コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
タクシーに揺られながら、私は拓真の隣で緊張していた。昨夜も、行き帰りの新幹線でも二人きりではあったけれど、今の緊張はそれらともどこか違っていた。その昔だって何度も彼の部屋を訪ねはしたけれど、泊まったことはなく、必ず自分の部屋へと帰っていた。それが再びつき合い出した途端に泊まることになるなんてと、理由があるにしても心の準備がまだ整わない。何度も「けじめ」という言葉を口にしていたのには、そんな理由もあった。
私はちらりと拓真を横目で見た。
何か思いでも巡らせているのか、はたまた睡魔にでも襲われかけてでもいるのか、タクシードライバーに行く先を告げたきり、彼はずっと黙ったままだった。
この沈黙が嫌だというわけではないけれど、車の走行音しか聞こえない状況の中では、自分の鼓動の音ばかりが耳の奥で大きく響いて落ち着かない。
何か話さなければと思うが思いつかず、結局こんなことを口にしてしまった。
「拓真君、ごめんね。やっぱり明日になったら、どこかのホテルに行くから……」
すると、拓真の手が私の手をぎゅっと握った。
「全然ごめんじゃないよ。むしろ、ずっといてほしい」
ずっと――?
トクンと胸の奥で小さな音が鳴る。どう返すべきか迷っていると、タクシーのスピードが緩やかになった。
「もうすぐ着くよ。降りる準備をしようか」
「うん」
道路脇に停車したタクシーからまず自分が降り、続いて私が降りたのを確かめて、拓真が言った。
「行こうか」
「えっ、ここなの?」
目を上げて驚いた。立派な建物だ。
私の分の荷物も持ちながら、その建物のエントランスに向かう彼の後を、私は慌てて追った。
こちらに戻って来た時に改めて住むことになった部屋なのだろうが、賃貸には見えなかった。学生の時もいい所に住んでいるなと思ったが、ここはその比ではない。
私の困惑に気づいた様子もなく、拓真はオートロックを解除して中に入る。そのまま先に立ってエレベーターに乗り込んだ。
「ここ、賃貸じゃないんだね」
「まぁ、そうだね」
拓真は私の戸惑いを軽く流し、目的の階でエレベーターを降りる。八階だ。少し進んだ所にある一つの部屋の前で足を止め、ドアを開けた。
「どうぞ」
彼に促されるまま、緊張しながら玄関に足を踏み入れた。
「部屋は散らかってるから、できれば隅々までは見ないでもらえると助かるかな」
照れ臭そうに言いながら、拓真は私の足下にスリッパを置いた。
「奥にどうぞ」
「お邪魔します」
拓真が廊下の突き当りのドアを開けた。
「荷物はひとまずリビングに置いておこうか。まずは風呂だね。今準備するから、適当に寛いでて」
帰宅したばかりの拓真を、あれこれ動き回らせていることに申し訳なくなる。
「私、シャワーで十分だよ」
しかし彼は何でもないような顔をしてさらりと答える。
「でも、お湯につかった方が疲れが取れるよ。どうせ俺も入るんだから、気にしないで」
拓真はにっと笑って、バスルームと思われる方へと消えていった。
私は彼に示されたリビングへ足を踏み入れた。散らかっているなどと言っていたがそんなことはなく、すっきりと片付いていた。そのせいもあってかやけに広々と感じて、どうにも落ち着かない。
座り心地が良さそうな大きなソファがあったけれど、そこに腰を下ろすのも気が引けて、私は敷かれてあったラグの上に座った。そこで旅行用カバンを開き、パジャマや余分に入れておいた下着やらを取り出す。
さすがに少し疲れたかな――。
ふうっとため息をついた時、バッグの中でマナーモードにしてあった携帯が震えた。
まさか、太田さん……?
