールが来てから静かさが強まったというか?たまにぼんやりと外を見ては、何かを考えるような様子をしている。「お疲れですか?お湯でも使われます?」「あ、いえ……」
お嬢様が何だか元気が無いんですのよ…メリンダは俯いていた。何というか、たまに別人のような顔をなさって?前までは大好きだった食べ物もお召しにならず、ダンスも嫌がっておいでですし。可愛いブーケをお渡ししても喜ばれなくて…」
「単なる気分の問題じゃない?ホラ、生理とか」
「男の方に言われるのは違和感が有りますけどまあ確かに……」
慰めながら、時に笑い合いながら時を過ごす。そして、鳥が飛んで六日目――
8
六日目の昼過ぎに、それはやってきた。ラリマーが、いつもの通りトイレに(ホントにごめん)アリエスの部屋に行ったとき、それは起きたのだ。ひゅう、と風が吹き、おかしな予感がする。と、同時に窓辺に何かが降り立ち、
来た!ハールは振り向いた。「ぶさ子」だ!翼を広げ窓辺にひと息に下りてくる。
ギ、ギャ!ぶさ子は言った。ハールの顔を見るなり鳴こうとする。その瞬間、ラリマーが横っ飛びに飛び上がり、口を開いた。無言の狩りだ。(行け―――!ラリマ―――――!!)
ギャ――――ッ!鳥が鳴こうとするのと、ラリマーが横っ腹に食いつくのは同時だった。あっさり隼を捕まえてしまう。ショックで隼は目を回してしまい、「やったわ!!」ハールは叫んだ。「ナイスよラリマー!!」
アリエスは今の時間教会に行っている。というか、行かせたのだ。抜群のタイミングでそれとなくチクって。「そう言えば、最近教会には行かなくていいのか?」ぶはっ、アリエスが食事をむせ返り、途端に夫人が叫んだ。「何ですって!アリエス!」
んもーハール様ったら……メリンダは唸っていた。が、内心密かに感謝している。やはり侍女のため、お嬢様の意向には逆らえないらしい。強く勧める事も出来ないので困っていたのだ。「行ってきなさい!」お尻を叩かれアリエスが追い出される。「ついでに司祭様に謝って!全く、あなたは…」婦人はカンカンだった。「神の御前に恥ずべきことよ!」
ハールは急いでラリマーに屈み込んだ。思った通り、鳥の足に手紙が付いている。ハールはそれを取ると急いで広げた。読めるか読めないか――賭けみたいな感覚で覗き込む。見知らぬ文字――だが、読めた!!ハールは息を飲んだ。『親愛なる我が王子よ』
なん、だって。ハールは目を剥いた。やっぱりだ――思っていたものの、実感が伴い凍りついてしまう。王子?手紙の文面は思い描いていたものと同じだった。クザーヌス師からの警告の手紙。達筆で急ぎ書き綴られている。
『ご無事であったことを、心より嬉しく思います――知っての通り、今やこの国は内乱状態。先の王が倒れてから、民心は離れる一方で、それを無理に引き留めようとするかのように恐ろしいことばかり起きています。理由の無い逮捕や処刑、拷問が連日行われ、先日はついに我が同胞ペラギウスが――』
ペラギウス。ハールは急いで頭を働かせた。クザーヌス師と並んでハールの師であった男だ。『ともあれ、お気を付け下さい。貴殿の兄はもはや乱心しておられる。弟御を幽閉され先日合戦のあった地――ソマールに兵を差し向けました。貴殿の遺骸を見付けるか――さなくばおそらく付近に潜む貴殿を討ち取れと。死んだと思わせるにためも姿を見せてはなりません。どうか、これまでの人生を捨て、静かに幸せにお過ごしに――これが私の最後の教えです。貴殿の道に神のご加護のあらんことを。エリシオ・クザーヌス ハール黒太子へ』
ハールは棒立ちになった。やっぱり――やっぱりだ。頭の中でぐるぐると同じ言葉が回っている。アリエスが、書いた手紙に返事が来た。それは即ち彼と筆跡が同じであったからこそ出来る技だ。そしてこの手紙は、他でもないハール宛て。それはつまり彼女が、「アリエス」がハールの名前で手紙を送ったということで――
(あのときも)思い出す。祖国の謀反を知らされた時も、真っ先に飛び出していこうとしたのはアリエスだった。だからこそ、庭で鉢合わせたのだ。本当は『ハールが一人屋敷を出ようとしたところ、ハールの(厳密にはハールとレリオットの)やり取りを聞いて全てを知った』というのが筋書きなのに。この隼だって、魔法の上手さだって、
