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~佐野side~
柔太朗との同居生活が始まって3ヶ月が経った頃、俺たちの日常には少しずつ確かな変化が訪れていた。
「焦らなくていいよ。柔太朗がここにいてくれるだけで、俺は嬉しいから」
そう言って柔らかい髪をそっと撫でると、彼は以前のようにビクッと身体を強張らせることもなく、どこか安心したように俺の手のひらに頭を委ねてくれる。
彼のその髪に触れるだけで、本当は指先が震えるほど抱きしめたいのに、その生々しい恋心を喉の奥へ必死に飲み込む。
『無害なお兄ちゃん』という偽りの殻を少しだけ窮屈に思いながらも、彼がこうして俺に心を開いてくれるなら、このままで構わないと本気で思っていた。
この閉ざされた静かな部屋だけが、俺たちを繋ぐ唯一の聖域だったから。
そんな二人だけの静かな世界が唐突に破られたのは、平日の昼下がりのことだった。
ピンポーン、とリビングに鋭く響いたインターホンの音。
その瞬間、さっきまで穏やかに微笑んでいた柔太朗の顔から、一瞬で血の気が引いた。
浅い呼吸を繰り返し、恐怖に引き攣った瞳で俺を見つめてくる。
またあの地獄の記憶の破片が、こいつの脳内をめちゃくちゃにかき乱しているのだ。
「大丈夫、大丈夫だから。俺がちょっと見てくるね」
柔太朗の冷え切った手を優しく握り、安心させるように何度も微笑みかけてから、俺はソファから立ち上がって玄関へと向かった。
じわりと嫌な汗の滲む手でモニターを覗き込むと、そこにはスーツの肩を少し落とし、疲れたような顔で立ち尽くす仁人の姿があった。
俺が会社を休職して以来、連絡を断ち切っていた親友。
ガチャリと内側から鍵を開け、ゆっくりと鉄の扉を開ける。
「……仁人」
「勇斗……! お前、なんで会社休んで……連絡も、全然つかないから、俺……」
一気に溢れ出しそうになる仁人の言葉を、俺は小さく手を挙げて遮った。
「ごめん、仁人。ちょっと今、バタバタしててさ……連絡返せなくて悪かった」
一歩踏み出そうとした仁人の行く手を阻むように、俺は玄関のドアの隙間を、体で隠すようにして狭めた。
仁人に対する罪悪感で吐き気がしたけれど、今の俺は、目の前で呼吸すら浅くなっている柔太朗を守るためなら、どんな薄情な男にだってなれた。
「今はちょっと、中に入れたりできなくてさ。本当にごめん。……俺は元気だから、心配しないで会社に戻ってよ」
俺を真っ直ぐに見つめてくる仁人の顔が、あからさまに傷ついたように歪む。
早く追い返したがっている俺の意図を察したのだろう、仁人は言葉を失ったように立ち尽くした。
その時、後ろの閉まりかけたリビングのドアの奥からかすかに声が聞こえてきた。
「……佐野さん? 誰か、来てるの……?」
「柔太朗、部屋にいてって言っただろ?すぐ戻るから、な?」
俺は焦りのあまり、目の前にいる仁人の存在すら一瞬で忘れたように、部屋の奥に向かって優しい声を張り上げていた。
もちぷよ
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#山中柔太郎
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それから我に返り、慌てて仁人に視線を戻す。
「……仁人、本当にごめん。また、落ち着いたら連絡する」
一刻も早く柔太朗の元へ戻りたくて、俺はただそれだけの衝動で、仁人の目の前で容赦なくドアを閉めた。
~吉田side~
カチャリ。
あいつの家の冷たい鉄の扉が閉まったあの瞬間から、僕の世界は完全に色を失ってしまった。
無情に響く施錠の音。
僕は閉ざされた鉄の扉の前に、独りぼっちで立ち尽くしていた。
あいつは、あの人を自分の家に引き取って、二人きりで暮らしているんだ。
繋がっていなかった頭の中のピースが、最悪な形で一つに噛み合っていく。
