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注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください。
朝の光に照らされながら、俺はただ歩いていた。
胸がざわつく。昨日の出来事を思い返すたび、心臓がまだ高鳴る――助けてくれた謎の少女、桜月イロハのことを考えれば、なおさらだ。
“会う場所は、白鷺公園にしておきましょう。いつでも待っています。”
その言葉が、反芻する。
昨日の様子が、夢のようだ。
知らない謎の人に、ついて行こうとするなんて、可笑しくて馬鹿な話なんだろうが、そんなのはどうだっていい。
空気は澄んでいるのに、どこか緊張感が漂う。風に揺れる木々の葉音まで、昨日の余韻に溶けていくようだ。
足音を響かせながら、俺は公園の中心に近づく。そこには、いつもと同じ静かな景色が広がっている――しかし、違和感は確かにあった。
そして、ブランコに座る少女を見て、俺の心は止まった。
――あの人だ。桜月イロハが、そこにいた。
きぃ、きぃ、と。軋む音を鳴らしながら、地面を見つめていた。
その姿に、妙な違和感を覚えた。
「……なんだろ……この感覚。」
思い出そうとすればするほど、光景は霧の向こうに溶けていく。
空気、あの声、あの視線――確かにどこかで見たはずでも、どうしても手の届かない場所にあるような気がした。
「……あ。来られましたか。」
ブランコで足を揺らしていた彼女は、動きを止めてこちらに目線を向けた。
淡い光に照らされた瞳が、昨日と同じく冷静で、けれどどこか柔らかさを含んでいる。
ゆっくりと立ち上がる。スカートをはたき、地面を踏む足音は、静かながら確かな存在感を放つ。
「おはようございます。……まさか本当に来るなんて、思っていませんでした。」
「……まさか、約束なら守るよ。」
そうは言ったものの、ギリギリまで行くか行かないか迷った。
最後には、妹の顔が浮かび上がって、勢いに任せて家を出てきた。
……なのに今は、それ以上に、彼女に会いたかった気がしてならない。
「……でも、ついてくるのはいいですが、特に何もしませんよ。あなたが知りたいことも、何も分からないままかもしれません。」
その言葉に、胸のざわめきが少しだけ強くなる。
分からないことがあってもいい。答えがなくてもいい。
――ただ、この人と一緒にいれば、何かが変わる気がした。
イロハは何も言わずに歩き出す。
俺も慌ててその後を追う。
並んで歩くけど、会話は一切ない。
昨日のことを聞きたい。でも、口を開くタイミングが分からない。
足音と、街のざわめきだけが耳に響く。
横を歩く少女は、俺なんか気にしていないように、ただ前だけを見ていた。
……正直、気まずい。
何か話さなきゃ、とは思うのに、頭の中は真っ白だ。
昨日のことを聞く勇気なんてない。
だから、つい口から出たのは、まったく別の言葉だった。
「え、えぇと……イロハさん? その……虚霊が出ない時って、何してるんですか?」
頑張って、会話を始めてみる。イロハは視線だけこっちを向けて、口を開いた。
「街を見ています。虚霊以外に、困った人はいないか、何か出来ることはないか。それだけです。これも私の役目のひとつなのです。」
「……ねぇ、その役目ってなに?」
昨日も、彼女は”役目”という言葉を出した。
それが俺は理解できていなかった。どういう経緯で、そんな剣を持っているのか。
それを俺は、問うた。
彼女は、少し視線を落として、小さく呟いた。
「……静寂を継ぐ者としての役目。」
彼女はほんのわずかに間を置き、声を落とす。
「私は、お母様の言う通りに、動くだけです。」
「……役目、か。」
それは彼女自身の意志じゃなく、誰かに押しつけられたもののように聞こえた。
胸の奥に、小さな苛立ちのような感情が芽生える。
「それってつまり、イロハさん自身はやりたくないんじゃないの?」
そう口にした瞬間、自分でも軽率だと分かった。
無神経にそんなことを言うなんて、本人は望んでしていることかもしれないのに。
イロハは一瞬、目を見開いて、壊れたからくり人形のように動きを止めた。
でも、すぐまた動き出す。
「……よく、分かりません。考えたことも……ありませんから。」
その答えが、どうしようもなく寂しく聞こえた。
役目に縛られて、自分の気持ちすら分からないなんて――そんなの、あまりにも……。
「それって、なんか……怖くない?自分の気持ちがわからないなんて。」
「怖い、ですか」
「うん。自分の事が分からないなんて、怖いよ。一番理解できるのは、自分なのにね。」
「それは、生きる人皆に言えることです。私にだけ言う言葉じゃありません。」
その声は、冷たくも優しくもなく、ただ淡々と響いた。
俺は思った。こんなこと言うなんて、失礼だ。出会ったのが昨日なのに、こんな偉そうな事を言われれば、きっと怒っているに違いない。
あぁぁ、ごめんなさい!
