ユカリは薄闇の虚空を手探りしつつ、月明りの漏れる窓辺へと近づく。今度は屋根に何かがぶつかった。レマの悲鳴が段階を上げて甲高くなるたび、屋根裏に住まう類の魔性がせせら笑う。
「どうするおつもりのですか?」とレマが尋ねる。
「見てみないことには分かりません。窓蓋を開けます。良いですね?」
「悪いものが入ってくるのかもしれません。やめた方が良いの思います」
「巨人は窓から入ってきませんよ。下がっててください。開けます」
ユカリは勢いよく窓蓋を外す。涼やかな月光がユカリを斜に照らす。
村の端のこの窓辺からは、小さな村の全景が見える。屋根々々の向こうには丸い月を揺らめかせる湖があり、その村と湖を大きく囲むようにして杉の森が広がっている。
そして杉の木よりも巨大な人の影が月を背にしていた。巨影は星々にも届きかねない腕で夜天も貫かんとする甚大な槍を持ち上げた。否、杉の木の一つを引き抜いたのだった。己を憐れむ涙のように根から土が零れ落ちる。巨人は杉の槍を肩に担ぐようにして構えた。
何をするのか察したユカリはグリュエーの名を叫ぶ。
「木を吹き飛ばして!」
「善処するけど」
巨人が総身を引き絞り、弾けるように剛腕を振り、杉の木を弓なりに放つ。杉の木の鋭い穂先は風を切り裂き、湖を飛び越え、頂を過ぎて地上へと突き進む。射程まで誘い込むと、ようやく風の音が轟々と唸り、向かい風で迎え撃った。
「ん?」とグリュエーがこぼした。
杉はほとんどぶれることなく飛んでくる。しかし小さな悲鳴を上げるユカリの額に杉がぶつかった時にはまるで小枝のように細くなっていた。
窓辺に落ちた小さな杉の木をユカリは拾う。「何これ? 何で?」
ユカリは浮かんだ疑問を脇に押しやって、再び巨人の方へ目をやると、巨人は森の奥へと立ち去ろうとしている。こうしてはいられないとユカリは窓から飛び出して、村を駆け抜ける。
湖にぶつかる前に梟の鳴き声を【真似る】。全身に東西に名高き宝石を集めたような羽根を纏う。星々は万の色彩を妬み、唾の吐けない己を呪った。不遜な輝きを放つ梟は、夜空の星々の下に舞い上がると、巨人の元へ真っすぐに飛んでいく。
輝きを放つ魔性の梟を迎え撃たんと巨人は再び杉の木を引き抜いて構えていた。
間近で巨人の姿を見、あのワーズメーズの巨人像だと確信する。異様な風体は相変わらずだった。しかしこれほどまで大きかっただろうか、とユカリは頭をひねる。あの街は高い建物が沢山あったから比較して小さく見えたのだろうか。いや、これほど大きかったはずがない、と思いなおす。しかしその理由を考えている場合ではない。
巨人が両手剣のように杉を振り上げ、梟に目掛けて振り下ろす。宝石羽根の梟は難なく両握りの一振りをかわした。多少風が巻き起こり、体勢を崩しかけるが、すぐに風に乗る。
「ユーアはどこにいるの!?」と軽率にもユカリは【人の声で喋った】。
途端に変身が解け、元の姿に戻って夜空に放り出される。己を罵りつつもグリュエーに力を借り、葉と土ぼこりを巻き上げながら、暗い森の柔らかな地面に着地した。
鳥か物の怪か何かがぎゃあぎゃあと喚くが、すぐに静まり返る。幽寂たる杉の森は月の半透明な光が方々で差し、雲の、木々の、窪地の影が妖しげに這いずっている。
ユカリは再び飛び上がろうと巨人の姿を探す。まだ距離があったために杉の木々で隠されている。
そしてその姿を見つける前に、暗闇の中に松明が赤々と燃えていることに気づいた。光か熱に怯えるように、火を遠巻きにした影が蠢いている。ユカリは身をわずかに屈め、警戒しつつ素早い足取りで松明を追う。明かりの主はデルムだった。
デルムの方もすぐにユカリに気づき、火の粉を振りながら松明をユカリの方に向ける。
照らし出されたユカリは眩さに目を細めて尋ねる。
「デルムさん。どうしてこんな時間にこんなところに?」
デルムは頭に凹んだ兜をかぶり、右手に刃こぼれした山刀を持ち、左手に使い込まれた松明を携えている。