勇斗を心配してここまで駆けつけた自分が、とてつもない滑稽で惨めに思えた。
あいつの世界には、最初から僕の入る隙間なんて1ミリも存在していなかったのに。
まるで自分が透明人間になってしまったかのようだった。
溢れそうになる涙を必死に堪えて、僕はただ、力の入らない足で、あいつの家から逃げるように走り出すしかなかった。
気付けば僕は当てもなく、ただフラフラと街を彷徨い歩いていた。
どこをどう歩いたのかも分からない。
足の感覚はとうに消え失せていて、心臓の奥が冷たい空洞になったみたいに何も考えられなかった。
ポツ。
頬に冷たいものが当たった。
見上げれば、いつの間にか都会の空は重い灰色に染まっていて、堰を切ったように激しい雨が降り出してきた。
周囲を行き交う人々が慌てて傘を広げたり、ビルの軒下へと駆け込んでいく。
だけど今の僕には傘を取り出す気力すら残っていなかった。
冷たい雨が容赦なく僕の頭や身体に降り注ぎ、服が肌にへばりつき、体温が急速に奪われていく。
髪から滴る雨水が目元を濡らして頬を伝っていく。
これならどれだけ涙を流したって誰にも気づかれなくて済むから丁度いい。
そんな自嘲気味な思考だけが、ぼんやりと頭に浮かんだ。
もう、どこへ帰ればいいのかも分からなかった。
「……じんちゃん!?」
激しい雨音の向こうから、聞き馴染みのある声が響いた。
ハッとして顔を上げると、激しく水飛沫を上げるアスファルトの向こうから、びしょ濡れになりながらこちらに向かって猛ダッシュしてくる男の姿が見えた。
スーツのジャケットを頭の上にかざし、必死な顔で走ってくる。
「じんちゃん! お前、何してんのや! 傘も差ささんと、こんなところで……っ!」
太智は僕の目の前にたどり着くや否や、自分のスーツのジャケットを広げて、無理やり僕の頭上へと掲げた。
「太智……? なんで……」
「外勤の帰りや! 遠くから見慣れたアホな後ろ姿が見えると思ったら……お前、身体、氷みたいに冷たくなってるやんけ」
「……、」
「……あぁ…、はやちゃんのとこ、行ったん?」
太智の低い声が、雨の音に混ざって届く。
僕は何も答えることができなかった。
冷え切った唇を小さく戦慄かせる。
それが何よりの肯定だった。
「……そっか。なんか、あったんやな」
太智はそれ以上僕を責めることも、理由を問い詰めることもしなかった。
ただ、自分のファイルを脇に抱え直すと、頭の上にかざしていた濡れたジャケットを僕の肩に優しくかけ、そのまま僕の冷たい身体を、自分の胸へと強く、強く抱き寄せた。
激しい雨の音が、太智の身体に遮られて少しだけ遠くなる。
太智の胸の中から伝わってくる、力強い心臓の鼓動と、確かな熱量。
それが凍えきっていた僕の身体に、じわじわと染み渡っていく。
「アホやなぁ、じんちゃんは。もうやめときぃ言うたのに……。一人でそんなボロボロになるまで傷ついて、ほんま、アホや……」
太智の声が、僕の耳元でかすかに震えていた。
あいつは僕を抱きしめたまま、僕の背中を、まるで子供をあやすように何度も優しく摩ってくれる。
『じんちゃんがどれだけ泣いても、僕、ずっとここに一緒におるから。お前のいちばんにはなれんくても、お前のすぐ隣におることだけは、僕、絶対にやめへんから』
あの日、公園で太智が言ってくれた言葉が脳裏をよぎる。
こんな時にまで、あの優しさを都合よく思い出して、自分を想ってくれるこいつの温もりに甘えて、寄りかかって。
本当に、自分のことが心底クズだと思う。
最低だと思う。
だけど、この冷たい雨のなかで僕を引き留めてくれるのは、世界中でこいつしかいなかった。
「……太智……っ、う……, あぁ……」
僕は太智の濡れたシャツを両手で強く握りしめ、雨の音に紛れ込ませるようにして、声を上げて泣いた。
太智は何も言わず、ただ僕を冷たい雨から守るように、よりいっそう強く抱きしめ返してくれた。
to be continued……