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あなたは、人助けという行動と人を助ける道徳心はどちらが先に人間に芽生えたものだと思いますか?
これはあなたの日常での行動を聞いているわけではない。いわば人間という種族にとって、あるいは生物そのものにとって、自分以外の誰かが得する行動。例えばそういった誰かを助けようとすることは、誰かを助けたいという意思や誰かを助けるべきという意志より前にできたものか、それとも後にできたものかという利他行動に関するもので、少し学問的な問いである。
皆さんに是非考えていただきたい…
では答えのまとまっただろうところで私から一つ予想させていただこう。皆様の中にはきっと3種類の回答が存在するだろう。それはこの質問がクローズドクエスチョンであるから仕方ないことなのだが、つまり、
1.利他行動そのものが先に存在して、後から道徳が生まれた。
2.利他行動するべき道徳が先に生まれて、行動がそれに付随した。
3.行動と道徳心は同時に発生した。後も先もない。
この3択であると予想する。これ以外の回答を考えたあなたはクローズドクエスチョンに対する新たな解答法を見つけているので今すぐ学会に報告して欲しい。
しかしながらこの中には明確な間違いが存在していると筆者は予想する。つまり、3番の行動と道徳の同時発生はあり得ないということである。例えるなら、感情を前提にしない行動とは本能と反射に大別され、また行動を前提にしない感情とは背景や前例を基にしなければならないからである。私たちは何かを生み出すとき本当に全くもって0から何かを生み出すということはない。一見すると前例や背景のない発想を生む私たちの思考にはそれにつながる考え方の源泉である背景が見えず存在しているはずだからである。例えるならばそれは空を見たことがない人には人が乗り込んで空を飛ぶ飛行機を想像できないことと同じことである。
つまり同時にこれが発生するということは、利他行動の道徳心を前提としない考え、本能から利他行動を実践し、その利他行動の瞬間にもその利他的な行動を前提としない道徳心を発想したということであり、これがいかに不可思議で同時に起こることに違和感があるかわかるだろう。
…では本題に入るが、つまり利他行動とその道徳心のどちらが先かという話題であるが、普通に考える…つまり順序というものを考えるなら、他人を助けるメリットを前提とした道徳心が醸成されて利他行動が発生したというふうに考えるのが自然に見える。
ところがそうではないだろうということを私は今回力説する所存である。
昔からの研究で、利他行動は動物にも存在するということはかなり有名であるが、よく説明される生き物はミツバチやオオカミ、イルカなどの社会性を伴う生き物で、要するに家族や親族単位で生活していてそれが助け合っているという時に説明される利他行動である。これは社会性という自分と繁殖相手以外の同種との共生関係にあることから十分納得しうるものであるし、細かい説明は省くが血縁選択説理論の存在がそれを証明している。
だがここに大きな問題が存在する。つまり自分以外の繁殖ペアの巣作りを助ける鳥の話である。その一見すると利のない行動に対する説明は、”のちのち相手から助けてもらえるかも”という相互扶助を求める互恵的利他主義から説明されるわけだが、そもそも我々が利他的な行動を行う前提にある道徳や倫理は我々だけが獲得した価値観であろうか。まぁ100%違うだろう。私たちは社会性のない鳥ですら相手を助ける理由が互恵的であることを知っているのだからそれを否定することができるはずだ。
つまり利他行動の実施に社会性から発生する相互扶助の必要性が道徳心を産んだわけではなく、助け合いたいという利己的な利他主義の本能がそういった道徳観の原型を形成したということである。
また、つまり、道徳観が先に醸成したわけではなく、社会性も何もない、助ける理由なんて本当は存在しないだろうところから我々は自分が助けられたいから相手に同じ行動をとってもらえるように勝手に助け出したという可能性を見出すのである。
人を助けることは良いことである。周りのために行動するのは美しいことである。そういった意思とは関係ないところに”私以外の誰かを助けよう”という行動が存在している。
では最初の体に対する筆者の解答は、利他行動が先に誕生し、道徳心がこれに肉付けして生まれた。ということである。