みぞおちの辺りがすくみ上った。
震える手でバッグの中から携帯を取り出した。見ればやはり太田の名前が出ている。そのままじっとしていると、諦めたように携帯は静かになった。改めて恐る恐る画面に目を落とすと、太田から着信とメッセージがあったことを知らせる表示が出ていた。
もしかしてその中に、別れを受け入れてくれるような言葉が入っていたりはしないかと、一瞬だけ自分に都合のいいように考えかけた。しかし、通知を開いて知った件数の多さに背筋の辺りがぞわりとする。
「お待たせ。お風呂の準備ができたよ。……碧ちゃん?」
リビングに戻ってきた拓真は青ざめた顔の私に気づき、慌てて傍にやって来て膝をつく。
「大丈夫?まさか、あの人から電話でもあったのか?」
私は力なく拓真を見上げた。
「電話はあったけど、出なかったよ。留守電にしてたし。ただ、着信とかメッセージがたくさん入っていて、その件数があまりにも多くて、それで怖くなってしまって……。ごめんなさい、心配かけて」
「震えてる」
拓真の手が私の肩を優しく撫でた。
「すぐには難しいかもしれないけど、きっとなんとかするから。大丈夫だよ」
「ごめんね。こんな風に巻き込んでしまって……」
私はスカートを握りしめた。
「ちゃんと自分で決着をつけてから、拓真君の気持ちに応えるつもりだったのに……。彼がこんなに私と別れることを拒むだなんて、思ってもいなかった」
「好きな人を離したくないっていう気持ちは、分からないでもないけどね。ただ、あの人の場合は度が過ぎてる。大事にすべき人を傷つけたり、必要以上に束縛するのは絶対に違う。それから、前にも言ったと思うけど、俺は巻き込まれたなんて思っていない。このことは、碧ちゃんがまた俺の恋人になってくれるっていう幸運に対する、ある種の試練みたいなものだと思ってる」
拓真は私の手を取って促す。
「とにかく、お風呂でゆっくりあったまっておいで。そうすれば、いくらかは気持ちも落ち着くだろう。タオルなんかは風呂場の籠に用意してあるから、適当に使って。シャンプーとかは大丈夫?」
「うん。出張用のがあるから。何から何までありがとう」
私はぎこちない笑顔を作り、彼の手につかまって立ち上がった。彼の優しさと穏やかな声に心が少し解けた気がした。
「お風呂、お借りします」
私は着替え一式を抱え、拓真に教えられたバスルームへ向かった。
やや長めの入浴を終えてリビングに戻ると、タイミングを見計らっていたのか、彼がローテーブルの上にティーカップを二つ置いた。暖かそうな湯気と嗅いだことのある香りが流れてくる。
「これはハーブティー?」
「夜だからノンカフェインの方がいいかと思ってね」
「拓真君もハーブティ、飲むんだね」
「これは昔、碧ちゃんに教えてもらったお茶だよ。初めて飲んだ時、美味しいと思った。それからは、寒い季節なんかによく飲むようになったんだ」
拓真が言ったことに、特に深い意味はないのだろう。それでも、このお茶を飲む度に私のことを思い出してくれたのかしら、などと想像するとくすぐったくも嬉しい気持ちになる。
「こっちに座って。冷めないうちに飲もう」
「うん。頂きます」
私はおずおずと拓真の言葉に頷いて、彼が座るソファにそっと腰を下ろした。
微妙に間を空けて座る私に、拓真は苦笑している。しかし、それについては触れぬままティーカップを手に取った。
「このお茶を口にする度に、碧ちゃんのことを思い出したりしてた。二度と会えないだろうと思いながらも、どんな些細なことでもいいから君と繋がっていたかったんだろうな。そう考えると、俺も君に執着していた、いや、執着しているんだと思う。だからあの人のこと、あんまり言えないと思う部分もあるんだ」
