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遠目にも明らかな聖火が陰り、シャリューレは訝し気に白樺に遮られた夜空を見上げる。薄暗闇のために定かではないが、森の向こうに、聖火の伽藍の前に巨大な柱が突然現れたかのようだ。それが可能な男が近くにいたことを思い出す。
だとすれば聖女の伽藍で魔導書を手に入れていた間に第三局の焚書官たちに先回りされたということだ。焚書官たちは三つの伽藍に散ったのだろうが、運悪く最も厄介な男が聖火の伽藍にてシャリューレを待ち構えている。
しかしシャリューレが聖火の伽藍にたどり着いた時、第三局首席焚書官グラタードは全身が炭に覆われ、肉と髪の焦げるおぞましい臭気を放って、両腕を失っていた。医術を修めた焚書官が応急処置を行っているが、普通のやり方では間に合わないだろう。
シャリューレは焚書官たちの間を縫ってグラタードの脇に立つ。グラタードが視線を集めているために、僧服をまとっていても鉄仮面をつけていないシャリューレに誰も気づかない。
「その有様で生きているのか。頑丈な男だ」とシャリューレが呟いた。
ようやくシャリューレに気づいた焚書官たちが何かをわめいているが、グラタードが口を開いて押し黙る。
「私はもう冥府に運ばれたのかね?」グラタードは枯れた声を絞り出していた。「死んだ女が目の前にいる。懐かしい顔だ」
犀の鉄仮面が脇においてあり、シャリューレは初めてグラタードの顔を見た。見るも無残に爛れているが。
「そう言う貴様はなかなかの男前だ。死にゆく者はそういう面構えをしない」シャリューレは小さく笑う。「私に貴様を救う義理はないが、見殺す道理もあるまいな」
そう言うとシャリューレは『神助の秘扇』を煽ぎ、神秘の風をグラタードに吹きつける。
するとグラタードの爛れた肌はみるみる潤いを取り戻し、枯れかけた泉のように滲み出ていた血が収まる。奇跡的な魔法に焚書官たちが歓び叫ぶ内にグラタードの損傷がたちまちに回復していく。あまつさえ、失われた両腕さえもが生え揃ってしまった。
「驚いたな。欠損部位さえも補うのか」シャリューレは改めて魔導書の扇を手に眺める。「本当に死者を蘇らせることはできないのか?」
すっかり癒えてしまったグラタードは咳き込みながらも上体を起こし、シャリューレを見上げる。
「さて、どうしたものか」と唸るように言う。「貴様が生きていること、今ここにいること、私の命を救ったこと。信じられないことが立て続けに起きている」
「敬虔なる焚書官であれば、魔導書の簒奪者を討つべきだろう」とシャリューレは他人事のように言う。
グラタードは具合を確かめるようにゆっくりと首を横に振る。「だが、私には命の恩人を討つことなど出来ん」
「義理人情は信仰よりも重いのか?」
「私にとっては信仰もまた義理人情のようなものなのだ。そもそも貴様を生け捕りにする実力もない」
シャリューレは不敵に笑う。
「殺すことなら出来ると言っているかのように聞こえる。小娘だった頃の私とは違うぞ」
周囲の焚書官たちは既に抜刀して、グラタードの指示を待っている。
「命じはしないが、やめておけ、お前たち。死の縁を漂うのは気持ちのいいものではない。小娘だった頃でさえ、私はこの女に敵わなかったのだからな」
グラタードの放っ言葉を信じがたく想いつつも焚書官たちは意気を失う。
「それで? 貴様を焼き殺そうとしたのは何者だ?」シャリューレは聖火の伽藍を見上げる。「盗賊団にそれほどの魔術師がいたとは思えんが」
グラタードは一つ一つ体を点検するように立ち上がる。
「盗賊かは知らんが、私を焼いたのはベルニージュという娘だ。炎の如き赤い髪の魔女に気をつけろ。魔法少女の友人らしい。そう、魔法少女もいる」
ガミルトン行政区にてレモニカを連れてユカリを救いに来たらしい少女のことを思い出す。
