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《JAXA/ISAS 相模原キャンパス/プラネタリーディフェンス作戦室》
午前五時過ぎ。
窓の外はまだ青黒く、
空だけが、
何も知らない顔で薄く明るみ始めていた。
作戦室の中では、
スクリーンの光だけが
先に朝になっている。
日本地図。
中心ライン。
格子。
そして、昨日よりさらに濃くなった
ひとかたまりの赤。
若手研究者が、
乾いた声で読み上げた。
「……誤差楕円、さらに縮小。」
「高確率セクター、
主候補県に収束しつつあります。」
誰もすぐには
言葉を返さなかった。
白鳥レイナは、
画面を見つめたまま尋ねる。
「“主候補県”って言える根拠を、
もう一度。」
別の研究者が
端末を操作する。
「美星スペースガードセンター、
IAWN欧州局、
北米側の追観測、
CNEOS の再計算、
全部合わせて——」
画面の赤い塊が
ゆっくりと一つの県域に
寄っていく。
「今日の時点で、
“ここが最有力”と
科学側が認識するには十分です。」
「ただし、
県内のどこに落ちるかはまだ幅があります。」
「沿岸か、
内陸か、
山間部か——
そこまではまだ言い切れません。」
レイナは
深く息を吐いた。
(ついに来た。)
(“日本のどこか”じゃなく、
“その県”を
口にしなきゃいけない日。)
若手が、
恐る恐る言う。
「先生。
……今日、言うんですか。」
レイナは
静かに頷いた。
「官邸には、
今日のうちに
“県名を出す前提”で資料を送る。」
「もう“言わない方が守れる”段階は
過ぎた。」
「ここから先は、
“どう言えば少しでも守れるか”の
勝負よ。」
彼女は
官邸向けの資料表紙を見直し、
自分の手で一行を書き足した。
〈主候補県確定フェーズ移行〉
その文字の重さに、
ほんの一瞬だけ
指が止まる。
「……それから。」
レイナは
部屋の全員を見渡した。
「県名が出たあと、
“県名が出たから終わり”みたいな顔を
誰一人しないで。」
「そこから先が
本当の地上戦だから。」
誰も、
軽くはうなずけなかった。
《総理官邸・状況室》
スクリーンには
JAXAから届いた
最新の限定資料。
封筒には赤字で
こう書かれている。
『主候補県(限定)』
鷹岡サクラは、
その紙を手に取る前に
ほんの一瞬だけ
目を閉じた。
(この紙を開いた瞬間、
“日本のどこか”は
“この県”になる。)
(名前がついた途端、
人はそこを
“壊れる場所”として見る。)
それでも、
彼女は封を切った。
紙の上には、
地図と、
県名。
部屋の空気が
少しだけ沈む。
藤原危機管理監が
静かに口を開いた。
「——JAXAの見立てでは、
本日中に県名公表へ移るのが
妥当です。」
「県内のどこかまでは
まだ特定できません。」
「ですが、
“この県を中心に
避難・移送・受け入れを回す”という判断は
もう遅らせるべきではありません。」
厚労省が資料を示す。
「高齢者施設、透析患者、
妊婦、乳幼児、入院患者。」
「優先移送対象は、
県名公表と同時に動かすと
間に合わない可能性があります。」
「すでに一部は
“事前移送”に入るべき段階です。」
国交省が続ける。
「高速道路は詰まります。」
「鉄道・バス・自衛隊車両を
先に優先運用しなければ、
一般の自主避難と混線して
全体が止まります。」
警察庁が言う。
「県名公表後は、
買い占め、
路上駐車、
無許可キャンプ、
略奪、
デマによる交通混乱が
一気に増えると想定しています。」
サクラは
資料を机に置いた。
「……つまり。」
「県名を出すことで
混乱は起きる。」
「でも、
県名を出さなければ
もっと間に合わない。」
誰も反対しなかった。
サクラは
はっきり言った。
「今日、出します。」
「ただし、
名前だけを先に落とさない。」
「県名と同時に、
避難路、受け入れ先、
優先移送対象、
交通運用を出す。」
「“宣告”じゃなく、
“生き延びるための合図”として
言います。」
藤原が
小さく頷いた。
「承知しました。」
サクラは、
紙の上の県名を
もう一度だけ見た。
(この名前を、
私は今夜
世界に向かって言う。)
(その瞬間から、
この県の人たちの運命は
また一つ変わる。)
(だったらせめて、
“終わった場所”には
させない。)
《高リスク県・郊外の大型公園》
朝なのに、
公園には
もう夜みたいな疲れが
積もっていた。
駐車場には
車がぎっしり並び、
その間に
簡易テントが立っている。
ミニバンの後部座席では、
小さな子どもが
毛布にくるまっていた。
「ここ、キャンプ?」
母親は
笑おうとして、失敗した。
「……ちょっとだけ、ね。」
父親が
スマホの地図を見ながら言う。
「今日は県名、出るかもって。」
「出たら、
もっと西に動いた方がいいかな。」
母親は
トランクの中の
水の残りを見た。
「ガソリン、あとどれくらい?」
「半分。」
「じゃあ、
動くにしても
一回並ばないと無理だね。」