拓真は自嘲気味に笑っている。
「でも拓真君は、私を傷つけたりしないもの」
「当たり前だよ。好きな人を大切にしたいと思いはしても、傷つけようだなんて思うわけがない」
私はティーカップを両手で包むように持ち、中のお茶に目を落とした。
「実はさっきね、拓真君が今言ったようなことを私も思ってた。これを飲んでる時なんかに、私のことを思い出してくれていたのかな、なんて、勝手に嬉しくなったりしてたんだ。あはは」
自分で言っていて恥ずかしくなり、私はそれをごまかすように笑った。
拓真の表情が嬉しそうに和らぐ。
「同じようなことを思っていたんだね。さて……」
彼はお茶を飲み干して立ち上がった。
「俺も風呂に入って来る。碧ちゃんは自由にしてて。眠くなったら、そのドアの向こうが寝室だから俺のベッド使って」
「えっ。そんなわけには……」
うろたえる私に拓真は微笑む。
「俺はここで寝るから、遠慮せずに一人で手足を伸ばしてゆっくり休んで。疲れてるだろ」
「でも……」
まだ言葉を続けようとする私にその隙を与えまいとするかのように、拓真はリビングのドアを開けた。
「飲み終えたカップは、そのままにしておいていいからね」
引き留める間もなく彼はそう言って、するりとドアの向こうに行ってしまった。
「行っちゃった……」
彼の背中を見送ってから、私は元通りソファに座り直して考えた。
当面ここに置いてもらう理由を考えると、部屋の主のベッドを占領するわけにはいかない。よく見れば、今座っているソファは私が寝るにはちょうど良い大きさだ。スプリングもなかなかいい。拓真が戻って来たら、私はここで寝ると伝えよう。
そう決めてテレビをつけてぼんやりと画面を眺めていると、入浴を終えた拓真が戻って来た。まだそこに私がいるのを見て、軽く目を見開く。
「寝てていいって言ったのに」
私はテレビを消して拓真を振り返った。
「お帰りなさい。何か掛けるものを借りたいと思って待ってたの」
「掛けるもの?」
「やっぱり私、ここのソファで寝ようと思うの。拓真君がベッドで寝て?それで、毛布みたいなものを貸してもらえると助かるんだけど」
拓真の声が跳ね上がった。
「何言ってんの?碧ちゃんはベッドで寝て。俺がソファで寝るよ」
「拓真君にはどう見てもこのソファは狭いよ。本当は床で寝るつもりなんでしょ?いくらラグが敷いてあるとはいえ、そんなんじゃ冷えちゃうし、疲れだって取れないよ」
「そんなこと言ったら碧ちゃんだってそうだ。ソファじゃゆっくり眠れないって」
「でも、私、居候させてもらう立場だから」
「居候の前に俺の彼女だろ。大切にしたいって思ってる人を、こんな所で寝かせられるわけがないじゃないか」
「だって……」
なおも言葉を探して食い下がろうとする私に、拓真はやれやれとでも言いたげにため息をついた。
「碧ちゃんて、こんなに頑固だったっけ?」
「頑固じゃなくて、真面目なの」
私は唇を尖らせて拓真を軽く睨んだ。
彼は苦笑を浮かべて、そんな私をしばらく眺めていた。けれど迷うように瞳を揺らしたかと思うと、次には決断するようにきっぱりとした口調で言った。
「分かった。そんなら一緒に寝よう」
「一緒に?」
私は動揺して、拓真の言葉をおうむ返しに繰り返した。最終的には折れてくれるだろうと思っていたのに、まさかそう言い出してくるとは思っていなかったのだ。
「俺たちは恋人同士。しかもよく考えたら夕べも一緒に寝てる。だったら今さら別々に寝る必要はないじゃないか。そうだ、そうしよう」
「そうしよう、って……」
確かに昨晩も彼と一緒のベッドで眠った。だけど今夜は……。
拓真は私の隣に腰を下ろすと、私の表情をうかがい見た。
「……本当は、俺のことも怖かったりする?」
「え?」
