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第二章 社畜、追われる身となる
1
昔、こんな言葉を聞いたことがある。「西空を太陽が暖めている。遅れた旅人が、足を速めている頃だろう――」
何の引用かもう忘れてしまったけど――暗闇の中、焚き火を前に屈みながらハールは思った。そのタイムアップに間に合わないと、概してこういうことになるワケね。何もない不気味極まりない荒野の中、テントもなく野宿……
パチ、パチと炎が爆ぜている。さっきからアリエスは寡黙そのものだ。そりゃあね、ハールは上目遣いになりながら思った。あんな目に遭って、急にこんな所に来てしまった訳だし……何と言うか……
目の前に、木の枝に刺されたトカゲが一匹こんがりと火に炙られている。ち、ちょっと待って…という見た目だが、臭いばかりは何故か美味しそうな。な、何てことを……横目で見ながらハールは思った。というかアリエス、こんなワイルドだったかしら…?
「……」黙って焼き上がったトカゲを差し出される。それを見た途端ハールは思わず下がった。「きゃっ!ちょっと!」
今度こそ一緒に揃って黙り込む。「…………」盛大に、お互い苦しくなりそうなほど、長く黙ってからハールは言った。「お、お前…」
「何者だ?/何者?」声が見事に重複する。また沈黙。ややあってから相手は言った。「……お前は…」
刹那、ハールは叫んだ。相手が無意識のうちにトカゲの焼き物をこちらに向けたのだ。きゃあっもう!ハールは喚いた。反射的に腕で身体を抱いてしまう。「止めてって言ってるでしょちょっと!!」「糞!」
途端にアリエスはトカゲを投げ出した。出し抜けに手が伸びる。体術――思った瞬間、身体が覚えているらしく、反射的にハールは相手の腕をすり抜けた。続いて胸倉をつかまれぐるんと視界が回転する。な!?
脚から着地する。考える間もなく互いに腕で首を絞め合い、「ぐ、えっ!」「貴様…!」
何者だ!アリエスは今度こそ怒鳴った。お互いチョークスリーパー状態で膠着する。「ぐる、じい!離して!!あんたこそ何者なのよ!ねえ!!」
言うなり力が弱まった。バッと互いに距離を取り合う。ゲボゲホ言っており、(や、やんの?)出来もしない格闘術の構えを取るハールに相手は叫んだ。「俺は――ハールだ!ハール第三王子、ハール・キルネスト・アルタイル・エステルシュタイン!」
その瞬間、ふっとハールの頭に認識が来た。ショック――というよりもやっぱり、というような実感が駆け抜ける。ハール――コノカは、相手をじっと見た。やっぱりだ、彼女が、どういう訳か、私の最推しもといハールだった――
「……どう」コノカは呻くように呟いた。相手も当惑してしまっている。だが、その目は限りなく正気で――それがコノカを返って正気づけた。「……あんたが」呟く。「貴方がハール黒太子…」
相手はじっと黙っている。ハールの――コノカの目の奥を覗くような顔をしており、そっと差し出すように言った。「――そうだ。察するに、貴女はもしやアリエス・ロッド嬢では……」
違う。ハールは身じろぎした。その顔を彼女はじっと見つめている。ち、がうわ。ハールは首を振った。「違うのか?」俄かに相手が混乱したような顔をする。「アリエスでない?ではお前は一体誰だ!」
知らないわよ!コノカは叫んだ。再び混乱の高波が押し寄せてくる。知ったことですか!後じさろうとするコノカに「待て!」相手は腕を掴み引き止める。まるっきり別れ話寸前のカップルみたいに。「答えろ!ではお前は何処の誰だ!何故その体に入っている?」
知ったこっちゃないわよ!ハールは叫んだ。パニックだ。そんなこと知ってたら苦労しないっての!あんたこそ何?一体どうなってんのよ!これ、どう――
だが、そのとき首に冷たい物がヒタリと当たった。ギクリとアリエスが硬直する。「な……」
な、に?ハールは動きを止めた。首の冷たさに、それが刃物だとようやく悟る。何?まさか、もう追っ手がここへ――
「……そうだ」〝誰か〟は言った。「そこからまずは整理せねばならんな」
へっ?ハールは振り向いた。その瞬間鼻先にチャッと何かが突き付けられる。アリエスが立ち上がり、間に割り入ろうした。「止めて、レリオット……」
な、ん?ハールは動きを止めた。いつの間にか後ろにレリオットが立っている。その腕に例の隼を乗せており――『ぶさ子?』思った瞬間、それはハールを見て不快な声でギャッと鳴いた。
「これの後を追えばお会いできると思っておりました。ハール黒太子殿――」
言うなり相手は膝をつき地面に跪いた。アリエスの前に片膝をつき頭を垂れる。コノカは――ハールはあっけにとられてそれを見ていた。何だろう?これじゃまるでようやく筋書き通りみたいな…
「貴殿が屋敷を出る頃に」レリオットは言った。「私も遠巻きに、窺っておりました。今朝から街におかしな動きが有りましたので……」
マ、ジ?ハールはあっけにとられた。アリエスは事態が飲み込めず、目を微かに見開いている。「レリオット、君は……」
「まだストーカーやってたの?」ハールは思わず呆れた。途端にレリオットが叫ぶ。「失敬な!!ストーカーではない!立派な警邏の一環だ!」「人んちの前をウロついてたんでしょ?それをストーカーって言うの」「な……!」
「我が君」レリオットは、ハールを無視すると続けた。「ご存知無いでしょうが、貴殿のお父上、亡きエルメンガルド王は我が恩人です。家も財も無い孤児の私に、先王は全てを与えて下さった。その恩に報いられぬままあのようなことに……」
だよね…ハールはちょっぴり頷いた。だからレリオットはハールの手助けをするのだ。隣国であれ、元は祖国。その忘れ形見を蔑ろには出来ないと。
「ご存知の通り、アルタイルは今や地獄と化しています」レリオットは言った。「貴殿の兄上によって恐ろしい政治が敷かれていると。ハール殿、貴方はもしや、それを止めに行かれるのでは…?」
そーよ。ハールは言った。黙ってろ!思いっきり口調も顔も変えてレリオットがツッコむ。「仔細は判りかねますがこのレリオット、貴殿のお役に立てればと…」
「何でよ?」ハールは訊いた。「だから!」レリオットが再び口調を変えて突っかかる。「彼の父は私の恩人だと…!」
「……」ふいにアリエスがふっと目を伏せ笑った。それは他でもない、まごうかたなきハール本人の笑い方だ。「…気持ちは嬉しいが」そう言うとポン、と彼の首を素手で叩いた。それは王族のみがする行為、何かに捕らわれている者に『自由になれ』というサインだ。「今の俺にその力は無い。せいぜい弟を救うが関の山だ」
「しかし…!」
「この体を見ろ、レリオット」そう言いハールは自嘲気味に笑った。「女だ。どういう訳か、こうなってしまってはな。それにこれでは俺がハールと信じる者は居まい――兄を倒し、民を救おうにも、これでは」
「は?」
途端にハールはピクリとなった。アリエスがこちらを見る。それをジロリと睨むとハールは低く言った。「…今何て言ったの?」
「……は?」
「この体を見ろ、ですって?」ズイ、と詰め寄ってやる。流石に気圧されし、アリエスが黙った。レリオットが庇おうとしている。「バカにしてる?まさか女だから、男と同じ働きは出来ないですって?」
「いや別にそういう訳じゃ……」