少し離れた場所では、
高齢の夫婦が
テントの骨組みを立てている。
「ほんとにここで寝るの?」
「家にいるよりは、
まだ空が見えるだけマシだ。」
「でも寒いよ。」
「知ってる。」
そのやりとりは
喧嘩ではなく、
ただ現実の確認だった。
仮設トイレの前には
もう列ができている。
コンビニの袋、
毛布、
ポータブル電源、
ペットフード。
“避難”というより、
“生活をそのまま持ち出した断片”が
芝生の上に散らばっていた。
公園管理事務所の職員が
メガホンで言う。
「ここは正式な避難所ではありません!」
「本日午後、
市の方から受け入れ先の案内がありますので——」
途中で声が消える。
みんな、もう聞き慣れていたからだ。
(“正式な避難所じゃない”。)
(でも、
じゃあどこが正式なんだ。)
(家にはいられない。
ホテルは満室。
親戚の家も限界。)
(だったら、
ここでもう
朝を迎えるしかない。)
《高リスク県・高校》
教室の空席は、
もう“たまたま休み”の数じゃなかった。
出席簿を閉じる教師の手も、
どこか諦めを含んでいる。
「今日は、
授業じゃなくて
連絡確認を先にやります。」
黒板に大きく書かれる。
『家族と離れた場合の集合場所』
『避難時の連絡方法』
『持ち出し品』
後ろの席の男子が
小さく言う。
「先生。
今日、県名出たら
明日もう学校ないですか。」
教師は
少し考えてから答えた。
「……分からない。」
「でも、
少なくとも
“いつもどおり”ではなくなると思う。」
女子生徒が
スマホを握りしめる。
「うち、
お母さんは出たいって言ってる。」
「でもお父さんは
“仕事があるから残る”って。」
誰も返せない。
教師は、
静かに言った。
「“出る”も“残る”も、
簡単に決められることじゃない。」
「だからせめて、
どっちになっても
連絡が切れないようにしよう。」
教室の空気は重い。
それでも、
生徒たちはペンを取った。
(“意味あるのかな”って
思いながら書く連絡先。)
(でも、
意味があるかどうかなんて
たぶん後でしか分からない。)
《新聞社・社会部》
オフィスは、
まだ回っていた。
でも、
確実に空洞になり始めていた。
空いたデスク。
途中で止まった原稿画面。
取りに来られていないゲラ。
休職届を出した若手。
無断で来なくなったカメラマン。
編集長が
低い声で言う。
「……紙面は出す。」
「出せる限りな。」
桐生誠は、
自分の端末の前で
画面を見つめていた。
見出し案が
いくつも並んでいる。
『県名公表へ』
『政府、主候補県を今夜発表か』
『避難爆発の前夜』
どれもしっくりこない。
同僚の机は空いていた。
昨日から来ていない。
西日本の実家へ戻ると言っていた。
(責められない。)
(むしろ、
そうできるなら
そうした方がいいのかもしれない。)
編集長が
桐生の背後で言った。
「お前も、
決めろよ。」
「……何をですか。」
「記者として最後まで残るのか、
人間としてどこかに逃げるのか。」
桐生は
苦く笑った。
「両立、
できないですかね。」
編集長は
少しだけ肩をすくめた。
「できるやつもいる。
できないやつもいる。」
「問題は、
お前がどっちかだ。」
編集長が去ったあと、
桐生は
窓の外を見た。
空は晴れている。
信じられないくらい、
普通の昼だ。
(この県名を打った瞬間、
紙面が人の人生を動かす。)
(それでも
書かないわけにはいかない。)
(でも俺自身は、
この“書く側”に
いつまで立っていられる?)
彼は
新しい見出しを打ち込んだ。
『今夜、県名が落ちる』
その文字を見て、
自分で少しだけ
ぞっとした。
《とあるネットカフェ・個室》
城ヶ崎悠真は、
モニターに映る
JAXA解説記事と
SNSの予測地図を
行ったり来たり見ていた。
一般人には分からない程度の
軌道の揺れ。
光度曲線の傾き。
誤差楕円の縮み方。
(……もう、県名が出る。)
彼にはそれが分かった。
JAXAにいた頃の癖で、
数字の変化が
どこを指しているのか
嫌でも読めてしまう。
机の上には、
空になった茶封筒。
(USBを渡した。
世界は変わった。)
(でも今、
変わった先の世界で
俺は何をしてる?)
ニュースでは
「今夜にも県名公表か」と流れている。
(俺は、
この瞬間のために
暴いたんだっけ。)
(違うだろ。)
(“隠されること”に耐えられなかっただけだ。)
(でも、
いざ名前が出る段になって
その県の人間が
これからどう壊れていくのかを考えたら——)
彼は
キーボードの上に手を置き、
それでも打てない。
桐生に連絡するか。
JAXAに匿名で
何か送るか。
それとも沈黙するか。
(今の俺に
まだできることはあるのか。)
(それとも、
これ以上触れば
もっと壊すだけか。)
画面の右上に
時刻が出ている。
県名発表まで、
あと数時間。
城ヶ崎は
額を押さえた。
(“真実を出す”のは、
いつだって
その後に責任がついてくる。)
(じゃあ、
俺はあの責任から
逃げ切れたのか?)