想像もしていない言葉だった。
驚いている私に、拓真は固い表情を見せる。
「昨夜は放っておけなくて一緒に寝たけど、実は男の傍は怖いのかな、と。あんなことされてたんだから、怖くないわけがないよね。だから俺、夕べのことを少し、いや、だいぶ反省してたんだ。強引だったな、って」
しかし、私は首を横に振って拓真の心配を否定した。
「嫌なら断ってたわ。それに、拓真君を怖いだなんて思ったことはないよ」
彼は私の本心を探るような目をする。
「本当に?」
嘘ではないことが伝わるようにと、私は大きく頷いた。
「本当よ」
拓真はふうっと息を吐いてようやく頬を緩めたが、何らかの決意を固めたような顔をする。それから私の顔をのぞき込んだ。
「碧ちゃんの気持ちが落ち着くまでは、夕べ以上に触れないって約束する。だから俺の傍で眠ってくれないか」
そこまで言ってくれる拓真に、私は頷くのをまだためらっていた。
彼は静かに私の返事を待ってくれている。
私の迷いの理由は、彼の傍が嫌だからではないのだ。むしろその逆だった。
彼のベッドを占領するのは申し訳なく、だから一人でソファで寝ようと思ったのは本当だ。けれど心のどこかで、彼の傍で眠りたいという気持ちが確かにあった。もっと言えば、彼にならば触れられても構わないと思っていた。
昨夜のホテルでの拓真は、ただただ私の髪を撫でてくれた。嬉しいと思う一方で、それが彼の気遣いと優しさだと分かっていても、少し残念に思ったのも事実。今夜こそはなどと思っているわけではないけれど、必要以上に触れないと言った彼の決意を少々恨めしくも物足りなくも思う。
しかし、彼の部屋に置いてもらうことになったのは、事情があってのこと。そんな状況で自ら触れてほしいと思っているなんて、それを知ったら彼は私を軽蔑するのではないか。
私は悶々とする。
でも、本当は、やっぱり。できることなら、彼の唇で、手で、これまでの嫌な記憶と嫌な痕のすべてを完全に消してほしい。上書きしてほしい。再び彼と恋人同士になった今、心だけではなく、今度こそ体も彼のものにしてほしい。今夜一緒のベッドに入ってしまったら、きっと私の中に渦巻くそれらの葛藤を彼に気づかれてしまう。
「碧ちゃん、もう諦めて一緒に寝よう。明日は皆んなで遊びに行くっていう約束もあることだし。ね?」
自分の思いに囚われていた私は我に返る。拓真を見ると、黙り込んでしまっていた私に呆れた様子一つ見せず、穏やかに微笑んでいた。
その顔を見て、私は改めて思い出した。この人は私の過去の愚行も、今の私が置かれている状況もすべて、受け止めて受け入れてくれるような人だった。彼ならば私の心の内に気づいたとしても、その気持ちを上手に受け止め、あるいは上手に受け流してくれそうな気がする。
迷いがなくなったわけではなかったが、私はこくんと頷いた。
「分かった。じゃあ、お隣お邪魔するね」
拓真はくすぐったそうに笑う。
「どうぞ。さ、行こうか。こっちの部屋はもう灯りを消すよ」
拓真は私の手を取って、寝室へと向かった。
黙っていると緊張してきてしまいそうで、私はあえて明るい声で言った。
「明日の朝ご飯は私に用意させてね」
「ありがとう。もしも俺より早く起きた時には、ぜひお願いするよ」
目元を緩めて振り返る拓真に、私もまた微笑みを返そうとしたが、うまく笑えなかった。彼の手が寝室のドアを開けた途端に、鼓動がどきどきと跳ね出してしまったから。
私は静かに細く呼吸をした。ベッドに入ったら、さっさと目を閉じて寝てしまえばいいのだ。そうすれば余計なことを考えなくてすむだろうし、朝はあっという間にやって来るはず。そんなことを自分に言い聞かせながら、私は拓真に促されるがまま、彼の寝室に足を踏み入れた。