あのね。顎を反らしハールは言った。初めて半眼になり相手を見下ろしてやる。高身長万歳、何て快感なのかしら?要らん考えを脇に押しやりハールは続けた。「全く、男はすぐこれだから……言っとくけど、あんたら男より女性は遥かに底力が有んのよ?」
アリエスは引いた。レリオットも一緒になって後じさる。「体力賛美の男根主義ね、そんなのだから未だに差別なんてものが消えないのよ。女はお茶酌みしてコピー取って、年を取る前に結婚して寿退社するのがお定まり?だから育てる必要も無いし投資する必要性も無い?ふざけるんじゃないわよ。世の中にはね、あんたらみたいな勢いだけが売りみたいな脳筋よりも遥かに有能で使える女が大勢居るの。男女の力は平等よ」
「え、はあ……」
「二度と言わないで」ハールは睨んだ。「ついでに、弱音も無しよ。貴方はレリオットの言う通り祖国に行って――ユリジェスちゃんを助ける役目を果たすの。ついでに私が国を再建する芝居を打ってあげるから、そこから先はどうとでもすんのよ。いい?それは貴方にしか出来ないことなんだから」
「………」
レリオットが目を見開いている。細い眉の下で目がまあるくなってしまっており、困惑も露に、アリエスは訊いた。「君は、一体……?」
「…アリエス嬢?」レリオットがハールに目配せしながらコノカを指す。「違うわ」その言葉に、これまでになくふんぞり返りながら、ハールは――コノカは胸を反らすと言い切った。
2
「つまり――まとめるとこういうことか。ハール殿は戦場で意識を失い倒れていた。確かに先の合戦で怪我を負い、生死の境を彷徨った――」
それから数時間後、ハールたちはレリオットの提案で近くの祠に移動していた。この辺りは夜になると獰猛な獣がうろつくらしい。子供の頃、この荒野を彷徨ったのだ――とレリオットは呟いた。三日三晩、食べ物もなく、草の根を食み飢えを凌いだ。
祠はぱっと見には判らない、地面の落ち窪んだ場所に有った。大昔の異端者たちが利用していた小さな集会場らしい。集会場といっても石の祭壇一つしかなく、十人も入れば満員になりそうな場所である。こっちへ、レリオットは二人をそこに招き入れると切り出した。
幸いかな、レリオットは食べ物を持ってきていた。メリンダに押しつけられたらしい。彼女の用意したアップルパイだ。広間で騒ぎが起こってすぐ、駆けつけたときには二人の姿は消えていた。泡を食って屋敷に戻ったら、
メリンダが飛び出してきたのだという。そして言ったのだ。半泣きになりながら彼に懇願して「レリオット様、お嬢様とハールを助けて下さいませ!」
メリンダ――もそもそとパイを食べながらハールは思った。やっぱり、傷付けちゃったんだ。彼女にインタリオを見せられ知った、とレリオットは言った。『こいつ』が(悪かったわね)どうやらハール黒太子であるらしいこと――そして彼が襲撃に遭い今まさにソマールを逃げ出してしまったこと。だが――
今更追いようがない。そも、逃亡者の行方を追うような技術は自分にはない。だから、隼を使ったのだ。籠の中で盛大に鳴いている隼を放ち、言った。お前の主の元に案内してくれ、と。
そうして隼の後を追いかけここまで来た。真相を確かめるつもりだったのだ。そうすると、丁度荒野の真ん中で人目も気にせずギャーギャーやってる二人を見付けた――
「……しかし、よもや貴殿が女になるとは」レリオットは呟いた。まじまじアリエスの横顔を見つめている。どう見てもその仕草は男のものだ。思いっきり足を開いて座ってるし、物の食べ方も、仕草も男。
アリエス、美人だもんね。ほっとハールは息を吐いた。レリオットは密かに頬を赤らめている。仮にも美貌で名高い伯爵家のご令嬢。金色の髪に紺碧の瞳。象牙の肌に薔薇色の頬、赤い唇。だが、
「……あんま見てんじゃないわよ」ハールは睨んだ。ぐっ!途端にレリオットがむせ返る。「メリンダにバラすわよ?」レリオットは慌てた。異様なほどに。「な、な!?」
「別にそういうのではない!」「へっえー何?そういうのって」「貴様…!」
こ、こいつめ!レリオットは喚いた。こんな幼稚なキャラだったっけ?護国卿レリオット。横目で見て呆れてしまう。「ハール様!」アリエスに急接近し騒いだ。「やはりこやつはアリエスでは有りません!一体…!」
そこなのだ。ハールは腕組みして唸った。それに気付いたのかアリエスも真顔になる。どうしてこうなったんだろう?
先の合戦。腹もくちくなってからアリエスはぽつぽつと語り出した。整理する他になかったのだ。「ソマールの国境で行われた合戦で……俺は、負傷した。背後から攻撃を食らってな、それで気を失ったんだ。気付いたら」
この体になっていた。「彼」は言った。両手を広げ自分を見下ろすような仕草をする。折り重なって、戦の跡地に倒れていた。自分の体に寄りかかって――
(……傷は、治しましたよ)ハールは思い出した。最初に目が覚めたとき彼女が言った言葉だ。冷や汗をかくような顔で、言っていたっけ。(千切れかけの腕も――)
損傷が酷く、助からないと思った。ハールは思い出しながら呟いた。だが息をしていたし――だから、担いでどうにか街まで辿り着いた。そして知ったのだ。彼女が地元の名士の娘であること。伯爵家の後取り娘アリエス・ロッドであることを……
おかしな話だが、自分自身を介抱し様子を見た。その間色々なことを知ることが出来た。アリエスは、令嬢でありながら突飛な行動に出る女性であること。信心深く、自ら進んで街着を纏い、よく街に奉仕に出ること。
今回は、おそらく合戦跡に死者を弔いに行ったのだろう。町の人たちはそう評した。普通は若い娘が足を向けることのない場所だ。山積みにされた遺骸、群がる烏の群れ。だがそこで彼女はまだ息のある男を見付けた――
だが、どう考えても得心が行かない。アリエスは――ハールは顎に手を当て考えた。よしんばそれが真実で、信心の為に祈りを捧げにいったとしても、よほどでなければ近づけないのだ。何故なら流石に見咎められるから?
「……遺骸には疫病も潜むからな」レリオットは頷いた。やけに深刻そうな顔をしている。「施療院で働くアリエスが、そんな所に進んで行くとは思い難い。病魔を持ち込むようなものだ。ということは、何か他に理由が有ったか……」
ともあれ、真相は闇の中だ。アリエスは締めくくった。そうしているうちに、ハールが目を覚まし、彼は(アリエスとなったハールだ)自分の中にどうやら誰かが入っていることを知った――…
「…む」レリオットが腕組みすると唸るように目を伏せた。「てっきりこの体の持ち主だと思っていたが――」アリエスは顔を顰めた。「どうも違うらしいな。君は一体何者だ?」
途端にハールは黙ってしまった。レリオットが、じとっとハールの顔を睨んでいる。
「…君はいやに内情に詳しい」アリエスは言った。「ユリジェスを知っていることといい。あれの名は正確にはユージリアスだ。ユリジェスは俺が付けたあだ名だ」
そうなの?ハールは目をしばたいた。
「最初に目覚めた時も、どうも俺を知っているような素振りをしていたな」アリエスは更に続けた。「教えてくれ――君は、誰だ?素性は何だ。聞かせて欲しい」
そう言われると拒絶出来ない。というより、推しと確定した以上、例え姿は女性でも真顔でお願いされると逆らえるハズはないのであって…!