「貴様の方こそ」とデルムは唾を飛ばして言い返す。「まだいたのか。こんな所で何をしている。まさか巨人退治じゃあるまいな」
「デルムさんはまるで巨人退治にやってきたみたいですけど。なんで」とまで言いかけてユカリは手振りでデルムを制し、自身も黙る。
数本の杉の木の向こうに巨人の足が見え、つま先はこちらを向いていた。
「グリュエー。火を消して」と囁くと松明の火は旋風に巻かれて消える。
ユカリはデルムの手を引いて忍び歩き、巨人から離れるように森を行く。巨人の方もユカリたちのいる場所が分からないようで、しばらくして別の方向へと歩いて行った。
「結局、レマさんのお家で厄介になることにしたんです」とユカリはまだここにいる理由を話すが、デルムは何も言わなかった。
ユカリは立ち去る巨人の足から目を離し、堅く握っていたデルムの、義父に似て強張った手を離す。少し急ぎすぎたため、デルムは肩で息をしていた。改めて見ると、デルムのその服はかなりぼろぼろで随分長く使っているだろうことにユカリは気づく。所々に継ぎがあり、その当て布の模様に見覚えがあった。レマの身につけていた肩巾と同じ模様だ。
再びデルムはユカリを置いて、堂々と歩き出す。行き先は、少なくとも村の方ではない。頑ならしいデルムの背中を追い、ユカリは呼びかけるように尋ねた。
「デルムさんはなんでこの村に残っているのですか?」
デルムは立ち止まり、振り返り、語気を強めて言う。「貴様、娘を置いて行けと言ったのか? いくら私が老いぼれだからとて侮辱は許さんぞ」
巨人退治の真意を聞くつもりが予想外の答えが返ってきた。
「いえ、そんなつもりで言ったわけではありません。置いていけないなら無理にでも」とユカリも負けずに言い返す。「え? 娘? 親子だったんですか? レマさん、あまり似てないですね」
デルムは鼻を鳴らし、再び歩き始める。
「義理の娘だ。息子の嫁だ。北方の出のな。あの娘は臆病なんだ。家を出ることすらままならない。だがそれを咎めるつもりはない」
「よその国まで嫁いでくる人が臆病、ですか」
三度デルムが立ち止まって振り返る。目じりを吊り上げ、山刀の柄にかけた手を強く握りしめている。
「何が言いたい? 意思に反して連れてきたとでも? 私の息子を愚弄する気か?」
ユカリは慌てて首と手を振って意に反した解釈を否定する。「いえ、そんなつもりで言ったわけでは。今の話を聞いて元々は臆病ではなかったのではないかと、想像したんです」
デルムはしばらく睨みつけるも、ユカリの言葉を信じたのか三度歩を進める。
「貴様の言う通りだ。元は快活な娘だった。が、余所者ゆえに辛い目にあった。閉鎖的な村だったからな。それでも女房が生きていた頃はやっていけていたようだが、息子が死に、女房が死に、私も村の連中から守り切れず、すっかり塞ぎ込んでしまった」
そういえば、とユカリは思い出す。デルムのお嫁さんは良い人だったとレマは言っていた。余所者ゆえに辛い目にあっていたレマを守ってくれたということだろう
「それで、レマさんは臆病になってしまった、と」ユカリは呟き、デルムの返事を待たずに続ける。「臆病なら、なおさら逃げようとしそうなものですけど」
デルムは歩調を緩めることなく言葉を返す。
「巨人が家を踏み潰しにでも来たなら、娘も家を飛び出すかもしれんが」
デルムは凄い人だ、とユカリは前を行く小さな背中を見つめて思った。妻を亡くし、息子を亡くし、それでも義理の娘を見捨てることなく、その上身を挺して巨人と戦うつもりなのだ。しかしそれでいて、それが正しいことなのかユカリには分からなかった。
娘一人を無理に連れ出すことも出来ない老人に巨人を倒せるはずもない。それに、レマにとってこの村で唯一の身内だということを分かっているのだろうか。
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