怒らせちゃったか!
「あー、ごめんなさい」
「何故?」
「いや、偉そうなこと言ったな、と思って。」
「別に大丈夫です。」
その返事は淡白で、やっぱり心の奥までは見せてくれない。
でも、それでも。
歩幅を合わせて隣にいることを、彼女は拒まなかった。
その後は、沈黙。
何も話さず、バラバラの足音と、子供の笑い声、自転車のチリン、という心地よい音色、そして車の走行音だけがこの世界に彩りを加えていた。
今日は土曜日。
つまり近所の子供たちは休み。だからいつもに増して子供の数が多い。
でも、中にはスーツを着た男性もいる。子供たちは休みだが、大人は相変わらず仕事みたいだ。お疲れ様です。
「人、多いな。」
隣で、イロハがわずかに視線を横に流す。
「……ですね。」
それだけで会話は終わる。でも、不思議と心は少しだけ軽くなった。
その時。ピタリとイロハが動きを止めた。まるで時間が停止したように。
俺も慌てて動きを止める。急にどうしたんだろう。
「ん?どうしたーー」
「あなたは動かないでください。」
イロハが目をやる方向は横断歩道。信号は赤……だったが今、青に変わった。
青に変わった瞬間、多くの人が渡り始める。
その様子を、睨むように眺めている。どこもおかしな所は無いはずだが。
「……?」
「……危ない。」
その言葉が落ちた瞬間、横断歩道の向こう――白い車が走ってきている。人波の中で、黒い影のような“何か”が蠢いた気がした。
そして、横断歩道をゆっくり走る、5歳前後の男の子。
「ちょっと、勝手に走っちゃダメ!」
その子の母親らしき女性が、歩道で慌てて手を伸ばしているが、既に遅い。男の子は歩道を楽しそうに駆けている。
その時、違和感に気づいた。
車が、止まらない。
現在、信号は青。車は止まる時。なのに止まる気配どころか、グングンスピードが上がっているような……。
「あの車、なんか様子おかしくない?」
俺の言葉が終わるより早く、白い車は猛獣みたいに唸りを上げて――男の子めがけて突っ込む。
「あぶなーッ!」
横断歩道に飛び出そうと、足を踏み出した瞬間。
イロハの冷たい手が俺を制した。
「あなたは動かないで」
その声が耳に残る間もなく、彼女の白い影は車へ向かって弾かれるように駆け出していた。
「待っーー!」
叫んだが、時すでに遅し。
イロハは横断歩道の中心にいる男の子を、突き飛ばす。
小さな体が地面に転がるのを確認してから、彼女は振り返る。
迫る白い車のフロントライトを、ただまっすぐに見据えていた。
そして、轟音が響いた。
俺は、その瞬間を見た。イロハがーー。
車のフロントに思い切り弾き飛ばされ、赤が花弁のように舞った。
イロハが――轢かれた。
一瞬の出来事のはずなのに、ゆっくりと、目の前の残酷は、俺を突き刺す。
「……っ!」
声にならない悲鳴が喉に引っかかる。
さっきまで隣を歩いていたはずの彼女が、もうこの世から消えたように思えて。
轟音とともに、車の周囲に黒い靄がぶわりと吹き荒れる。
虚霊。昨日見たものと同じ。運転手に……取り憑いていたのか。
だけど――
「……え?」
血に染まったはずの少女が、何事もなかったかのように立っていた。
白い影のまま、じっと俺を見つめる。
鞘から剣を引き抜くと、日光に反射して刃は優しい銀に光った。
「……還りなさい。」
声が耳に届いた瞬間、もう、終わっていた。
シュン――
薄氷を砕くような音もなく、虚霊の身体が斬り刻まれる。
断末魔を上げて、黒い影は街の空気に溶けるように消え去った。
途端に街の音が戻る。車の走行音、人々の話し声、視線。
さっきの怪物は、どこにもいなかった。
イロハは剣をジャキン、と鞘に戻し、地面に転がる男の子を見下ろした。
男の子は目を見開いたまま、何が起きたのか理解できず、震える手で鞄の紐を握りしめている。
「……こーら。」
間延びした声が響く。
「勝手に飛び出してはなりませんよ。あなたのお母様が困ってしまいます。」
その瞬間、男の子のお母さんらしき人が駆け寄る。
「ミナト!大丈夫!?」
「うん、おかーさん。ぼくは大丈夫。このおねーさんがたすけてくれた。」
