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若井は旭を、街にある小さなレンタルスタジオに誘った。
「少しだけ、君の歌をちゃんと聴かせてくれないか。……俺のギターに合わせて」
旭は少し緊張した面持ちでマイクの前に立った。
若井がギターを持ち、あの「100日間のオレンジ」のイントロを、わざとゆっくりとしたテンポで弾き始める。
旭は、譜面を見たわけでも、この曲を知っていると言ったわけでもない。
それなのに、完璧なタイミングで、吸い込まれるようなハミングを重ねてきた。
「……旭、この曲を知ってるのか?」
若井が演奏を止め、問いかける。
旭は不思議そうに首を振った。
「いえ、初めて聴きました。
……でも、なんだか懐かしいんです。
……なんて言うか、
もっと『ここ、カポを一つ上げた方が、
若井のギターが綺麗に響くよ』って、誰かに耳元で言われたような気がして」
若井の背中に、電気が走った。
それは、かつて元貴が新しい曲を作るたびに、口癖のように若井に言っていたアドバイスそのものだった。
「……今、なんて言った?」
「え? ……あ、すみません! 僕、生意気なこと言いましたよね。
自分でもなんであんなこと言ったのか分からなくて……」
旭は顔を赤くして俯いた。
若井は、震える手でギターのカポタストを一つ上にずらす。
そして、元貴がまだ元気だった頃、二人でよくふざけて弾いていた、未発表の、世に出るはずのなかった未完成のメロディを爪弾いた。
すると旭は、スタジオの窓の外を見つめながら、ぼんやりと呟いた。
「……若井さん。この曲、いいですね。……でも、サビの最後はもっと、海に溶けていくような水色から、燃え尽きる直前のオレンジ色に変わるような……そんな感じがしませんか?」
若井は、持っていたピックを床に落とした。
その表現。音を「色」で例え、しかも元貴が好んだ色彩のグラデーションを、旭は完璧に言い当てたのだ。
「……君は、誰なんだ」
若井が思わず旭の肩を掴むと、旭は驚いたように目を見開いた。
その瞳の奥には、一瞬だけ、17歳の少年とは思えないほど深く、慈しみに満ちた「あの男」の光が宿った。
「……分かりません。
でも、若井さんといると、頭の中にいろんな景色が溢れてくるんです。
……広い音楽室、埃っぽい匂い、……それから、すごく冷たい雪の中で、僕の背中をずっと温めてくれていた、誰かの大きな背中のこと」
旭の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……なんでかな。僕、あの時の背中が、すごく恋しいです」
若井は、旭を力一杯抱きしめた。
この温もり、この細い肩、そして、自分にだけ向けられる全幅の信頼。
「……元貴、なのか。
……お前、本当に帰ってきたのか?」
若井の問いに、旭は答えなかった。
ただ、若井の服をぎゅっと掴み、子供のように泣きじゃくった。
その時、スタジオのドアが勢いよく開いた。
「滉斗! 急に連絡もなしに、どこに……!」
駆け込んできたのは、5年前よりも少し大人びた、けれど相変わらずの涼ちゃんだった。
涼ちゃんは、若井に抱きついている旭の姿を見て、手に持っていた譜面ケースを落とした。
「……え……」
「……涼ちゃん。見てくれよ。
……こいつ、元貴と同じことを言うんだ」
涼ちゃんは、旭の顔を凝視したまま、震える声で呟いた。
「……そんな、馬鹿な。……でも、その立ち姿、……元貴なの……?」
旭は涙を拭い、初めて会ったはずの涼ちゃんを見て、ふっと微笑んだ。
「……あ、メッシュ入れたんですね。……すごく似合ってます、涼ちゃん」
その瞬間、涼ちゃんはその場に泣き崩れた。
5年前、元貴が亡くなる直前、涼ちゃんはまだメッシュを入れていなかった。
それは、元貴がいなくなった後に、「新しい自分になる」と誓って入れたものだった。
それを知っているはずのない少年が、当たり前のように「涼ちゃん」と呼び、以前との違いを指摘した。
3人の時間が、5年の空白を飛び越えて、再び重なり始めた。