彼は待っている。真摯そのものの目のアリエスと、猜疑心の塊の目をしているレリオットを交互に見比べながら(ああ、そんな目で見るんじゃないわよ、もう…!)他に出来ることもなくコノカはとつとつと事情を説明し始めた。
話し終える頃には、夜はすっかり更けていた。くべた薪もほとんど炭になりかけている。大分省略はしたけど――ようやく口をつぐみながらハールは――コノカは思った。どうかしら?果たして伝わるものなのか……
「……そんな」レリオットが、最初に呟いた。黙ってしまったハールを見て目を白黒させている。「馬鹿な」ホラ来た、やっぱり。身構えてしまう。「バカな話が……!」
だがアリエスは言わなかった。じっと黙り、目を伏せ考え込んでいる。「………」
「ハ、ハール様」レリオットはまごついたようにアリエスに訊いた。彼女は石のように黙っている。「まさか信じるおつもりですか?こんな、狂人紛いのたわ言を…!ハール様――」
「……いや」アリエスは言った。「完全には否定出来ない…」
つまりは、こうか。アリエスは目を上げハールの顔を見た。推しだとかお話の中だとかは徹底して伏せた上でだ。「君は、どこか違う世界からやって来た魂で、何かしらの伝記か魔法書を見て――我々の命運を知っていたと」
「は、はあ」ハールは頷いた。まあ……そんなトコ。頷いてやる。
「ペラギウスが昔言っていたが」アリエスは、爆ぜる炎を見ながら囁いた。「この世界はどうやら幾重にも重なり合っているらしいな。そしてそのいずれかには、高次元の魂が住まう場所があり、そこには全ての人物の、全ての世界の理が記された書物があると。あながち嘘ではないらしい……」
へ、はあ?ハールは目を白黒させた。別段そんな高尚なものじゃないけど。口籠ってしまう。レリオットはなおも「こいつが?」というような顔をしており……(ああもう、うるさい、黙ってて)
「その書で俺の――」アリエスは目をしばたいた。「我々のことを知っていて、目覚めたとき悟った、己の行く末を。それであんなことを……」
あんなこと?ハールはきょとんとした。途端に頭でコードが繋がる。数時間前の、あれだ。奇襲を受けてハール黒太子のふりをしたこと。『何者だ!』せいぜい大見得を切って誰何して。上手く決まって良かったけど…
「貴殿の仔細は判りかねるが」言うなり、アリエスは立ち上がった。律儀にハールの前に片膝をつき頭を垂れる。「全ての事情を知ってのことか。礼を言う、コノカ殿……」
途端にハールはブッ飛んだ。仮にも推しに(ええ、推しよ、推しですとも!)感謝されると錯乱するものだ。やーね!慌ててコノカは両手を振った。見た目は完全にハールだが。「気にしないで?というより、そうしなきゃいけなかったんだし…」
レリオットは痛いものを見るような目で眺めている。そりゃあ、百パーセントどう見ても男が女みたいな仕草に喋り方をしてるんだもの。だがアリエスは一向に気にせずに微笑んだ。「使命に従う、か。律儀な人だ」
「……」はあっ、とレリオットが息を吐いた。仕方ないというように頭を掻きむしる。「分かりました」呟くと、不服そうにハールを見た。「……であればやむを得ん。貴殿が信じるというなら、私もそれに従わねば」
レリオットが半眼になりこちらを見る。「……一時休戦だ。不審者め」
「ふ、不審?!」途端にハールは叫んだ。不審者!!?レリオットはふんぞり返っている。「あんたが言う?!ストーカーのくせに!」「だからストーカーではない!」
そのときふっ、とアリエスが吹き出した。途端に揃って黙りこくる。初めて見る笑顔だ。その顔は、まごうかたなきアリエスだけど。でも笑い方はままハールそのものだ。「はは、ははは!」
ハールは黙った。レリオットも目を見開いている。初めて見た――思って微笑んでしまう。良かった。こんなのなら悪くない。確か『ロイギル』の筋書きではハールは全く笑わなかったはずだから。
冷たく硬く凍てついた王子の心は、中々溶けないはずだったから。
「…しかしどうするか……」レリオットがふうっと弱ったように息を吹き上げた。「ともあれこれでは国に赴けますまい?この不審者に、最後まで殿下のフリをさせるにしても、この調子では……」
オネエみたいな状態では締まるものも締まらんということだ。オマケに頼みの綱のハールの強大な魔力は全く使えずじまいだし…
いやー蜘蛛!ハールは途端に叫んだ。こっち来ないでー!逃げ回るハールを見てアリエスは黙っている。た、確かに……唸っており、「お手上げだな」レリオットが苦い顔をした。「頼みの殿下がこの調子では。打つ手が」
そのときアリエスが目を上げた。顎に手を当て、考えている。「いや…そうでもない。一つ心当たりが――」
え、レリオットが目を上げる。その瞬間、『今度は蛾―――――!』ハールの悲鳴が祠に(ぎゃああああっ)響き渡った。
3
「東の魔女を頼るですと?!正気ですか!!」
二日後の朝、アリエスの「案」を耳にした途端レリオットは真っ先にそう言った。三人は近くの街に移動している。ソマールから数里離れた所にある小さな街だ。ナルヴィエという渓谷に挟まれた場所で(原作には出てこなかったけど。綺麗な街…)ハールは訊いた。「なーに、それ?東の魔女?」
ばっ、途端にレリオットがハールの口を塞いだ。声が大きい、ということらしい。ハールたちは今頭から布を一様に被っている。ここに身を寄せたのは他でもない――このナルヴィエの人たちは、一様に宗教上の理由から布を被っているのである。女性は美しい色とりどりの布を、男は純白の布で顔を覆い隠している。ここなら素性を問われずに済む。
「知らないか?」アリエスはハールを見上げ訊いた。いやにオリエンタルな雰囲気の水色の布に目元だけ覗かせている。傍から見ればさぞかし美貌、といった雰囲気で、紺碧の目が水鏡みたいだ。「この地の果てに――異端の魔女が住んでいる。荒野の魔女とも呼ばれているが」
そうなの?ハールは目をちまちまさせた。無知なのか有識か分からんな…レリオットが唸っている。「それが何なの?一体」
「この手の話に詳しくないが――」アリエスは考え考え、言った。「以前耳にしたことがある。彼等には『反魂の術』というものが有るらしい。イドリシアの秘術と呼ばれているが――一度死んだ者を蘇らせるという術だ。もしかして、アリエスはそれを使ったのではと――」
へ、っ?レリオットが思わずといったように目をしばたいた。流石にハールもあっけにとられてしまう。「彼女が?どうして」
「仔細は判りかねるが――」アリエスは呟くとくしゃっと目尻に皺を寄せた。「……言い辛い話だが、アリエスには、些か不審な面も有った。この体になって気付いたことだがな」
まず、第一に。アリエスは指を立て切り出した。「仮にも令嬢が――しかも王族に近いほどの爵位を持つ家の娘が、何故進んで民に仕える?街着を来て、粗末な施療院に足を運び――
それは、ハールは言った。彼女が信心深いからじゃないの?手を上げ答えてやる。『ロイギル』の筋書きではそうだった。アリエス・ロッドは苛烈なほどに信心深い。父もさることながら娘は輪をかけて清純で信仰心の塊なのだ。娘に使用人紛いの真似を許すのも「全ては神の国に迎え入れられるため」で…
アリエスは鷹揚に頷いた。「それもある。いや――そう思っていた。少なくとも、町の者は皆そう評していた。気高き乙女マクスェル嬢、と。例の一件も荒涼とした戦の跡地に訪れたのは、死者の無念を弔うため――だが、
「……施療院で、彼女は勤めていた」アリエスは含みがちに続けた。「手伝い程度だがな。身体の弱った者たちが溢れる場所だ。そこに出入りする者があんな場に足を向けるか?」
あんな、って…ハールは呻いた。レリオットはアリエスと一緒に黙っている。それってつまり、正直言いたくないけど、何と言うか俗にいう地獄というやつで……
「遺骸には烏が群がり蛆が湧く」アリエスは呟いた。「季節柄火をかけられずに済んだのは幸いだが、一度戦で穢れた地は二年は人は踏み入らん。分け入るのは相応の理由がある者のみ。遺族か、死体から盗みを働く盗賊だ。俺もあそこで朽ちる筈だった――死人の山に埋もれてな」
だが、彼女はそこに行った。わざわざ一人で。そしてハールを見付けたのだ。そしてそこで何かをした……
「――どうも」レリオットが顔を顰め呟いた。「きな臭いですな…」隼が彼の肩で首を折り目を細めている。「彼女、本当に弔いに?そこから何か事情があるのかも……」
「いずれも憶測の域を出んが」アリエスは首を振った。「君の恋人は何と?レリオット」
途端にレリオットはぎょっとしたような顔をした。な、何を!急いで否定する。「あれはそのようなものではありません」 へえ?ニヤリとしてしまう。「あれ、ね?少なくともアレ呼ばわりする距離ではあるんだ」「貴様…!」
「いいんじゃないの?」ハールは笑った。メリンダを思い浮かべる。今頃、屋敷で激怒か大泣きの二択でしょうけど…「いいじゃない、メリンダ。可愛いし明るいし家事は上手いし。あんたにゾッコンみたいだし」
「そ、そうなのか…?」
アリエスが目をしばたいている。(そうよ気付かなかったの?)何やらもしょもしょやり始めた二人を遠巻きに見ており、分からないので好きにさせているのだ。(鈍い。気付くでしょ普通!)(鈍いとは何だ!第一そんな情報一体何処から…!)
