テラーノベル
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その夜。
勇斗は眠れなかった。
いつも寝床にしている、古びた建物の隅。
壁に背を預け、膝を抱える。
昼間盗んだパンは、もう食べ終えていた。
腹は満たされている。
少なくとも。
眠れないほどの空腹ではなかった。
それなのに。
目を閉じるたび。
あの少年の顔が浮かんだ。
頬を伝っていた、一筋の涙。
「……なんなんだよ」
勇斗は目を開けた。
知らない奴だ。
名前も知らない。
話したこともない。
今日初めて見ただけ。
それなのに。
どうして。
こんなに頭から離れないんだろう。
勇斗は何度も寝返りを打った。
けれど。
結局、その夜はほとんど眠れなかった。
次の日。
勇斗はいつも通り街へ出た。
腹が減れば食べ物を盗み。
見つかれば走る。
捕まらないように逃げる。
昨日までと同じ。
そのはずだった。
なのに。
気づけば。
あの屋敷へ続く道を見ていた。
「……」
行ってどうする。
自分に何度もそう言い聞かせた。
会えるわけでもない。
会ったところで何もできない。
だから。
行かなかった。
その次の日も。
また次の日も。
勇斗は屋敷には近づかなかった。
そのうち忘れる。
そう思っていた。
たった一度。
目が合っただけなのだから。
けれど。
忘れられなかった。
街を歩いていても。
食べ物を盗んでいても。
逃げていても。
ふとした瞬間に。
あの少年を思い出した。
今頃。
何をしているんだろう。
ちゃんと食べているだろうか。
まだ。
泣いているんだろうか。
そこまで考えて。
勇斗は自分の頭を乱暴に掻いた。
「知らねえって」
何度そう言っても。
胸の奥に残ったものは消えてくれなかった。
数日が過ぎた頃だった。
勇斗は市場の裏で、食べられそうなものを探していた。
店先から盗むより。
捨てられたものを拾えるなら、そのほうが楽だった。
少し傷んだ果物を見つけ、手を伸ばす。
そのとき。
「また買ったらしいぞ」
近くで男たちが話している声が聞こえた。
勇斗は気にも留めなかった。
「今度は随分綺麗な子らしい」
「遠くの町から来たって?」
「ああ。まだ若いって話だ」
伸ばしていた手が止まった。
まさか。
そう思った。
この街には金持ちなんていくらでもいる。
人を買う者だって、一人ではない。
あいつの話だと決まったわけじゃない。
「例の坂の上の屋敷だろ?」
「そうそう」
勇斗は顔を上げた。
知っている。
あの坂を。
あの日。
少年を追って歩いた道。
「物好きだよな。次から次へと」
「金持ちの道楽なんて、俺らには分からんよ」
男たちは笑っていた。
勇斗は黙って聞いていた。
「前の奴もすぐ駄目になったんだろ?」
「あそこに買われたら、みんなそうだ」
笑い声が遠ざかっていく。
勇斗は動かなかった。
手に取った果物を握ったまま。
ただ。
立っていた。
何を意味しているのか。
全部分かったわけじゃない。
それでも。
いい話ではないことくらい。
勇斗にだって分かった。
頭に浮かんだ。
あの少年。
縄を巻かれた手。
俯いた顔。
そして。
一筋の涙。
「……くそ」
果物を放り出した。
気づけば走っていた。
けれど。
数歩進んだところで、足を止める。
行ってどうする。
勇斗には何もない。
金も。
身分も。
誰かを助けられるような力も。
あるのは。
逃げ足だけ。
自分一人が生きるだけで精一杯の少年が。
大きな屋敷から誰かを助け出せるはずがない。
「……関係ない」
声に出した。
「俺には関係ない」
そうだ。
あいつがどうなろうと。
自分には関係ない。
勇斗は踵を返した。
その日は。
もう屋敷のことを考えないようにした。
いつも通り食べ物を探して。
いつも通り夜を迎えた。
けれど。
眠れなかった。
暗闇の中。
勇斗は目を開けていた。
『前の奴もすぐ駄目にな
ったんだろ?』
男の言葉が何度も蘇る。
そのたびに。
あの涙が浮かんだ。
「……ああ、もう」
勇斗は起き上がった。