「ハ、ハール様?」
声がして、ハールは振り向いた。下女が、いつの間にか部屋の前に立っている。幸い手の中の手紙には気づいておらず、バッチリラリマーが口に咥えている隼を見ると、叫んだ。「キャアアア―――!メリンダ様ぁ―――!!」
ラ、ラリマーが!ラリマーが!!叫びながら出て行った。丁度外で馬車が止まった音が聞こえてくる。「何なの何事?!」 メリンダが階下で叫び、声が続いた。「ラリマーが、アスガルドを食べてしまいましたわ!!」
「!?」アリエスが飛び出してきた。スカートを掴んで二階に駆け上がってくる。ハールは急いで手紙を隠し、飛び込んできたアリエスに振り向いた。
「アスガルド!」
「いやだ、嘘!ラリマーったら!」
急いで治癒を始める。大袈裟なんだけど…失神しただけだし。「す、すまない、というか謝れラリマー…」犬の頭を押さえながら、目を覚ましたアズガルドを見てほっとしたとき、彼女は言った。
「……手紙は?」
え?メリンダは言った。こちらを見る。ハールはとっさに「え」というような顔をした。
「……何がだ?」言ってやる。
い、いえ……アリエスは目を反らした。その顔が、僅かに青くなっている。鳥の脚を指で触れ確認しており――無い――そう言うと、ほとんど腑抜けたみたいにアリエスは立ち上がった。混乱している。
「アリエス…」
メリンダが訝っている。隼を手に抱いており、「ごめんなさい一人にして……」囁くと、アリエスは黙って部屋を出て行った。
世の中には、勝負時というのがやってくる。必ず。それはおそらく誰の人生にもあるもので、今、彼女は(彼は)まさにその目前に立っているのだけど――
午後になって、ハールはそれを確認した。アリエスだ。屋敷の厩に忍んで何かをしている。マクスェル家の屋敷の裏にある馬小屋はいつも鍵がかかっている。その鍵を開けてしまっており、
(……)
木陰に隠れてハールはこっそり様子を見ていた。周囲を確認しそそくさとアリエスが出てくる。覗いてみると、やっぱり。普段は使う時にしか乗せられない鞍と鐙が馬の背に乗せられており……
蔵の下がちょっぴり膨らんでいる。おおよそ金と、微々たる荷物だ。彼女は一人で行動に移そうとしている――
こっちもこっちでやること山積みだ。ハールはそれを確認すると急ぎ屋敷に戻った。筋書きなら、彼女はおそらくこのあと街に出る。いつもの礼拝、と称して散歩にだ。それに大奥様がついでと称してハールに声を掛け(ハール、一緒に行ってやって貰えない?)
そこで襲われるのだ。ソマールの市内の広場近くで。ハールの兄たちの差し向けた、討伐隊に。
クーン……ラリマーが、しゅんとして目を下げている。分かっているのだ、これから何かが起きるのを。よーしよし、ラリマーの首を撫で、ハールは言った。「いい?ラリマー。少し――ちょっと長くなるかもだけど、留守の間いい子にしてんのよ。必ず迎えに来るからね」
そう言いラリマーの首に手紙をくくりつけてやる。本当は、こんなの筋書きには無いのだけど。本来ならこのタイミングで(おそらくもう一、二時間以内に)メリンダがハールの部屋に入りあれこれ探るのだから。そして発見する。不在中のハールの置き去りにした甲冑の内側から王家のインタリオを。だがこうなってはメリンダが部屋を探るなんて有り得ない。なら、
(こっちから喋っちゃうまでよ)ハールは思った。手紙にインタリオを通し首輪にくくりつける。<親愛なるメリンダへ>
格好付けた手紙なんて、書けなかったけど。でもいいか。思い出しふっと苦笑してしまう。裏切ることには変わり無いもんね?<突然ごめん。さぞかしビックリしたでしょうけど――>
<あたし実は隣国の第三王子なのよ(ミもフタもないとはこのことだ)。これでもね。色々あって、この屋敷にお世話になってたけど、そろそろ行かなきゃならなくて>
手紙の文面を思い起こしハールは笑った。メリンダ、どんな顔をするかしら?騙された、と思う?それとも困惑するだろうか。それとも――
<怒らないで、とは言いません。嘘ついてたのは事実だし。でも、これだけは覚えておいて。二人の仲を本当に応援してるし心からメリンダが好きです。勿論友達としてね。もし、まだ少しでも――この手紙を読んで、私の事を友達と思って貰えるなら、こうして下さい。この手紙を燃やして、お館様と貴方のレリオットにこう伝えて。『ハール様のお部屋で見付けました。彼はアルタイルの王子です』って>