「――そうだ」アリエスが声を上げた。「そうだぞ、その手があった?」
へっ?途端にハールは目を丸くした。レリオットがとっさに振り返る。
「使用人だ」アリエスは手を打った。「知っているかレリオット、屋敷で最も内情を熟知しているのは使用人だと。彼等に連絡を取れないか?」
君は幸い疑われない――アリエスは笑顔になった。「今なら祖国に帰ってやり直せる。こう言えばいい。『三日間、ハールの足取りを追っていた』と。令嬢を連れ去った大罪人だからな。だが見付からず、それで一旦戻ってきたと――」
そんな!レリオットは叫んだ。だがアリエスはもう決めてかかってしまっている。
「頼むレリオット、君にしか頼めない」はっしと手を掴み言った。「あの屋敷の――誰でもいい。メリンダでもそれ以外の誰でも。令嬢を探し出すための名目で、アリエスの身辺を洗ってくれないか?」
それはつまり、更なるスパイだ。レリオットは目を白黒させた。だがアリエスは意気込んでいる。「頼む!」
こんなとき、彼女の見た目がハールなら完璧だったのに。コノカは思った。レリオットは何故か赤くなってしまっている。え、あ、はあ……なんとも締まりのない表情で、ホントしっかりしなさいよ……まあ眼福には違いないんだけど。
「君を見込んで!」
途端にレリオットがこっくりする。それはどう見ても、可愛いアリエスに流されたようにしか見えなくて、今度こそ、隼と一緒に冷たいまなざしを向けながらハールはレリオットをじっと睨んだ。
それから五日――
ハールたちは、実に締まりのない日々を過ごした。ナルヴィエに潜んでからはや一週間だが、追っ手の来る気配はない。もとより女の人口が異常に多い町だし、この町では女性の素顔を暴こうとするのは強姦よりも重い罪とされているのだ。偵察に来た軍隊がちらっと見るだけで帰ってしまう。
アリエスは、どう見たって疑われようのない女だ――ハールは思った。ついでに言うとハールも疑われていない。何故なら、どう見たって仕草が女だからだ。声はちょっと(いや、大分?)低いけど、逐一店や露店で立ち止まる彼を見て誰もが女と思い込んでいる。「やだ可愛い~~!!」
ナルヴィエ特産香水瓶。ハールはそれを集めるのにやっきになっていた。幸いかなお館様から(アリエスのパパだ)お金は沢山貰っている。ガラスを魔法で捻じ曲げて作る工芸品で、信じられない精巧さと繊細さが特徴だ。「可愛い!ねえどっちがいいと思う?」「ど、どちらも同じに見えるが……」
ナルヴィエでは女性が素顔を見せないからね。露店の女性は笑顔でそう言った。「せめて美しさを感じさせるために、女は皆香水を纏うのよ。自分がどのような人か知らせるために」「へー!」
好きな香りを作ってあげるよ。そう言い露店のおばさんは宙吊りされた錫製の鍋をかき回した。「香水の調合だって!やるー!」「どうぞ、好きにするといい…」
アリエスは半分うわの空になっている。どうやら行ったきり戻らないレリオットを気にしているらしい。大丈夫よ、裏切ったりしないから…ハールは思った。アリエスはじっと考えている。やっぱり――
幼少期から、色々と遭って来てるから。コノカはそっと思った。あまり人を簡単に信じられないのだ。もしも裏切られれば――と思う。もしそうなら、ハールたちは一貫の終わりだ。今攻撃されれば孤立無援の状態だから。
「えーと、じゃあネクターと…」ハールは頬に指を当て言った。「それからこのお花の匂いを混ぜてもいい?」「勿論だとも」おばさんは笑っている。「それならこの香りも足すのはどうだい?守りの効果を高めてくれるよ」
んーいい匂い!ハールは笑った。これを男と思うのはよほどの洞察力か知り合いのどっちかだ。「どう?これ」調合された匂いを差し出すと、アリエスは言った。「……明るい香りだな…」
「自分を表す香りなんだから!」ハールは微笑んだ。「ちょっとでも、魅力的な匂いにしておかないと」「そういうものか…?」
これ一つ。ハールは笑った。まいどあり、おばさんに瓶をネックレスにして貰う。「アリエスは作らないの?」「俺は」アリエスは呟いた。「そういうのは分からない…」「やればいいのに!」
ふっ、とアリエスが笑った。目を伏せ苦笑する。早速ビンを開け嗅いでいるハールを見ると囁いた。「明るい匂いだ…軽やかな。きっと、前の世でもそんな人だったのだろうな」
途端にハールは足を止めた。前の、世?ふいに思い出し動きが止まってしまう。
「……そんな、良いものでもないかも」ハールは呟いた。思い出す――毎日働いて、馬車馬どころかドブネズミみたいに走り回っていたあの頃を。好きな物を好き、と言うことも許されず、のびのびと過ごすことも出来ない。時間から時間を渡り歩き、常に何かに見張られて、否定され追い詰められて。
アリエスが足を止め振り向いた。不思議そうな顔をしている。気分が安らぐときと言えば部屋に居るときだけ――しかもペコペコのフローリングに、全部合わせて売ったって二万にもなりもしない安物の家具に囲まれ、ただ本を読んでいた。抑圧されて、それでも使命に従うハール。痛めつけられても踏みにじられてもひたすら進む彼の背に励まされて。
「…そんな女性じゃなかったわ」ハールは失笑した。あはは、と首を竦める。「違ったかな、この匂い、私の香りじゃどうもなさそう――」
だがその時、アリエスはつと手を伸ばした。ハールの――いや彼女の思考を見抜いていたかのように、ハールの手を支える。まるで、薄いガラスのビンを、取り落としてしまうのを見抜いたように。そして言った。「――いや」
「先ほどの、女性が言っていた」アリエスは思い出すように言った。「匂いは魂で選ぶものと。なら」
手に顔を近付け笑う。「これが君の香りだよ。コノカ」
ハールは立ちすくんだ。へっ……言うなりボッと顔が赤くなる。え、え。アリエスはもう歩き出しており、コノカは思った。それ、それって……
つまり今、アリエスの格好ではあるけれど。あれはハールの言葉で……
や、やだもー!ハールは言った。何言ってんの!ポクポク背を叩く。ははは、今度俺も試してみるか、アリエスは笑っており、そのとき空を何かがヒュッと横切り飛んできた。「――来た!」
ゲキャアー!何かが叫んだ。言うなりスカーンとハールの額の真ん中に何かが当たる。あ゛あ゛――――!汚い高音を上げて叫ぶハールに、アリエスは叫んだ。「アスガルド!」
ぶさ子!ハールは叫んだ。いったぁあ!血が出てしまっている。その足に手紙が付いており、アリエスは急いでそれを取った。レリオットからだ!
『前略、親愛なる我が君ハール黒太子――』手紙は堅苦しい文字のつづりでそう始まっていた。『仰せつかった通り、令嬢の身辺を洗いました。何かが変です』
(やっぱり)ざわ、とハールの背中で何かが浮き立った。アリエスは素早く文字に目を走らせている。『結論から言うと失敬ながら――この館の令嬢、アリエス・ロッド・マクスェルは正常ではありません』
え、えっ?ハールは思わず顔を近づけた。アリエスは険しい顔をしている。『先ず、私は侍女のメリンダに情報を求めましたがそのようなこと有り得ないの一点張りで』
ですが奇妙なことが。文面は続いた。マクスェル邸――あそこには、現在十七の侍女が仕えていますが、過去に二人が奇妙な消え方をしています。どうも年に一度、数名の入れ替わりがあるようで、
しかしそのこと自体は別段おかしなことでもない。文面にアリエスは頷いた。大きな屋敷の使用人が、諸々の事情で街や館を離れるのは日常茶飯のことだから。『よくあることです。思ったほどの待遇を望めない、主人とそりが合わないなど――が』
私はその二人と接触を計りました。文は続いた。『二年前、突如として館を去った侍女の一人、ルスティカと皿洗いのムーメラルダ。彼女らは故郷の村に戻っていましたが――』
そのうちの姉ルスティカは、寝たきりの身です。ハールはギョッとした。『そして妹のムーメラルダは』
『令嬢を恨んでいた。死ぬほど憎み、そして恐れていた。あの家の令嬢アリエス・ロッドを。あれは天使でも聖女の生まれ変わりでもない、悪魔の化身だと。おぞましい恐怖と冷淡さを臓腑に隠した化け物だと』
どう……ハールは呟いた。アリエスも、余りのことにあっけにとられてしまっている。どういうことだ?思わず動顚してしまう。そんな?どういうこと?『ロイギル』ではそんな設定は無かった。美しく清廉な心の持ち主アリエス嬢。その曇りなき眼に、穢れた者は全て進んでひれ伏したくなる衝動に駆られるほど、と――
行こう。アリエスが促す。女天下の町でも、日暮れが近付くと危ないのだ。手紙を握りつぶし、踏み出したアリエスの後に慌てて続きながら、ハールは思った。
い、一体――
一体どういう事なのよ?