何をしているんだと思う。
自分でも分からない。
それでも。
足はもう動いていた。
夜の街を歩く。
向かった先は。
武器を扱う店だった。
もちろん。
買う金なんてない。
だから。
いつもと同じだった。
盗む。
ただ。
今までとは違うものを。
店の裏へ回り。
鍵の壊れかけた窓を探す。
音を立てないように中へ入り込む。
暗い店内。
壁にはいくつもの剣が並んでいた。
勇斗はその中の一本に手を伸ばした。
持ち上げようとして。
「……重っ」
思わず声が漏れた。
パンとは違う。
果物とも違う。
両手で握らなければ、まともに持つことさえできなかった。
これで。
何をするつもりなんだろう。
勇斗は剣を見つめた。
今まで盗んできたものは。
全部、生きるためだった。
食べなければ死ぬ。
だから盗んだ。
でも。
これは違う。
自分のためじゃない。
名前すら知らない。
たった一度、目が合っただけの少年のために。
勇斗は剣を盗んだ。
外へ出る。
夜の空気が頬を撫でる。
剣を引きずるたび。
地面と擦れて、小さな音が鳴った。
いつもなら。
何かを盗んだあとの勇斗は走っていた。
誰にも追いつかれないように。
風みたいに。
けれど。
今夜は走れなかった。
重たい剣を引きずりながら。
一歩ずつ。
坂へ向かう。
自分が何をしようとしているのか。
分かっていた。
怖かった。
人を傷つけたことなんてない。
盗んだことは何度もある。
騙したことも。
逃げたことも。
それでも。
誰かの命を奪ったことだけはなかった。
手が震える。
足も止まりそうになる。
「……帰ろうかな」
誰も聞いていないのに。
そんな言葉が漏れた。
帰ればいい。
剣を捨てて。
いつもの場所へ戻る。
明日になれば。
また腹が減る。
食べ物を盗んで。
逃げて。
そうやって生きればいい。
それが。
勇斗の人生だった。
なのに。
目を閉じる。
浮かんだのは。
やっぱり。
あの少年だった。
「……生きてろよ」
勇斗は再び歩き出した。
坂を登る。
一歩。
また一歩。
剣を引きずりながら。
やがて。
大きな屋敷が見えてきた。
勇斗は塀を乗り越えた。
見つかるまで、それほど時間はかからなかった。
「誰だ!」
男の声。
勇斗は剣を握った。
怖い。
逃げたい。
いつものように。
背を向けて走ってしまいたい。
それでも。
逃げなかった。
振り下ろされた棒を避ける。
身体だけは。
逃げ続けてきたぶん、誰よりもよく動いた。
剣を振る。
重い。
腕が痺れる。
何度も転びそうになる。
それでも進んだ。
一人を斬る。
また一人。
剣が赤く染まっていく。
勇斗の手も。
服も。
頬も。
気づけば。
誰の血なのかも分からなくなっていた。
吐きそうだった。
怖かった。
それでも。
止まらなかった。
「どこだよ……」
息を切らしながら、廊下を進む。
「どこにいるんだよ……」
名前を知らない。
だから。
呼ぶことすらできない。
扉を開ける。
違う。
次。
いない。
また次。
違う。
「くそ……!」
焦りだけが大きくなる。
間に合え。
何に。
それすら分からない。
ただ。
間に合わなければいけない気がした。
一番奥。
まだ開けていない扉があった。
勇斗はその前で足を止める。
息が荒い。
剣を握る手は。
血で滑りそうになっていた。
怖かった。
この向こうに。
何があるのか。
それでも。
勇斗は震える手を伸ばした。
「……生きてろよ」
小さく呟く。
そして。
扉を開けた。
#ご本人様には関係ありません
コメント
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第2話、読み終わりました…。勇斗が「関係ない」って自分に言い聞かせながらも、あの少年の涙が頭から離れなくて、結局剣を盗んでしまうところ、すごく切なかったです。重たい剣を引きずる姿が目に浮かんで、一緒に息を呑みました。最後の「生きてろよ」が胸に響きました。nananaさんの描く、不器用だけど確かな優しさ、すごく好きです。続きが気になります…。