あとは何とでも彼等がしてくれるわ。ハールは腰を上げた。<また、会えるといいな。そのときがあればどうか、直接謝らせて下さい。最後に、メリンダのお茶美味しかった、ありがとう。貴方の友『ハール』より>
窓から空を仰ぐ。そのとき声がした。ハール!大奥様だ。「ハール!ちょっと頼まれて頂戴――」
ラリマーがついてこようとする。め、頭を撫でお座りさせると、ハールは階下に振り向いた。
さあ――いよいよだ。変に生温い風が、あおつらえ向きに駆け抜ける。
この人生最初の大博打の始まりよ。
9
大奥様の言いつけは、思った通りだった。「ハール、この子が街に出ると言うのよ。一緒に行ってやって貰えない?」
仮にも男なのでお目付け役にはうってつけということだ。ハールは頷いた。アリエスはどこか落ち着かない顔をしている。メリンダは別の仕事に励んでいるらしく(この時刻だと、大方奥様やお館様の部屋の掃除でしょうね)「心得た」ハールは頷いた。「どこへ?アリエス」
屋敷を出るときアリエスがちょっとだけ振り向いたのをハールは見た。他でもない、厩の方だ。まだ誰にも気付かれていないか気にしているらしい。本来ならそれは『ハール』の仕草なのだけど――ハールは思った。もういいや、今は気にしてられない?
本来の筋書きならばこうだ。クザーヌスからの手紙を受け、ハールは絶句する。そして、一刻も早く祖国に向かわねばと決意するのだ。厩に忍び込み馬に使い魔契約の魔法をかける。そして、いつでも逃げ出せるよう、仕度をし街に用心しながら向かっていたところ、
そこにやってきた。ひと足先に、いや思った以上に早く兄たちの討伐隊が。
結果ハールは間一髪のところ難を逃れる。だが運悪く一緒に居合わせたアリエスも、一緒に逃げ出す羽目になってしまう。一方で外出中にハールの正体を知るメリンダ。こんな流れのハズなのだが……
言っていられない……歩きながら、アリエスの横に従いながら、ハールは冷や汗だくだくになりながら思った。か、か、勘弁してよ?内心焦りと恐怖で顔が引きつりそうになる。そりゃ、この後直後に(どのタイミングかは知らないけど)襲われると分かっていて、平然と出来る人間もそう居ないでしょうけど。「い、胃が…!」
大丈夫?ハール……アリエスがハールのこの世の終わりみたいな顔を見て案じている。「や、やっぱり家で寝ていれば?」「気にするな、何でもない…」(いやアリアリですけど!!)
やせ我慢もここまで来ると死にそうだ。ハールは歯噛みした。一応仕込みはしてきたが。魔法の全く使えない今のハール(コノカ)。でも、あのシーンではとっさに魔法を使わなきゃ話にならない!だから、だからせめて、出来るだけのことはしてきたのだ。あれで事足りてくれればいいけど…!
あのシーン。ハールは思った。正しくはコノカが惚れたあのシーン。何気なく立ち寄った町の広場。そこでふいにハールは気付く。違和感に。数多の戦を潜り抜けた者にしか分からない勘。刹那、一斉に魔法で狙撃されそれを反射的に防ぐシーンが!
無意識のうちに用心して手に溜めていた魔法、それが幸いして難を逃れるのだ。いつの間にか二人を取り囲んでいた兵士を一掃し、崩れてきた瓦礫を腕で防いで誰何する。<何者だ!>あー思い出すだけでヨダレが出るけど……
今のコノカには胃液が出そうだ。青ざめて、口から変な液まで垂らしているハールを見てアリエスは全力で引いている。だ、大丈夫なの、ねえちょっと……まさか何かヘンなものでも食べたんじゃ…
言いながらアリエスが角を曲がる。ヒョイと何気なく、広場の方へと。曲がった瞬間、ハールは完全にフリーズした。
(―――)
頭が白くなる。え、え。何だか死刑執行の瞬間みたいに?アリエスはハールを連れ歩いている。確かそこには噴水が有って、いつも休むのどかな場所。広間の四方は建物に囲まれており、そこで襲われるのだ。四方八方から、祖国アルタイルの兵士たちに。「ハール?」
いつ?いつなの?ハールは思った。私じゃ判らない、ハールでもなければ戦の経験者でもない。つい数ヶ月前まで会社とアパートを往復してたしがない人生で、そんな、殺気を察知しろだなんて絶対無理!