4
翌日、夜明けと共にレリオットは視察と称してこの街にやってきた。格好ばかりは手配書を持っている。「皆に告ぐ!」広場で大声で呼ばわり、書簡を街の中央にある石板に貼り付けながら言った。「この者はハール、隣国の後継者にして我が国ソマールの令嬢を浚い消えた大罪人である!この者を見た者は即刻我が国へ伝達を寄越せ!」
来た――ハールはそっと布の下で身を固くして思った。やだ、怖いわね……周りで女性がヒソヒソ耳打ちし合っている。「女を浚ったですって?」「魔物のようだこと!」
「怖いわねー」隣に居た女性が話しかけてくる。年若で、おそらくアリエスと同い年くらいだ。「は、はあ…」アリエスは困っており、「ねー!」ハールは急いで言った。「女浚うとかどーゆー神経してんのホント」「それね!最低!」
急いで宿に戻る。レリオットは、馬の蹄鉄が外れた、という名目で、一晩宿を借りたいと同じ宿にやってきた。男前は女と接近するのが速くても怪しまれないものだ。そこの殿方、一緒に一杯いかが?こちらの口にした偽の誘いに難なく乗る。「光栄だ。ご一緒しよう」
部屋に滑り込むなり、レリオットはサッと膝をついた。「ハール殿!」下官のように格式ばったお辞儀をする。「いい、顔を上げてくれ、レリオット」アリエスはさっと遮った。音消しと目暗ましの魔法を紡ぎ向き直る。「どうだった?アリエス嬢は――」
「率直に言って、異様さしか感じられません」レリオットはまだ膝をつきながら切り出した。端正な顔に険しい色が浮かんでいる。「手紙にも述べましたが、ルスティカとムーメラルダ」
あの二人は、有色の民の姉妹でした。そう言いマントを肩から降ろす。有色って?尋ねるハールにアリエスが「肌の色が赤褐色の民のことだ」答えて素早く頷く。「裕福な家がそのような民を雇うのは珍しくないな。で?」
「あれを雇ったのはアリエスです」レリオットは言った。「三年前、施療院で働いていたアリエスが、門前に仕事を探してやってきた姉妹を拾ったと。当初感謝していたようですが……」
それから半年後、奇妙なことが起こり始めた。
「姉のルスティカが、酷く怯えるようになって」レリオットは顔を顰めた。「屋敷を辞めて去りたいと。侍女は昔からメリンダが長ですが、ルスティカはたまに令嬢の部屋に入り掃除することも許されており――ある日を境に彼女の部屋に入るのを嫌がるようになったそうです。それも、執拗に」
姉さんどうしたの――妹は、そう聞いたという。妹は幸か不幸洗い場の仕事に回されている。最も厳しく辛い仕事だが、流石はマクスェル邸、賃金も高く使用人の待遇も良い。だから当初そう深刻に捉えなかった。姉が「ここに居ては駄目」と繰り返し言うのも一つのホームシックみたいに考えていたのだ。ある日を迎えるまでは。
その日、二年前のある日、ムーメラルダはいつも通り仕事をしていた。何の変哲もない朝、いつも通りの日常だ。だがそのとき彼女は――いや家じゅうの人間が物音を聞いた。それも尋常なものではない、誰かが、思いきり高所から音を立てて地面に叩きつけられたような物音を。
そのとき彼女は中に居た。屋敷の食堂で掃き掃除をしていたのだ。皿洗いでも、仕事が済めば別の仕事が任される。いいなあ、姉さん。私も背がもう少し高くなれば侍女になれるかな――そう思っていた矢先だったのだ。音がして、ゾッとして部屋を飛び出した。何があったのは即座に分かった。ドアを出るや否や鋭く制される。「ムーメラルダ!」
来ては駄目!誰かが怒鳴った。それで気付いた。屋敷の大階段――以前、アリエスが同じく転んだ階段で、その下に何かが長くなって倒れていたのを。悲鳴が上がり、足が見えた。全身の骨が砕けたみたいに女性が長くなっており、「ルスティカ!」
階段から足を滑らせて……!誰かが叫んだ。ひと目見て分かる凄惨さだ。巨人に掴まれ思いっきり叩きつけられでもしたような。「ああ、誰か、早くお医者様を…!」
だがそのときルスティカはまだ喋れていた。半死半生で、うわごとのように呟いていたのだ。お許しを、と。喋りません、喋らないから…
医師が来て、彼女を見た。魔法が長けた世の中だ。大概の怪我は治せる。ただ一つ、頸椎を損傷した場合を除いては――
ルスティカは頚の骨が折れていた。
泣きながら、妹は故郷に手紙を書いた。慈悲深いお館様は、侍女の災難に深く心を傷めてくれた。それはお嬢様もだ。施療院の恰好をして姉を看てくれる。暫くはここに居て良い、と。だが、ある日彼女は偶然気付いてしまった。
些細なことだった。ルスティカの使用着を、メリンダが処分したのだ。血に汚れておりもう使えないわ、と。だが妹は嫌だった。あれを着ていた姉は、彼女にとって憧れだったから。だから――
血の付いた制服を、彼女は拾ったのだ。古布を集めに来た商人に話しかけ引き取って。「これはまだ手元に残させて」と。案の定商人はあっさり承知した。血の付いた衣類なんて気味悪かったのだろう。
そして妹はそれを洗った。いつも使っている、下層使用人の洗い場で。そして気付いた。すっかり血の落ちた姉の衣類の首元に、あるものが浮いていたのを――
それは呪詛だった。着た者が必ず災厄に見舞われる禁じられた呪い。
ムーメラルダは訝った。それは、黒い使用着に黒インクで染められている。いびつな形にひしゃげ、だが明らかに人為的に書かれたもの。刹那、気が付いた。これは誰かがしでかしたこと。姉を意図的に、ああするためにやったもの――
(ここに居ては駄目)思い出した。姉の声を。駄目よムーメラルダ――
姉は日に日に悪くなっていた。お医者様の話では、少しはよくなるはずだったのに。だが、容態が思わしくなく、とうとう数日後姉が口も利けなくなってしまったとき、彼女は気付いた。犯人が一体誰だったかを。
ある日のことだった。使用人ばかりが出入りするはずれの庭――そこに通じる扉が、開いていたのだ。姉のことで頭が一杯で、放心したように迷い出た。一人になりたくて。だが庭に彼女が出ると、
女性が立っていた。この屋敷の令嬢、アリエスが。
彼女は干してある洗濯物の下に立っていた。そしてそのうちの一枚に手を伸ばし、下ろしていたのだ。異様な光景。いくら令嬢でも、こんな場所に立ち入るなんて。だが、
そのとき彼女はこう言った。ふいに、何百メートルと離れている場所を見るような目をして。
「こんなもの拾っては駄目よ…」
そう言い、衣類を一枚取る。姉の使用着を。そしてそのまま、ムーメラルダの横を通り抜け去ったのだ。何の動揺も、乱れも感じさせずに。
そうしてそれきりだった。
一連のことがきっかけで、彼女は姉にこんな仕打ちをしたのが他でもないアリエスなのだと知った。そして、気付いた。アリエスは姉を看病していた。甲斐甲斐しく。だが実際は姉は更に呪いを幾重にもかけられていて、
とうとうああなってしまったのだ。口も利けなくなるくらいに。
その夜、ムーメラルダは斬りかかった。寝室に入るところだったアリエスに。だが騒ぎを聞きつけた使用人に見付かって、その日を境に解雇された。お館様は容赦なかった。最愛の一人娘を殺そうとしたのだ。だが、
姉妹の先行きを思ってだろう。一切を伏せて、次の仕事先への紹介状を書いてくれた。だが妹はそれを面前で破り捨てた――
「あれは、悪魔よ」ムーメラルダは言ったという。うわごとで繋ぎ合わせた姉の言葉を聞かせながら、涙で震えて。「レリオット様、あれは鬼です。魔物よ――」
ハールは身震いした。何……それ。思わず囁いてしまう。レリオットも険しい顔をしており、アリエスがじっと黙って目を伏せた。やはりか……
獣の匂いは消えないものだ。そう、呟いた。え?聞き返す間もなくアリエスが訊ねる。「レリオット、その呪詛は?」
「出所ははっきりしませんが」レリオットは懐をまさぐった。呪いを極力無効化させる紙に書かれている。気を付けて――差し出すと、指さした。「この国のものではないようです。これは」
アリエスが紙を広げる。横から覗き、途端にガンと思いきり頭の中を殴られたような鈍痛が走りハールは悲鳴を上げた。「あっ!」
「見るな!」アリエスが制する。素早く握りつぶし、蝋燭の火にくべてしまうと、アリエスは言った。「これは――」