答えは出ないまま、
時間だけが進んだ。
《西日本・受け入れ先候補の町》
公民館の前には
臨時相談窓口。
「東から来た人たち、
もうホテル入れないって。」
「体育館を
今夜から開けるらしいよ。」
「学校は?」
「空き教室を
使うかもしれないって。」
町の人たちも、
もう“他人事”ではいられなかった。
老人が
椅子に座りながら言う。
「受け入れるのはええ。」
「でも、
“泊める”だけじゃ
人は暮らせん。」
「仕事も、病院も、
子どもの学校もある。」
若い母親が頷く。
「だから、
“避難”って言葉だけじゃ
足りないんですよね。」
「“生活ごと移ってくる”ってことなんだ。」
誰かが
小さく呟く。
「……戦争の疎開みたいだな。」
その言葉に、
誰も否定できなかった。
《黎明教団・動画配信》
天城セラは、
穏やかに微笑んでいた。
「まもなく、
“選ばれた土地”の名が
明かされるのでしょう。」
コメント欄が
流れ続ける。
〈やめてください、怖い〉
〈自分の県かもしれない〉
〈日本は受け入れるべき〉
セラは
静かに首を傾げた。
「受け入れる、
という言葉を
そんなに恐れないでください。」
「光は、
奪うだけではありません。」
「古い世界を終わらせることで、
新しい世界の入口を
開くのです。」
その柔らかさが、
余計に不気味だった。
《総理官邸・夜の会見》
会見場は、
最初から重かった。
記者も、
カメラの向こうの国民も、
みんな今日の意味を知っている。
サクラは
原稿に目を落とさず、
前を見た。
「——本日、
オメガ60メートル級コアの
落下予測について、
新しい段階に入りました。」
一拍。
「主候補県を、
申し上げます。」
フラッシュ。
静まり返る会場。
サクラは
はっきりと、
その県名を告げた。
「主候補県は、
――茨城県です。」
ざわめきが
波のように広がる。
「ただし、
これは“県内のどこか”を
示すものであり、」
「現時点で
特定の市町村や地点まで
確定したものではありません。」
「だからこそ、
今夜同時に
避難オペレーションを開始します。」
スクリーンに
新しい図が映る。
『優先移送対象』
『主要避難路』
『受け入れ先一覧』
『医療移送計画』
『交通運用の切り替え時刻』
「高齢者、入院患者、
透析患者、妊婦、乳幼児。」
「“県名が出た後では
間に合わない方々”について、
今日から優先移送を実施します。」
「一般の方々についても、
明朝から段階的避難の案内を開始します。」
「どうか、
自家用車だけで
一斉に動かないでください。」
「必ず、
自治体と政府の案内を確認してください。」
記者が
声を張る。
「総理!
これは“宣告”ではありませんか!」
サクラは、
一瞬も目をそらさなかった。
「いいえ。」
「これは、
宣告ではなく
生き延びるための合図です。」
「この県を
“終わった場所”にするために
名前を出したのではありません。」
「この県の人たちを
守るために、
今日、名前を言いました。」
彼女の声は、
震えていなかった。
「ここからが本当の地上戦です。」
「政府は、
最後まで
この県の人たちを
置き去りにしません。」
会見が終わるころには、
その県名は
日本中のスマホに、
テレビに、
車載ラジオに、
駅の待合室に、
避難テントの中に、
新聞社の画面に、
ネットカフェのモニターに
一斉に落ちていた。
《同時刻・群像》
・高リスク県の公園
母親がスマホを見て
言葉を失う。
父親は
子どもを起こさないように
口元を押さえる。
・高校の教室
先生が
職員室のテレビを見つめたまま
壁に手をつく。
・新聞社
桐生が
見出しを打ち換える。
『主候補県、茨城県』
その指が少し震える。
・ネットカフェ
城ヶ崎が
モニターの県名を見て
目を閉じる。
(ついに、落ちた。)
そう思ったのは
石ではなく、
名前の方だった。
・西日本の公民館
受け入れ担当の職員が
深呼吸をして
ホワイトボードに書く。
『茨城県避難者受け入れ開始』
・黎明教団
セラが
静かに目を伏せる。
「名が明かされました。」
Day7。
オメガ予測落下日まで、あと7日。
ついに、
県名が落ちた。
それは石より先に落ちた、
一つの現実だった。
その名前を聞いた瞬間、
逃げる人、
残る人、
受け入れる人、
書き続ける人、
沈黙する人——
それぞれの戦いが
一斉に具体的になった。
ここから先は、
もう“どこに落ちるか”だけの話ではない。
“その県で、
どれだけ生き残れるか”の
時間が始まる。
本作はフィクションであり、実在の団体・施設名は物語上の演出として登場します。実在の団体等が本作を推奨・保証するものではありません。
This is a work of fiction. Names of real organizations and facilities are used for realism only and do not imply endorsement.