そのとき――
ふいにアリエスが動きを止めた。ふっと、何かを思い出したように。流れる風が止まった瞬間みたいに。足を止め、そのときアリエスが叫ぼうとし「下がって――」
その瞬間、音がした。ボッとガスに炎が引火するみたいな音が。視界が染まりかけ、刹那、
『ハール』は動いた。ほとんど本能で反射的に。アレの使い方――考える間もなく地面に何かを叩きつける。それだけ、そうすれば一番最適な魔法を発揮してくれる、あの、コノカが用意した『切り札』が!
音がした。ゴッ、音と同時に炎が二重になって四方に広がる。広がるなんてものじゃない、それは他でもない――おそらく本物の『ハール』にしか出来ない途方もない威力の魔法で、
ヒュッ、ドドォ!!!
何かが吹き飛ばされた。アリエスが、腕で顔を庇い目を閉じる。うわああ!!声がして、いつの間にか四方に潜んでいた兵士が一斉に吹き飛ばされた。二人を中心に広がる火柱に壁まで吹き飛ばされる。
煙が上がった。濛々と、今の一撃で周囲の敷石が砕け散ったのだ。煙にむせ返り、ハールは思った。やっ、た!ちょっとタイミング早かったみたいだけど――
敵が狙撃魔法を打つ寸前にこちらがお見舞いしたのだ。誰かが叫んだ。『おのれ、太子!!』
少女が叫んだ。何かを叫んでいる。パニックで(私、彼女、どっち?)聞き取れない。だがそのとき煙が切れ彼女は叫んだ。「――ハール!」
その声に応じるようにしてコノカは気付いた。いや、今はハールだ。原作通り、ここに来て初めて。背中に巨大な瓦礫がもたれている。さっきの風圧でこちらにも飛んできたのだ。だが、
ハールは目を上げた。瞳が初めて赤く弧を描き光る。魔力が漲った瞬間にしか見せない虹彩の光――刹那、抜き打ちに腰の剣を放ち、
決められた筋書き通りに、ハールは目の前に現れた兵士の首に刃を突きつけた。つんのめるように相手が凍りつく。煙が切れ、その隙間に、ゾッとするほどの軍勢が二人を取り巻いているのをハールは見た。この数――逃げ切れるの?
誰何した。冷え冷えとした声で。『何者だ!我が名はハール、アルタイル帝の子にして第三王子である。身分を知っての狼藉か!』
その瞬間アリエスが目を剥いた。そう、本来なら彼女はここで初めて彼の素性を知る。だが――だが、
刹那、風が再び起きた。それは一瞬で足元から空気を掬い舞い上げる。兵士たちが叫び、後じさった。竜巻だ、アリエスが紡いだ六本の竜巻が広がる。
うわああああ!
兵士がうろたえた。風に巻かれ、踊るようにたたらを踏み、互いに掴まって。刹那彼は駆け出した。彼女を抱き上げ走り出す。『ちょっと!』
どうすればいいの?ハールは思った。手近な物陰へ――兵士の一番手薄な所へと。魔法を描いた者は自らの魔力の影響を受けない。風に煽られフラフラするスロー・モーションみたいな兵士の間を掻い潜る。
どうすればいいのよ!!ハールは思った。う――上手く行った、ここにきて初めて上手く行ったけど!でもこの先は書いてなかった!だって、だって次読んだのは『目が覚めてから』で――
どう逃げればいいの?誰か助けて!!
その瞬間、ヒュウッと声がした。アリエスが指笛を鳴らして何かを叫ぶ。
「こっちだ!!」
刹那、視界に白い馬が現れた。あの馬だ。屋敷の厩で彼女が仕度をしていた馬。疾走する馬にひらりと身を翻し、アリエスは跨った。手を出しハールを引き上げる。
「ハッ!!」
拍車と同時に駆け出した。馬はまっしぐらにソマールの都市門に向かって駆けていく。背後ではまだ声が響いている。喚き散らすような、凄まじい大声と、消えゆく魔法の残す残響を置き去りに――やがて馬は、日の傾いたソマールの鉄城門をひと思いに飛び出した。
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