「赤髪。あの少女か。分かった。礼を言う」
「礼を言うのはこちらだ。助命、感謝致す。救済の乙女に誓って、いずれ恩に報いよう。貴様が教敵でさえなければ、この再会に祝杯をあげるところだったのだがな」
「貴様は身の振り方でも考えておいた方が良い」
「言うに及ばん」
シャリューレは焚書官たちの混乱の眼差しを背に浴びつつ、聖火の伽藍へと乗り込む。
追ってくる僧兵も、待ち構えている僧兵もいない。どころか僧侶の姿がない。シャリューレは誰に咎められることもなく、伽藍を貫く螺旋階段を駆け上がり、最上階へと至る。
再び焦げ臭い空気に包まれた。窓が割れ、強い風が吹き込んでいる。中央に魔法少女ユカリと赤髪の魔女ベルニージュ、そして魔法少女の手を取っているのはレモニカだ。他の何者にも変身していないレモニカがそこにいる。シャリューレのそばにいる時と全く同じ姿だ。
「殿下!」とシャリューレは呼びかけるが、レモニカはユカリを盾にするように縮こまる。
「酷い目に遭った」ため息をつき、愚痴をこぼすように言ったのは聖女アルメノンだ。「あ! シャリューレだ! 久しぶり! ちょっと邪魔だよチェスタ」
燃え尽きた帳の灰を踏みつけて、聖女を守るように立ちはだかる者、チェスタはレモニカをさらった男だとシャリューレは気づく。
アルメノンはチェスタの脇から顔を出して、喜ばしげに手を振っている。
シャリューレは聖女アルメノンをよく知っている。護女だった時と、昔と変わらない姿だ。なぜか、シャリューレの記憶にあるおよそ二十年前のアルメノンと同じ姿をしている。二つか三つ年上だったはずの少女は、今なお少女だった。
その不気味な旧友との再会に、懐かしさも感慨もさして湧かなかった。そのような気持ちを抱くだろうと備えていたにもかかわらず、まるで初対面かのようにシャリューレの心は凪いでいた。
アルメノンの後ろには玉座があり、その後ろには大きな石像が立っていた。ただし像には下半身しか存在しない。
シャリューレはレモニカの方に意識を戻す。
「殿下。祖国へ帰りましょう。解呪方法を殿下自身が探す必要はございません」とシャリューレは言う。
「要不要ではなく、わたくし自身が探したいだけよ。それに貴女、わたくしのことが嫌いなのよね? ずっと隠していたのでしょう? とはいえ、わたくし自身も隠れて目をそらしていたのだから責めるつもりもないわ。ただ、貴女と共に旅をする気にはなれないわね、シャリューレ」
「おおい。無視するなあ」とアルメノンが喚いている。「ってかまた振られてやんの。笑える。でも分かるなあ。レモニカの気持ち。シャリューレって独りよがりなところあるよね。手は口よりも多いというのに」
シャリューレはアルメノンを無視して憎むような眼差しを魔法少女に向ける。
「ユカリもまた殿下を嫌っているように見受けられますが」
するとレモニカはユカリの肩から手を離し、女の焚書官の姿になった。
「ユカリさまは特別だわ。一時的にだけれどわたくしを呪いから解放してくださるんだもの」
「へえ、そんな力あるんだ」アルメノンは呑気に言った。「知ってた? チェスタ。知らなかったの? 君、何も知らないね。シャリューレのことも知らないでしょ。彼女はね、ワタシと同世代の護女で一番の親友なんだよ。まあ、シャリューレは背が高めだし筋肉質で重いしで、すぐにただの尼僧になっちゃったんだけど。剣術に優れ過ぎててね。あっという間に当時の史上最年少首席焚書官になったんだ。ワタシに言わせれば大陸一の剣士! 人類最強ってなもんで、自慢の友達だよ。だからこそ救済機構を裏切ったことは残念。君なら聖女にもなれただろうに」
シャリューレは不快そうに眉を寄せて言う。「本当にアルメノンなのか?」
「他の誰に見える?」アルメノンはチェスタの後ろから出てきて両腕を広げて全身を見せるようにくるりと回る。