大丈夫か、レリオットがハールに尋ねる。な……ハールは身を竦めた。何なの?今の。途方もなく忌まわしくておぞましい何かだということは分かる。絶対に、触っちゃ駄目な類のもの。アリエスが言った。
「やはりな。これは……イドリシアの秘術だ。イドリシアは異端崇拝の黒魔術。これで彼女の正体を難なく暴ける」
なんだって?途端にレリオットは、ハールは揃って目を見開いた。
5
東の魔女には誰も会えない。会えるのはただ歌を歌ったときだけ――
翌日の昼過ぎ、三人は町を後にした。身なりの良い男が女を連れ帰るのは珍しいことではない。玉の輿だね、と店の主にひやかされながら、二人は宿を出て町の外に出た。レリオットに先導され馬に跨り荒野に出る。
「歌?歌って何なの」ハールは訊いた。アリエスはさっきからじっと黙っている。荒野は相変らず荒涼としており、何というか――不毛の地だ。こんなとこでまた野宿すんのね……ハールは唸った。「嫌なら残れ。同行は勧めない」
バカ言わないで?ハールは呆れた。まだ言ってるの、そんなこと。眉を顰めてしまう。「言ったでしょ、使命を全うするにはハールが居ないと……歌って何の歌?レリオット」
「知らん」レリオットは不機嫌そうに答えた。「ただ昔からそう言うのだ。お前こそ、真理の書を紐解いているのに何も知らんのか」
だからその真理の書って何よ!ハールはいきまいた。どうやらそういうことになってしまっているらしい。高次元の魂が住む世界にある全てが記された書物。言っとくけど、私が読んだのは『ロイヤルギルティ』一巻から四巻までですけど…
「伝記にはそうある」アリエスはぽつりと呟いた。「東の魔女は、身を隠す術に長けており誰も会えないと。ただ一つ会えるのは、ある場所に赴き魔女の喜ぶ歌を歌ったときだけ…」
は?何それ。ハールは唸った。「……そんな適当な」「だがそう言うんだ」アリエスは眉を下げた。「だが会えた者は少ない。何を、どんな歌を歌えばいいかすら……」
つまりは声フェチね?ハールは無理に納得した。何だか分からなくもないけど… 荒野の果てで何かが空に無数に舞っている。何あれ、ハゲタカ?思ったハールは訊いた。「どこ行くの?」
「ここから十里、マルダの山に」アリエスは答えた。「言い伝えでは遺跡が有ると。白大理の古代遺跡で、夜更けと共にそこで歌えば魔女の住まう場所に辿り着ける。事実かどうかは知らないが……」
一里って…約四キロよね。ハールは思った。てことは全部でざっと四十キロ?余裕じゃない。
が、意に反してそれから数日ハールたちは死にかける羽目になった。
変な人面ライオンみたいな獣の群れに襲われる。巨大なサソリに追い回される。ぎゃー出た!叫ぶハールは当然戦力圏外だ。「気持ち悪っ!!」「少しは加勢しろ!この役立たず!」
後ろから頑張って魔法書で加勢するも大惨事だ。何故か大量のニワトリの群れを生み出してしまい騒ぎになる。コッコー!コッコココココケコ―!!五十羽以上のニワトリがパニックを起こして駆け回り『何とかしろ!貴様――――!!』
ま、まあ良いんじゃない……ハールは思った。大量の晩御飯は手に入った訳だし?レリオットはうんざりしている。傷だらけになって野営するも、ハールは一つだけ気付いた。どうやらコノカは、料理に関する魔法だけは上手いらしい。「えーと…」
から揚げ。先ほどのニワトリを使って鍋を相手に魔法を繰り出す。「それからチキンカレーとチキン南蛮と……」
アリエスは素朴に感心している。言葉数が少ないのであまり喋らないのだが、「うまい」を連発している。「うまい」「うまい」「うまいな」「そ、そう」「何だこれは…」
魔力の無駄遣いだな。レリオットは毒づいた。だったら食べんじゃないわよこの野郎!遠慮なくやり返す。ギャンギャン言い合い、翌日は足が腫れ上がるほどの岩砂漠にアブの群れ!
もうイヤ――――!!ハールは叫んだ。たったの四十キロが地獄だ!一日数里進むのがやっと。ようやく五日目に問題の何とか山の麓に到着する。「こ、ここ…?」「そう」
マルダの山は、本当に小さかった。三十分ほどで頂上に着いてしまう。確かに遺跡がゴロゴロしており、倒れた柱や崩れた壁の残骸が風化しかけて辺りに残っている。石くれだらけで歩きにくいし……思ったところでようやくアリエスは足を止めた。「あれだ」
途端にハールは目を剥いた。何だか小ぶりな円形闘技場みたいな場所が見えている。白大理石で、ぱっと見には昔のコンサート会場みたいだけど……(古代ギリシャの遺跡みたいだ)真ん中に向かって緩い段差が伸びており、「こ、これ?待ってよアリエス…」
三人揃って円形の舞台状の空間に立つ。で…?ハールは訊いた。「どうすんの?これから…」
「………」
途端に男二人は――(厳密には正体男の女と正真正銘の男は)揃って黙った。え?ハールは目をしばたいていた。「歌うんでしょ?歌いなさいよ。はいどうぞ」
「…………」
更なる沈黙が訪れる。言い伝えによると、ここは魔女の目が届く場所だ。つまり、それが本当ならどこかで魔女が見ていることになる――さあどんな芸を披露してくれるのと。「早くしたら?アリエス」
その途端、カッと二人が目を剥いた。『無理!!』せえのでそう言い後じさる。はあっ!!?言うなり思い出した。そうだ、ハールは確か物凄い音痴で……!
レリオットは蒼白になっている。ていうか歌って何?!そんな顔をしており(そりゃあねえ。そんだけコミュ障だったら歌の一つも知らないでしょうよ…)
「ハール様お願いします!」レリオットは叫んだ。「いや、ここは君が!」「俺は歌知らないんですよ!というか友達居たことなくて…!!」「何だって気の毒な!?」
ということで頼んだコノカ嬢!!シュバッと指さし指名される。ええっ?!コノカはたじろいだ。しかもこの場で?音楽もないのに!?「ちょっと!」
魔法!まほう!二人は騒いだ。勝手極まりないとはこのことだ。「ホラ魔法で音楽をかければいい!」「それだ!」「君の世界の音楽なら魔女も喜ぶかも…!!」ああもう!
仕方ない。コノカは諦め呻いた。本をぺらぺら捲り考える。えーと、まずはこうやって印を組んで……『早く!!』
あんたらいい加減に…!その途端、出し抜けに真上から音楽が流れ始めた。しかも大音響、おまけにボカロ。ちょっとおお!だが言ってはいられず遂にやけっぱちで歌い始める。自暴自棄とはこのことで『うおおお行け――――!!』(な――何やってんの、私!わざわざ転生してこんなところでボカロとか……!!)
しかし楽しいのは事実である。実はコノカはカラオケが好きで、週に二回は一人で叫んでいた猛者なのだ。「上手いな!!お前!」「しかし何を言っているのかはさっぱり分からんが!!?流石だ!!」
ゼエゼエゼエ、六曲ほど立て続けに続けて歌い黙り込む。ま、まだ……?何の変化もなく、ていうかもしやお眼鏡にかなわなかったんじゃ……それかやっぱり逸話自体がインチキで。「………」
あのー……コノカは顔を上げた。二人は硬直している。さ、流石に曲選がコア過ぎた?イケボだからハズレはないはずなんだけど……「魔女、さん?」
そのときコノカは気が付いた。そう――あることにだ。それは、選ばれたものしか(嘘ですよ。冗談)分からぬ感覚。厳密には耳の肥えた者しか理解出来ない感覚だ。あまりに良い声を聴くと、際限なく聞いてしまうというやつで……
「……ふっ」コノカは笑った。つまりは無限ループ。ならこれしかない。ゲホッ……咳き込むと、コノカは言った。すう、と息を吸い込み空を仰ぐ。ハールの声なら問題ない、ハズ!だって声は人気声優だったし私もボイスドラマ聞いたときはお耳が召されるかと思ったくらいで、だから大丈夫!多分!
「……いつまで待たせるつもりだ?」 『コノカ』は言った。思いっきり腰砕け声を炸裂させてやる。エフェクトの飛びそうな顔で空に呼びかけた。「早く会わせてくれ、君に……」
『…………』
沈黙が訪れた。何だか物凄く長い沈黙。しかも痛い。温い風が吹き抜ける。ややあってから、固まっている二人にコノカは言った。「うるさい、黙って」
その瞬間、地鳴りがした。ズッ、ズズン!「きゃあ!」出し抜けに足元が跳ね上がるくらいの地鳴りが来る。うわっ!アリエスが体勢を崩しよろめいた。「お、わ!」揺れはますます激しくなる。ドドドドドド!!!