男の子はイロハを指差し、笑顔を向ける。
母親は頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございます!なんとお礼を……」
イロハは一歩近づき、優しく母親の頭に手を置いた。
撫でる指先は冷たいのに、温かみを感じる。
「これは私の役目です。お礼なんていりません……ですが。」
一呼吸置いて手を離し、微笑む。
「小さな子供は天真爛漫です。急に走り出すこともあります。ですから、しっかり手を繋いであげてください。」
イロハは男の子の目線に合わせ、しゃがむ。
「もう飛び出しちゃダメですよ。これからはお母様のそばにいるんです。」
男の子はうなずき、笑顔を見せる。
「おねーさん!ありがとう!ぼくもおねーさんみたいになりたいな!」
「ダメですよ。あなたはそのままでいる方が幸せです。」
イロハは静かに立ち上がり、振り返らず手を振って去っていく。
俺はただ立ち尽くし、息を整える。
目の前で子供を救った彼女の姿に、言葉にならない尊さを覚える。
でも――血まみれだったはずの彼女は、無傷で戻ってきた。
先刻までの優しい表情は消え、冷酷な影のような顔になっている。
心臓がバクバクする。息が詰まる。
さっきまで死の窮地にいたのに、今こうして立っている。
「え、待って待って!何したのイロハさん!」
「何って……助けただけです。」
「なんで無傷なの!おかしいでしょ!」
「そういう能力、ですよ。」
「……はぁ?」
何者なんだ、この人は。
「……まぁ、わかった。でも、車とかあのままにしておいていいのか?」
俺はフロントが凹んだ車を指さす。
運転手は意識を失っているようだ。
「放っておいていいです。私はこの世界であまり目立たない方がいいんです。警察が処理するでしょう。」
そう言い、何事もなかったかのように歩き出す。
「……ほんとにいいのか?」
心の奥でざわつく違和感を抱え、慌てて背中を追う――その瞬間、通りの向こうで悲鳴が響いた。
「キャアアアッ!」
振り返ると、一人の女性が虚ろな目で手をばたつかせ、黒い影に吸い寄せられている。
その姿に、俺は固まる。――記憶が甦る。
桜が舞う日、ミヨを吸い込んだあの黒い影と同じだ。
イロハは静かに足を止めた。
「……あなたは動かないで」
頭では理解しても、身体は勝手に動こうとする。
恐怖と焦りの中、俺は立ち止まるしかなかった。
白い影の少女は、再び虚霊の方へ滑るように駆けていく。
シュン――
閃光と共に虚霊は崩れ落ちる。
女性は膝をつき、なお震えている。
イロハは剣を鞘に戻し、すっと歩み寄った。
「大丈夫です。恐れることはありません。」
女性はおぼつかない手で頭を押さえ、震える声で訊ねる。
「……あなたは?」
イロハは短く頷き、背を向ける。
そして、俺に小さく声をかけた。
「安心してください。目の前で助けられないものなど、私には無いから。」
ポツリと呟いて、そのまま立ち去る彼女。
この子は本当に優しいのか――。
子供に対するあの優しさと、俺に見せたこの冷静さ。
一体どちらが、本当のイロハなんだろうか。
その後は、あまり目立つ異変は起きなかった。
気づいた時には、もう、夜だった。
夜の風が、街路樹の葉を揺らした。月明かりは薄く、路面を銀色に染めている。
「もう、こんな時間。」
俺はふと、歩道橋にいる、かすかな影を見つけた。立っているのは少女――ショートカットの髪に、真っ黒な瞳、ブレザーを身につけて、ただそこにいる。
まだ小さな体だが、どこか異様なオーラを放っている。
「……あの子、何してるんだ?」
よく見ると、少女は橋の欄干に近づき、空を眺めている。
いや、もっと、何かを願っているような雰囲気。目の奥が虚ろで、声も出さずに震えていた。
「……」
すると、イロハも気がついたのか、歩道橋へと向かって、静かに歩み始めた。
俺のそばを通り抜ける横顔は、少しだけ、寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
イロハは、やや急ぎ足で、階段をコツコツと上る。急いでるんなら、昨日の俺の時みたいに、跳躍すればいいのでは?
