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拓真の部屋へ向かうタクシーに揺られながら、私は彼の隣で緊張していた。昨夜も、行き帰りの新幹線でも二人きりではあったけれど、今の緊張はそれらともどこか違う。その昔にも彼の部屋を何度も訪ねはしたけれど、泊まることなく必ず自分の部屋へと帰っていた。それなのに、理由があるとは言え、再びつき合い出した途端に泊まることになるなんてと心の準備が整わない。
私はちらりと横目で拓真の様子を窺い見た。
何事かの思いに耽っているのか、または睡魔に襲われかけてでもいるのか、タクシードライバーに行く先を告げた後の彼は、ずっと黙ったままだ。
この沈黙が嫌だというわけではない。しかし、車の走行音しか聞こえないこの状況の中、自分の鼓動の音ばかりが耳の奥で大きく響き、落ち着かない。何か話さなければと口を開きかけた時、タクシーがスピードを落とした。
「もうすぐ着くから、降りる準備をしようか」
「うん」
拓真が言ってから間もなく、タクシーが道路脇に停車する。
先に車から降りた彼は、私が後に続いたのを確かめてから言った。
「ここだよ」
「えっ?」
彼の視線の先にある建物を見て、その立派さに驚いた。
ぽかんと口を開けて上を向いている私を、拓真が呼ぶ。
「碧ちゃん、行くよ」
「は、はい」
私ははっとして彼の後を慌てて追いかけ、建物のエントランスに向かう。彼と一緒に中に入り、その先にあるエレベーターに乗り込んだ。
目的の八階でエレベーターを降りて、拓真は私を先導して歩く。少し進み、ある部屋の前で足を止めて、ドアを開けた。
「どうぞ」
中へと促されて、どきどきしながら玄関に足を踏み入れた。
「部屋は散らかってるから、できれば隅々までは見ないでもらえるとありがたい」
照れながら言って、彼は私の足下にスリッパを置く。
「お邪魔します」
廊下の突き当りのドアを開けて、拓真は奥に進む。リビングのようだ。
「荷物はひとまずこの部屋に置いておこう。風呂、準備するから、そこら辺で適当に寛いでて」
拓真だって疲れているはずだ。私の世話にために、あれこれと動き回らせるのは申し訳ない。
「私、シャワーで十分だよ」
「お湯につかった方が疲れが取れるから。どうせ俺も入るんだ。気にしないで」
彼はさらりと言ってリビングを出て行った。
一人になった私は、きょろきょろと部屋の中を見回した。彼は散らかっていると言っていたがそんなことは全くなく、すっきりと片付いている。私は敷かれてあるラグの上に座り、旅行用カバンを開いた。パジャマや予備として入れておいた下着などを取り出す。タオルは貸してもらおうかと思った時、バッグの中でマナーモードにしたままだったスマホが震えた。まさか太田からかと心臓がきゅっと縮み上がる。
震える手でバッグの中からスマホを取り出した。恐る恐る覗いた画面には、やはり太田の名前があった。無視を決め込んでじっとしていると、長いコールの後、スマホは諦めたように静かになった。改めて見た画面に着信とメッセージがあったことを知らせるポップアップが出ていた。すべて太田からだ。その件数はそれぞれ何十件もあって、背中にぞわりと悪寒が走った。
そこに拓真が戻ってきた。
「お待たせ。お風呂の準備ができたよ。……碧ちゃん?」
私の青ざめた顔に気づき、彼は急いで傍にやって来た。目線を合わせるように膝を着き、私の顔をのぞき込む。
「あの人から電話でもあった?」
私は力なく拓真を見上げた。
「電話はあったけど、出なかったわ。ただ、着信とかメッセージの履歴がすごくたくさんあって、それで怖くなってしまっただけ。心配かけてごめんなさい」
拓真の手が私の肩を優しく撫でる。
「すぐには難しいかもしれないけど、きっとなんとかする。大丈夫だよ」
私はスカートをぎゅっと握りしめた。
「本当にごめんね。巻き込んでしまって……。自分自身で決着をつけてから、拓真君の気持ちに応えるつもりだったのに、あの人がここまで私と別れることを拒むだなんて、思ってもいなかったわ」
「好きな人の手を離したくない気持ちは、分からないでもないけどね。ただ、彼の場合は度を越してる。必要以上に束縛するのは間違っているし、大事にすべき人を傷つけたりするのは言語道断だ。それから前にも言ったと思うけど、俺は巻き込まれたなんて思っていないからね。それは念を押しておくよ」
拓真は私の手を取って促しながら立ち上がる。
「まずは風呂でゆっくり温まってきたらいい。その間に少しは気持ちも落ち着くんじゃないかな。タオルなんかは風呂場の籠に用意しておいたから、適当に使ってね。シャンプーとかは、嫌じゃなければ、俺のを使ってくれて構わないよ」
「何から何までありがとう」
彼の優しさと穏やかな声に、ほんの少し前まで強張っていた心が緩んだような気がする。
「お風呂、お借りします」
私は着替え一式を抱え、拓真に教えられたバスルームに向かった。