随分経ってから、揺れが収まった。コン、カラン――石が周囲の遺跡から落ちてくる。顔を庇っていたハールはようやく咳き込んだ。「…あ、ああ!何!もう何なの…!」
言うなり硬直する。周囲がいつの間にか、霧に覆われており(土煙?)、その奥に小さな――傾いだ家が見えていた。
「……ここ」ハールは呟いた。さっきとは、景色がまるで違う。円形の舞台状でもないし、いつの間にか奥には岸壁が見えている。家は岩壁にほとんど飲まれるような格好になっており(廃墟…?)ハールは思った。でも、
扉が開いている。傾いだ家の前に付けられた小さな戸が一つ。そして、その前にフードを被った小さな小さな老婆が立っていた。
「……貴方は――」
アリエスが目をしばたく。と、相手はフードをするりと下げた。本当に魔女みたいだ。ただしフードは灰色だけど。相手はハールを見ると、言った。「いらっしゃい」と笑う。
(……東の魔女?)
可愛い老婆だ。だが、相手はその瞬間、これ以上なくニンマリすると(分かる者だけには分かる類の笑いだ)揉み手までしてこう言った。
「どうぞ、私の可愛いお客さん?」
途端にアリエスとレリオットがゾッと身を震わせた。
6
『魔女の家』は思ったよりも平凡極まりなかった。どこにでもある家屋みたいだ。ぼんやりした明かり取りの窓に、宵闇みたいな光が射し込んでいる。
植物園みたい……コノカは椅子に掛けながら、そう思った。窓際に多種多様の植物がビンに入って吊り下げられている。何だか食虫花みたいなものや、不思議な花まで、びっしりと窓が埋まっており、それで中が暗いのだ。「久しぶりだねえ、ここに人が来るのは…」
ハールはポカンとした。やっぱり――魔女なのだ。改めてそう認識する。東の魔女、異端の象徴、散々言われているようだけど、こうして見るとそう悪い人には感じられない。ちょっと癖のある博学のお婆ちゃんみたいな……「ふっ、そう言って頂けると嬉しいがね」
途端にハールはぎょっとした。さっきから、ひと言も話していないのに相手が先じて返事をしているのだ。男二人は情けないかな固まっている。みっともない、シャンとしなさいよ…思うと同時に相手は言った。「ホントにね、情けない話だよ…」
やっ――ぱり!ハールは相手の顔を見た。相手はふんと笑っている。どこにでも居るしわくちゃの老婆、だが頭の中はお見通しなのだ。「お茶をどうぞ。そっちのお嬢さんは出さないほうが親切だろうね」
途端にギクッとアリエスが身を強張らせた。だが、流石はハールだ。肝も据わっているらしい。ガタン、と椅子を鳴らして立つと片膝をついて一礼する。「東の魔女――いや、賢老オリカステ殿。拝謁の僥倖感謝する」
はいえつ。ハールは思った。トイレに行くこと?「それ排泄」即座に魔女が切り捨てる。「堅苦しいね。前に来たときはそんなのじゃなかったが」
途端にハールは目を剥いた。な、ん?レリオットがぐっとむせ返る。おっかなびっくりすすめられていたお茶を吹き出して叫んだ。「何だと!どういうことだ!説明召されよ!」
その瞬間魔女が片手を振るった。パン!音がしてレリオットの耳飾りが吹っ飛ぶ。まるで見えない手で叩かれたみたいに――「黙っておいで」言うなり老婆は半眼になった。ぞっとするほどの冷たい目だ。「東の魔女は気が短い。知らないかね?」
ヒュッとアリエスが息を飲んだ。ハールは思わず凍りついた。どう――いうこと?
「そっちの中身」老婆はハールを指すと言った。その爪は鬼のように鋭く尖っている。唯一魔女だと感じさせるもの――その指で指すと続けた。「中身は女の子だね。やっと身体が見付かったのね?やれ、とんだ番狂わせじゃないか」
え、えっ?途端にハールは意気込んだ。だが下手するとまたさっきのレリオットみたいに見えない手ではたかれてしまう。オマケにすっかりレリオットはさっきの件で怯えているようだし(本当情けないわね!)ハールは睨んだ。ま、待って、お婆ちゃん――じゃなかった東の魔女さん。立ち上がる。「どういうこと?それって!」
言うなり老婆は眼を細めた。その目が、ふいに獣みたいに緑に光る。ひいっ!声を上げレリオットが立ち上がった。もう限界なのだ――だが相手はこう重ねた。
「…魔女はただで知識を売らない」そう、囁いた。「相応の対価を払わぬことには。前来たときは大枚を置いていってくれたっけね。アリエス・ロッド・マクスェルさん」
ハールは目を剥いた。やっぱりだ――彼女はここに来ていたのだ。そして思った通り、彼女は尋常じゃなかった。一筋縄ではいかなかった。こんなの正直『ロイギル』の筋書きには完全に反しているけれど!!
「何をくれるの?お前さんたちは」
「………」アリエスが黙った。だが、考えていることは分かる――(…承知した)どうせ彼が言うのはこんなところだ。(ならば、全てが済んだら貴殿を賢者の地位に戻すことを約束する。もしくは、俺の寿命を…)
「…分かった」ハールは先んじて切り出した。「!!」とっさにアリエスが顔を跳ね上げる。「何を!コノカ」だがハールは目を据えた。
「……これでどう?」密かに笑う。「――好きな殺し文句五十選」ズイ、と詰め寄った。さっきのアレ――アレで気付いたのだ。この老婆、実は密かに同志だと(何の、ということは断じて追求しないで下さいね!)。ついでに手を包み言ってやる。魔女だから音や声を保存する方法なんて幾らでも有るでしょ?目覚ましからご褒美台詞、ピロートークまで何でもござれ!好きな言葉喋ってあげるから!!
間が訪れる。い、一体……レリオットが――アリエスが黙っており、だがその時老婆の目が薄く光った。
「……百でどうだい?」
何を!!?アリエスが叫ぶ。構っていられず、「交渉成立ね……」ハールは笑うとガッと魔女と手を取り合った。
アリエス・ロッドがここに来たのは今から二年前のことだった――と、老婆は語り始めた。
レリオットは完全に怯えてしまっている。アリエスは比較的落ち着いているが、顔以外に本当褒めたところがないね、と老婆は睨んだ。対するハールにはデレデレだ。「こっちのお嬢さんは話が分かるみたいだけどねぇ」「本当よー少しはシャンとしなさいよ?『護国卿』」
「イバテル又はイドリシアの魔術をご教示願いたいと」老婆は記憶を辿るような顔をした。何だかんだ言って人間なのだ。手に触れられていると尚更感じる。「そう言ってね。一人でここまで……」
アリエス――一体どうやって?ハールは思った。仮にも名家のご令嬢。フラフラ荒野を歩いてこんな所まで来られるはずがない。だが、レリオットは首を振った。「あの時だ……二年ほど前、彼女をナルヴィエまで護衛したことがある。ナルヴィエには、女神崇拝の聖堂が有るんだ。彼女はその崇拝者でもあったから」
近くに来ていた。それでも随分離れているけど。
「どうやって来たかは知らない」老婆は言った。「だが彼女はこう言った。この世を嫌悪したと。このままでは、途方も無い闇路に踏み入りそうだ、とも――」
何の不足も無い裕福な人間。老婆は喋った。「そんな者に限って、闇を抱くことは少なくない。貪欲なのさ。もしくは、全てが作り事で、何もかも捨てて逃げ出したいと思っていたのかも――だが」
彼女はこう言った。自分をこの世から解き放ってくれ、と。父にへつらい、粛々と生き、心清い貞潔な乙女であるのに疲れた、と。ならばてっとり早い。死ねばいいのさ。だが彼女はそれは御免被ると言った。
そして続けた。出来るなら――そう、誰かと人生を交換出来ないか?と。例えば全く別の人間と魂を交換するなどして。イドリシアはあらゆる秘術を統べる至高の魔術。不可能は無い――
「出来なくはない」老婆は再び目を光らせた。どうやら力が篭ると目が底光りするようだ。「だがそれには相応の対価と、条件が要る。まず、入れ替わる人間が瀕死の状態であること」
途端にハールはハッとした。瀕死、まさか!!