重い足音が、ただ夜空に向かって響き渡る。はぁ、はぁ、と言う吐息が、かすかに聞こえる。
その後ろを、俺は追うことしか出来ないのだ。
上りきると、イロハはひとつ、声を出した。
「……まって。」
声をかけられた少女は振り返る、橋の欄干を手で撫でながら。
「……何?」
イロハはゆっくりと、しかし迷いなく歩み寄る。剣はまだ鞘に収められたまま、でもその白い影からは、空気を切り裂く鋭さが漂ってくる。
「……あなたは、死にたいのですか?」
イロハの声は、冷たく、でも静かで、少女の心に直接届くようだった。
俺はその言葉が出た瞬間、信じられなかった。まさか目の前にいる人が、死のうとしているだなんて。
少女は、小さく目を見開いた後に、不思議そうに尋ねた。
「どうしてわかるの。」
「分かりますよ。瞳は、その人の気持ちを映す鏡ですから。」
「……そうなんだ。」
イロハは静かに、少女の隣に立ち、そのまま手すりに座る。落ちたら事故になりかねないのに、普通に座っている。
「どうして死にたいんです?」
イロハは優しく尋ね、少女の目をしっかりと見た。
少女は迷うように目を泳がせたあと、小さく呟いた。
「だって、みんな私が必要ないって。邪魔な存在だって……」
その言葉に、俺は思わず息を詰める。
――この子、本当に、普通の子じゃない。
まだ小さいのに、心の奥が死でいっぱいだ。どうしてそんな風に思えるんだ……。
イロハは少女の目をじっと見つめ、静かに手を伸ばす。
「……そんなことはありませんよ。あなたの存在は、誰かにとって必ず意味がある。」
「そんなの綺麗事でしょ?」
イロハの発言を真っ向から否定する少女は、歪んだ笑みを浮かべた。
「……その誰かって、誰なの?今までその誰かを見た事ないよ。」
少女は小さく肩を震わせ、目の奥に狂気じみた光を宿す。
「どうせ誰も私のことなんて気にしない……だから、もう終わりにする……」
「まって、落ちついて!そんなことしたら……」
俺は少女に対して叫んだ。でも。
「うるさいな!私の事あんたたちは知らないでしょ!」
その言葉は届くどころか、余計に少女を傷つけた。
少女は地面にしゃがみこんで、泣き始めた。全ての苦痛を吐き出すように。
「もう嫌なの!こんな世界に居たくないの!!」
泣き崩れる少女、その時なにか言えば良かったのだろう。
でも、俺は何も言えなかった。
イロハは静かに立ち上がり、剣を抜く。
その動作は穏やかで、恐怖を与えるものではない。
「……死にたいですか。」
少女は恐れもなく、目に涙を浮かべて笑った。
「うん、もう嫌だよ……。」
その言葉が落ちた時、イロハは諦めのような、そんな温度を含む声で、言った。
「……そうですか。」
一泊置いて、剣を抜く。月に照らされて、輝く。
イロハの瞳は、鋭い光を宿している。
まさか、この子。
「……分かりました。なら、私がその願いを叶えましょう。」
そう囁いて、刃を少女の首元に添える。その瞳には、慈悲もない。何も浮べない、無。
俺はその様子を、ただ傍観するしかできない。目の前で人を殺そうとする彼女と、この状況を理解するのに時間が掛かった。
「……救ってくれるの?」
少女は、ポロポロと、大粒の涙を零しながら、掠れた声で呟いた。
イロハは、同情でも、悲しみでも喜びでもない、小さな笑みを滲ませた。
「……あなたを救うには、言葉じゃ足りない。だから、願いを叶える。それがたとえ、世界から見て間違っていても。」
その時、俺はようやく、声を荒らげた。イロハが、人を殺めることを止めようと、必死に。
「待てーー!殺しちゃ……っ!」
でも、
届いていなかった。もう、手遅れだった。
イロハは、刃をするりと動かす。
少女は光の粒子に包まれ、徐々に透明になっていく。
「……痛く、ない?」
驚きで目を見開く少女。やがて、かすかに笑みを浮かべた。
「あは……一度でいいから、必要とされてみたかった。」
そう言い残して、何も残さず消えていった。
少女が消えた後、静寂だけが歩道橋を包んだ。
風が葉を揺らす音だけが、俺の耳に残る。
「……イロハ……?」
声にならない声を漏らす。胸の奥が、ざわざわと騒ぎ立てる。
今、目の前で起きたこと――あれは本当に、救済だったのか。
それとも、ただの殺しだったのか。
イロハは、手にした剣をそっと鞘に戻す。
その背中は冷たく、けれどどこか静かで落ち着いた雰囲気を漂わせている。
俺はその白い影を、ただ見つめることしかできなかった。
「……救うって、こういうことなのか……?」
