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やや長めの入浴を終えてリビングに戻ると、見計らっていたかのようなタイミングで、拓真がティーカップを二つ、ローテーブルの上に置いた。暖かそうな湯気と嗅いだことのある香りが流れてくる。
「もしかしてハーブティー?」
「夜だから、ノンカフェインの方がいいかと思ってさ」
「拓真君もハーブティーなんて飲むんだね」
「これは昔、碧ちゃんに教えてもらったお茶だよ。それ以来気に入ってね」
拓真の言葉に、このお茶を飲む度に私のことを思い出したりはしたかしらと、願望交じりのくすぐったい想像をする。
「冷めないうちに飲もう。こっちに座って」
「えぇ」
私はおずおずとソファに近づき、微妙な間を空けて彼の隣に腰を下ろす。
それについては触れずに、拓真は苦笑しながらティーカップを手に取った。揺れる湯気を見つめながら話し出す。
「正直に言うとね、このお茶を飲んでは君のことを思い出してた。君の電話番号をずっと忘れられずにいたこともそうだけど、二度と君に会えないだろうと半分以上諦めていたくせに、どんな些細なことでもいいから君と繋がっていたかったんだと思う。つまりは俺も君に執着していた。いや、執着しているんだろう。そういう意味では俺もあの人と同類かもしれないな」
「でも拓真君は、太田さんとは全然違うわ」
「そうだね。全然違うな。だって俺は、好きな人を傷つけようとは思わない」
彼は真顔で言い、ふと思い出したように時計を見上げた。
「もうこんな時間か。俺も風呂に入って来るよ。碧ちゃんはゆっくりしていて。そのドアの向こうが寝室だから、眠くなったら俺のベッドを使って」
「いえ、私はこの部屋で……」
拓真は微笑み、私の言葉を遮る。私に言葉を挟む隙を与えることなく滑らかな口調で言う。
「俺のことは気にせずに、ベッドで寝て。カップはそのままにしておいていいからね」
言い終えた彼はさっさとドアを開けて、リビングから出て行ってしまった。
「行っちゃった……」
私はソファに座り直し、ため息をついた。部屋の主のベッドを占領するなど心苦しすぎる。よく見れば、今座っているソファは私が体を横にするにはちょうど良い大きさだ。スプリングもなかなかいい。ここを使わせてもらおうと決める。
テレビをつけてぼんやりと画面を眺めていると、入浴を終えた拓真が戻って来た。私がまだ起きているのを見て驚いた顔をする。
「起きてたのか。寝てて良かったのに」
私はテレビを消して拓真を見た。
「お帰りなさい。何か掛けるものを借りたいと思って待ってたの」
「掛けるもの?」
「このソファを借りて寝ようと思うの。それでね、毛布みたいな物があったら貸してもらえると助かるんだけど」
拓真の声が跳ね上がる。
「何言ってんの?碧ちゃんがベッドで寝て。俺がこっちで寝るから」
「こっちってどこで寝るつもり?このソファは拓真君には狭いじゃない。まさか床で寝ようとか思ってる?ラグが敷いてあるとはいえ、そんなんじゃ冷えちゃうし、疲れも取れないわ」
「そんなこと言ったら碧ちゃんだってそうだ。ソファじゃゆっくり眠れないよ」
「でも、私、居候させてもらう立場だから」
「居候なんかじゃないよ。君は俺の大切な彼女だ。その君を、狭苦しいソファの上で寝かせられるわけがないだろう」
「私ならどこでも寝られるから」
私はなおも食い下がる。
拓真はやれやれとため息をついた。
「碧ちゃんて、こんなに頑固だった?」
「頑固じゃなくて、真面目なの」
私は拓真を軽く睨んだ。
彼は困惑顔でそんな私をしばらく眺め、迷うように瞳を揺らした。
私の言葉に頷く気持ちになったのかと喜んだ次の瞬間、彼の面に意を決したような色が浮かんだ。
彼はきっぱりとした口調で言う。
「分かった。それなら一緒に寝よう」
「い、一緒に?」
動揺した。私の意見を呑むだろうと思っていたのに、彼の言葉は予想外だった。
「俺たちは恋人同士だろう?しかもよく考えたら夕べも一緒に寝てる。それなら今さら別々に寝る必要はないじゃないか。そうだ、そうしよう」
「ま、待ってよ!それはそうかもしれないけど、だけど……」
拓真はソファに腰を下ろし、私の表情を窺い見る。
「本当は、俺のことも怖かったりする?」
想像もしていなかった彼の質問に驚き、私は瞬きを繰り返した。
拓真の表情は固い。
「実は男と二人っきりの状況は怖いのかなと思ってさ。あんなことをされていたんだから、怖くないわけがないよね。だから夕べ一緒に寝ようなんて言ってそうしたことを、少し、いや、だいぶ反省していたんだ。強引だったな、って」
私は首を横に振って拓真の心配を否定する。
「嫌ならはっきりと断ってたわ。それに、拓真君を怖いだなんて思ったことはないよ」
「本当に?」
「本当よ」
それが本心であることが伝わるように、私は大きく頷いた。
拓真はようやく頬を緩めたが、またすぐに、何かしらを決意したような真顔になる。
「夕べのように触れないって約束する。だから今夜も、いや、ここにいる間は俺の傍で眠ってくれないか」
彼は私の返事を待っている。
しかし私は頷くのを躊躇した。迷う理由は、彼の傍が嫌だからとか、彼のことが恐いからではない。むしろその逆だった。自分の方から彼を求めてしまいそうで恐かったのだ。
ソファで寝ると言いはしたが、本当は最初から彼の傍で眠りたいと言いたかった。もっと言えば、彼に触れてほしいと思っていた。彼の唇で、手で、これまですべての嫌な記憶と嫌な痕を完全に消し、上書きしてほしい。数年の時を経て再び彼と恋人同士になった今、心だけでなく体も、今度こそ彼のものにしてほしいと思う。だから、昨夜のようには触れないと宣言する彼の言葉は、恨めしくも物足りなかった。
しかし、と思い直す。彼の部屋に置いてもらうことになったのは、事情があってのことだ。そんな中、実は彼に触れてほしいと思っていることを知られてしまったら、こんな時に何を考えているのかと、軽蔑されてしまうかもしれない。
私の心中など知らない拓真は言う。
「明日はみんなで遊びに行くんだろ?せめて今夜だけでいいから、もう諦めて俺の隣で一緒に寝て?」
拓真は穏やかに微笑んでいる。
葛藤を抱えたまま、私はこくりと頷いた。
「……じゃあ、お隣お邪魔するね」
「どうぞ。さ、行こうか。こっちの部屋はもう灯りを消すよ」
寝室の灯りをつけてから、彼はリビングの照明を落とした。私の手を引いて寝室に足を向ける。
黙っていると緊張してきてしまいそうで、私はあえて明るい声で言った。
「明日の朝ご飯は私に用意させてね」
「ありがとう。もしも俺より早く起きた時には、ぜひお願いするよ」
私を寝室に促しながら、彼はにっと笑った。
私もまた彼に笑顔を返そうとした。しかしどきどきしてうまく笑えない。
私が部屋に入ったのを見て、拓真がドアを閉めた。
その音を耳にした途端、心臓の音がさらにうるさくなった。落ち着こうとして自分に言い聞かせる。ベッドに入ったらすぐに目を閉じて寝てしまえばいい。そうすれば余計なことを考える暇もなく、あっという間に朝が訪れるはずだと。
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