問題は中身だ。当時のアルメノンは他の護女たちに内気だと見なされていた。特に仲の良かったシャリューレと二人きりの時はともかく、このように陽気で無遠慮で粗略な性格ではなかった。
気を取られて、いつの間にかレモニカがいないことに気づく。『至上の魔鏡』をかぶらせて先に逃したのだ。
ユカリとベルニージュはシャリューレに、『神助の秘扇』に狙いを定めて、間合いを縮めてくる。レモニカが逃げ切ったか分からない以上、抜刀もできなければ広範囲に渡る魔術も使えない。
ユカリが唇をすぼめ、胸を反らせたのを見て、脇に飛び退くと、風が通り抜けていく。
「避けれるものなの!?」とユカリが驚く。
「ワタシが捕まえるからその隙に【憑依】して」とベルニージュが言った。
アルメノンとチェスタの方を見やるが動く様子はない。
赤髪の魔女の蛇の如き炎が幾筋も這い寄るが、シャリューレは扇を振って悉く掻き消す。
ユカリが毒々しい光を放つ真珠の刀剣リンガ・ミルを取り出したのを見て、シャリューレも抜刀する。もうレモニカに気兼ねする必要はないということだ。
剣でユカリを、扇でベルニージュと不思議な風を牽制する。一度はユカリから奪った真珠剣だが、ここに至って初めてただの中途半端な長さの剣ではないことに気づかされる。
大陸一と誉めそやされたばかりの剣が容易く返された。誤って王女の友人を斬り殺してしまわないようにシャリューレは徐々に、徐々に本腰を入れていくが、神剣と謳われた剣技は完全に封じ込められる。元僧兵の銀髪の剣士は気が付けば、今振るうことが可能な最高の力で魔法少女に立ち向かっていた。
しかしユカリの有様はとても剣を振るっている姿には見えない。腰が引けていて、なんとなればこちらをよく見てすらいない。全ては魔法の剣の力なのだ。
「痛い痛い痛い!」とユカリは喚いている。
シャリューレはユカリに一太刀たりとも浴びせていないが、その人智を越えた斬り結びに素人の体がついていけていないのだ。
「一旦離れて」とベルニージュが発した。
それが僅かな隙となった。扇の風がユカリを捉え、リンガ・ミルの剣を取りこぼさせた。シャリューレはすかさず真珠の剣をつかみとる。吹き飛ばされたユカリは不思議な風に受け止められた。シャリューレは深追いせず、螺旋階段の方へ振り返る。その時、扇が何者かに奪われ、しかし奪った者の姿は見えず、扇も消え失せてしまった。
「行くよ! ベル!」と叫んだユカリの方を振り返って見ると、二人とも窓から飛び出してしまった。
つまりレモニカは逃げ出してなどおらず、機を窺っていたという訳だ。後を追うべく螺旋階段へ向かおうとするが体が動かない。
アルメノンが楽しげに笑う。「まんまとしてやられたね、シャリューレ。御自慢の王女様を見くびった結果だよ。ださいね」
「貴様、私に何をした、アルメノン」とシャリューレは憎々しげに吐き捨てる。
リンガ・ミルの艶めかしく蠢く七色の光が徐々に弱まっていく。
「君を呪うのは簡単だよ。なんせワタシが魂の一端をつかんでいるようなものだからね。ねえ、シャリューレ。どうして今も護女の頃の、実り名を名乗っているんだ?」
他に名を知らないからだ。ここに連れて来られたばかりの時は覚えていたのかもしれないが、いずれ忘れるには十分な幼さだった。
己の名を知らぬ女の答えを待たずにアルメノンは言う。「護女の実り名には聖女によって強力な加護を籠められると同時に、強力な戒めにもなるんだ。才能ある護女によっては一切影響を受け付けないけど、まあ、普通はせいぜいちょっとした方向付けにしかならないんだよね。本名を忘れるなんて間抜け相手でもない限り」
シャリューレは何かに抗うように歯を食いしばって声を絞り出す。「私も貴様も第六聖女ターティア様にいただいた実り名のはずだ」
「それが聖女を継ぐってことなのさ」そう言ってアルメノンは寂しげに笑う。