小さく呟いた言葉が、夜風に消えていく。少女の笑顔の残像だけが、目に焼き付いて離れなかった。
イロハが振り返る。瞳には、何も浮かばない「無」。その静けさが、俺の恐怖心をさらに増幅させる。
「……行きましょう。」
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。歩き出さなければならない――けど。
「待って。」
俺はイロハを呼び止めた。彼女はピタリと動きを止め、ゆっくりとこちらを向く。
「なんでしょう。」
さっき人を斬ったというのに、平然とした態度でいられる彼女に、俺の不安は渦巻いた。どもりながら、ようやく声を出す。
「……君は、平気で人を殺せるのか?」
イロハは一瞬、大きく目を見開いた。だがすぐに閉じ、いつもの静かな瞳に戻る。返事が来るのは十数秒後だった。
「……殺すわけではありませんよ。只、望みを叶えただけです。」
俺は息を呑む。望み――少女の“救い”を叶えただけ、なのか。だが、どうしてそんな方法しかなかったんだ。
「……どうして、そんなことができるんだ……」声が震える。鼓動がまだ治まらない。
イロハは首を少し傾げる。まるで不思議そうな小動物のようだった。
「……理由は簡単です。言葉だけでは、人は救えないからです。」
「だからって人を殺すのか!」
イロハは眉をほんの一瞬寄せ、すぐ平静を取り戻した。片手を静かに差し出して、低く言う。
「――あなたは、生きたい人に『死ね』と言えますか?」
「……え?」
その一言が胸に刺さる。そんな言葉は言えない。言葉の刃が、人をどれだけ壊すか、俺は知っているから。
「それと同じです。死にたい人に『生きろ』と押し付けるのは、苦痛でしかない。」
「だからって手を下すのが正しいのか!」
「……お母様に、そう教わったのです。」
その答えは説明にも言い訳にも聞こえた。俺の頭の中で「お母様」が反響する。お母様って誰だ……?
「君はどうしたいんだよ!」
イロハは少し視線を逸らし、静かに言った。
「……私? 分かりません。」
その言葉は夜風より冷たく、俺の胸を凍らせた。
まるで、人形みたいだ――と、俺は直感的に思った。言われたことをただ遂行するだけの存在。感情が欠落している。
だが、イロハはふっと小さく息をつき、顔を上げる。
「斬る以外の救いを考えることは、あります。いつも結論は同じですけれど。」
言葉少なにため息をひとつ。彼女は、再び歩き始める。
「さて。そろそろあなたは帰るべきです。親御さんが心配しますよ」
まるで会話を切り上げたいかのように、イロハは言い放つ。
「はぁ……? ちょっと、ちゃんと話を——」
遮るように、イロハが続けた。
「明日も、会いますか? 私と。……いや、会わないでしょうね。あなたは今、私に恐怖を抱いている。なら、もう会いたくはないはずです。」
独り言めいた言葉に、爪が食い込むほど拳を握りしめた。
俺の中で、何かが沸騰した。勝手に決めるな――それでも、胸の奥にあるのは恐怖だけじゃない。知りたい、という気持ちが確かにある。
「いいや、明日も会う。これから先も、ずっとだ。」
言葉を出すと、自分でも驚くほど声は震えなかった。
「……え?」
「俺には、まだ分かってないことが多すぎる。妹のこと、あの“虚霊”のこと、君のこと。全部、知るまでは離れない。」
イロハの瞳が一瞬だけ揺れた。――が、すぐにいつもの淡い無に戻る。
「……そうですか。なら、構いません。」
イロハは歩道橋の階段を降り始めた。
最初の一歩はゆっくりだったのに、途中からはぴょん、ぴょんと軽やかに跳ねるように。さっきまでの冷たい影はどこへやら、急に年相応の少女に見えてしまう。
「……ですが、約束。あなたは戦闘には関わらないこと。あなたには、その力がなさそうですから。」
「う……失礼な。……けど、否定できないのが悔しい。」
ちょっと自分が惨めになる言葉が、容赦なく心臓にぶっ刺さる。まるで自分は無力な野郎、とでも言われている気分だった。
イロハは振り返らず、冷淡に告げる。
「……それでは。さよなら。」
「……ああ。またな。」
俺は、後ろ姿に向けて小さく手を振った。どうせ見えていないのはわかっている。
今日一日で、彼女のことを、少しわかったような、分からなかったような。
夜風は冷たく、胸のざわめきだけが残った。
俺は大人しく、家に帰ることにした。
欠けた月だけが、俺の家路を照らしてくれていた。
第三の月夜「雨の音、繰り返す。」へ続く。