「もしくは死を迎える寸前であること」老婆は指折り数えた。「そしてもう一つ、魂を入れ替えるということは理(ことわり)に反する。ゆえに魔術に供物を捧げなくてはならない。高い次元の魂を。例えば、それは武勲名だたる者。美貌の者。生まれの恵まれたもの。王族などを」
ハールは頬を強張らせた。アリエスが、絶句している。「私はその方法を彼女に教えた」
「で――でも!」思わずハールは口出した。「それなら、それだと私は本来、多分……アリエスと入れ替わってるはずでしょ?そして――」言い淀む。「ハールは、死んでるはず。少なくとも魂が供物にされてるはず、なのに」
「そこだよ」老婆は言った。「これは恐らく憶測なんだが……」
「魔術が、混乱したんじゃないのかね」老婆は言った。「たまにあるのさ。稀にね、人間の使うものだ、ミスが起きる…恐らくあの娘は、アリエスは――私の渡した幾つかの道具で、最初にお前さんを見付けたんだろう。気の毒に、鋼鉄の怪物に潰されて死んでしまうお前を。そしてこれしか無いと思った。捧げる魂は戦場の死にぞこないだ。なに、稀に混じってるのさ。運悪く息のある者がね……そこで格好の(しかも王族だ)献物を見付けて秘術を使った」
だが、そこでミスが起きた。老婆は目をしばたいた。「魔法とは知っての通り心のものだ。意志の強い者、心の強靭な者が強い魔力を持つ。どうやら一方的だがお嬢さんはハールに面識があったんだろう。しかも死の瞬間、ハールを強く想った。普通は恋人や妻だったり子供だったりするんだが、それでアリエスと入れ代わるはずの魂があらぬ方向に引き寄せられて」
トン、とハールの胸を指す。「ここに入った。ハールの身体にね。アリエスはさっさと事切れたばかりのお嬢ちゃんの身体へ。じゃあ、残ったハールの魂は」
本来なら魔術の餌食だ。だが予想外のことに魔術が怯んだ、混乱したのさ。その瞬間、行き場をなくした魂は側にあるアリエスの体に入った――
とまあそんなところじゃないかね。老婆はふっと息を吐いた。「魔術は働かされ損さ。だが、稀にそういうこともある。ごく稀にね。これがことの次第だろう」
「………」ハールは――コノカは、流石にあっけにとられてしまっていた。だが老婆はそ知らぬ顔をしている。「ま、待った」レリオットが口を挟んだ。「では、つまりアリエス殿は――彼女の、この女性の身体で何処かで生きていると言うのか?」
「そうだよ」老婆はまた不機嫌そうに答えた。どうやらレリオットが嫌いらしい。「でなきゃ計算が狂ってアリエスの魂が間違って魔術に食われたかだ。こればっかりは見ないと判らないがね!」
言うなり立ち上がる。奥に歩いていくと、浅めの素焼きの壷を持ってきてドン!とテーブルに置いた。流石は魔術師だ。わあ、目を輝かせるハールの前で手早く窓辺に並んだ薬瓶を何種か掴み出してくる。お茶を水代わりに注いでしまい、瓶の中身を垂らすと何やら囁いた。『詠唱』だ。聞いたこともない世界の聞いたこともない言葉。「――あ!」
刹那、ボッと水面が燃え上がった。緑色の炎が立ち上がる。きゃ、あ!ハールが顔を庇うのと、アリエスが覗くのは同時だった。途端に色鮮やかに、ぱあっと水面に映像が浮かび上がり――
『きゃはははは!!』
その瞬間、ハールは固まった。ハールだけじゃない――レリオットも、アリエスも固まる。そこには誰かも判らない、髪を思いきり金に染めた女が映っていたからだ。茶髪なんてもんじゃない、モーレツゴールド。しかも厚化粧でどこのキャバ嬢だよと思わせるようなピチピチの衣服を身に着けており、
(やだ―――!!またやるんですかぁシャンパンタワー!飽きちゃったあ!)
な、なっ………ハールは絶句した。そこにはどう見てもホストらしい男が何十人と映っている。キャキャキャキャキャ、品も知性もない笑いが飛び交い、しかも胸の谷間全開。だ、誰よ!!
ちょっとおおお!!!ハールは叫んだ。これ、私!?思わず絶叫してしまう。コノカちゃんに乾杯―――!!騒ぎ声が反響した。いやーんもう社長さんたら~~~!!おさわり禁止~~!!
途端に水面が静かになる。どうやら転職でもしたらしく、長い間があってから老婆が言った。「……楽しくやってるようだね、随分………」
沈黙が訪れた。気が付くと、青ざめた顔で二人がこちらを見ている。何だか――何だか哀れむような、これ以上無く気の毒なものを見るような顔で目の下に陰まで作っており「わ、私じゃない!」ハールは叫んだ。「私こんなのじゃないから!!」
「……まあ」流石に哀れんだのか老婆が言った。「これで次第は知れたね。あのお嬢さんは、生きてる。つまりやっぱり睨んだ通りニアミスだよ。まあ元に戻せなくもないから、気落ちせず…」
戻れね―――――よ!!コノカは叫んだ。ていうか戻れないわよ!!あんだけ生き恥晒して帰れるかぁあ!!むせび泣く。あの野郎―――――!!!「ま、まあ落ち着いて……」
とんだ食わせ物だった。ハールは思った。歯がみまでして悶絶する。本物のアリエスは。清純で従順でおしとやかで、ハールを支えるはずの女性。なのに、何あれ……!!
結局魔女の家に泊めてもらうことになる。自棄を起こして、夜通し約束の『報酬のイケボ集』を手伝い、翌朝ほとんど眠れぬ状態でハールたちは家を後にすることになった。
「……まあ」アリエスは呟いた。次第は分かった……腑抜けたように独りごちる。「よほどこの世が嫌だったらしいな……ご令嬢にも痛み入る…」
それよりあたしに痛み入ってよ……ハールは嘆いた。魔女に別れを告げた途端、地鳴りがして元の円形闘技場のような場所に投げ出されたのだ。「人は見かけによらないな…」レリオットも呻いた。「長年見てきた彼女の姿……あれば全部外面か…」
ま、まあ。ハールは無理矢理頭を切り替えた。ともあれいくつか打開策が見えてきたわけだし?そう言い拳を打つ。原因は分かった、それだけで大進歩よ。それに」
魔女が言ってたじゃない?ハールは目を上げた。帰り際、アリエスが訊いたのだ。こればかりは彼があるものを対価にして。正直賛成出来なかったけど……「もう一度、入れ替わる方法がある。せめてハールは元の体に、私は女の体に戻れる方法があるって。相当危険はあるけれど…」
ハール様……レリオットが囁いた。対価に収めたものを気にしているのだ。構うな、アリエスは笑った。「俺とて同じだ。この世にそう未練もない」
不本意だが分かる気もする、そう続けた。空を仰ぎながら。「アリエスの想いも――」
…そんなこと言わないでよ。『ハール』は呟いた。こんな形でも、ハールに――貴方に会えて嬉しかったんだから?その声にアリエスが顔を向ける。本来なら決して話も出来ない相手。触れることも、会うことも叶わない貴方に会えたんだから――
「……」ふっとアリエスが笑った。そのとき、ハールは――コノカは、その顔に確かに他でもないハール自身の顔を見た気がした。不器用で、仏頂面で。けれども誠実なハール黒太子の顔。
「そうだな」そう言い目を閉じた。「君に言うべき言葉でなかった。見知らぬ俺を、そこまで気にかけてくれていたのだから」
え?ハールは目をしばたいた。レリオットも不本意ながらそこには同意する、というような顔をしている。魔法のニアミス――それを起こしたのは彼女だった。それは他でもない『奇跡』なんだろうけど。
(死の瞬間、ハールを強く想ったんだろう。普通は恋人や妻だったり子供だったりするんだが)
え、えっ。ハールは口篭った。二人は歩き出している。元の荒野に向かって。ま、待って、その……
ち、違うわよ?ハールは言った。思わず泡を食ってしまう。何がだ?アリエスは目をしばたいており、レリオットは白目でこちらを見ている。「別段そんなのじゃ!」「そんなのって何だ」「うるさい!ヘタレ護国卿」
ギャーギャーやり合う。アリエスは軽く笑っており、その背に追いつきながらハールは思った。
これからだ。ここから先がいよいよ本番なのだけど――
それでも一つ分かった事がある。こんな目に遭っても、これでも、どうも私嬉しいみたいだ。彼の役に立ててることに――
「行くか」アリエスが振り向いた。「〝コノカ〟」
ぱあっと世界が明るくなる。そんな気がした。それは錯覚だけど、彼が手を差し伸べてくれたみたいな。コノカは頷いた。
「――はい!」
筋書き通りじゃない。全く。だがそれも人生なのかも――ふいにそう思いながら、ハールはその背にぱっと駆け出した。