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注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください。
イロハと出会って、まだ数日。
旅が始まってから、ほんのわずかな時間しか経っていないはずなのに――
それでも俺の中には、すでに小さな変化があった。
あの日、俺は言ったんだ。「世界を知りたい。君と一緒に行きたい」って。
今思えば、あれは勢いだったのかもしれない。軽いノリだったと言われても仕方ない。
でも、だからといって、間違いだったとも思わない。
あの時、本当にそう願ったのは確かだから。
ただ――
この子の考え方が、本当に分からない。
イロハは黙って歩いている。
祈るように、呼吸するように、ただ静かに、前だけを見て。
街の歪みは、予想以上だった。
瓦礫に埋もれた公園、崩れかけたアーケード。人々の笑顔の奥に潜む、見えない何か。
虚霊と呼ばれる存在。それは、人の心の奥に潜む痛みや絶望に、静かに取り憑いていた。
俺も、取り憑かれてしまった。
そんなところを助けてくれたのが、イロハだったけど。
見たくなかったものが、どんどん目の前に差し出されていく。
けれど、イロハは何も言わない。
感情がないわけじゃないのに――
怒りも、悲しみも、優しささえも。
すべてを、表情の奥に閉じ込めている。
俺はその背を、何も言えずに追っていた。
問いかけたい言葉があって、でもうまく口にできなくて。
ただ歩くたび、心の中に問いだけが積もっていく。
やがてイロハが、ピタリと足を止めた。
「……イロハさん?」
名前を呼ぶと、彼女は耳を澄ませるように少しだけ顔を上げた。
「……あと少し歩いた先。そこに、虚霊はいる。」
その声は、まるで何かを確信しているようで。
彼女は次の瞬間、音もなく走り出した。
風が吹いたかのように、静かに。
でも、その背中は迷いがなかった。
「――ちょっ、待ってくれよ!」
慌てて俺も駆け出す。
夕暮れが、ゆっくりと街を包み込み始めていた。
場面は一転して、夜の繁華街。
ネオンがきらめく雑踏を離れた、ひと気のない路地裏に―― ひとりの青年がいた。
背を壁に預け、しゃがみ込むようにしてうずくまっている。
その手には、鋭利なナイフ。
光に反射してぎらつく刃が、本気の覚悟を物語っていた。
「……兄貴を殺したあいつが……ここに来る。もうすぐ……」
低く、震えた声。
その目は濁っていた。
怒りに焼かれ、何も映していない――ただ、憎しみだけを燃やしている。
でも、その目の隅に、かすかに残っていたものがあった。
涙の跡。
乾ききったそれが、彼が「泣いた後」の人間であることを示していた。
イロハが、寄り添うように一歩、足を踏み入れる。
でも青年は、イロハに対しても怒りを抱くように
「邪魔するな……これは……俺の、ケジメなんだ……!」
と、刃物を差し向けながら怒鳴る。
虚霊がいた。
怒りを増幅させるように、その背に寄り添っていた。
まるで「やれ」と囁くように、青年の感情に火を注ぐ。
イロハは、一歩、また一歩と近づいていく。ナイフで自分が刺されるかもしれないってのに、それすら恐れず。
そして、迷いなく剣を抜いた。
一閃。
今度は、虚霊だけを狙い、斬り裂くように。
俺は少しほっとした。今度は人を斬らなかったから。
虚霊は悲鳴を上げて霧散した。
青年が、ばたりと地に崩れ落ちた。
「……これで……兄貴に……顔向け……できるのかよ……」
声はかすれていた。
怒りという名の仮面がはがれ、下から出てきたのは――
痛みをこらえるような、泣きそうな顔だった。
イロハはしゃがみ込み、彼と目線を合わせるようにして、そっと口を開いた。
「……あなたのその怒りは、愛の裏返し。 守れなかったという痛みは、守りたかったという願いの証です。」
その言葉に、彼は黙ったまま、ぽつりぽつりと涙をこぼした。
もう誰かに見せるつもりなんてなかった涙が、静かに落ちていく。
まるで――その涙で、怒りを洗い流していくかのように。
俺はそれを見つめながら、自分の胸に手を当てた。
ミヨ。
俺の、大切だった妹。
俺が「守れなかった」という悔しさは、一生消えることは無いと思う。
たぶん、彼の涙は――俺自身にも、沁みていた。
何かを察したのか、イロハは、俺の方に近づいて、目を細めた。
「あなたにも、後悔があるようですが。その後悔は、あなたのせいではありませんよ。」
……そういうこと言ってくると思ったよ。
俺のせいじゃない?馬鹿な。だって俺が、俺の力が弱かったんだ。もっと強ければ、闇からミヨを、救い出せたと思う。
それは俺のせいじゃないか?俺が助けられてたら、ミヨは生きていたんだから。
「……あなたが、あなたを責めたいのなら、それでもいいです。それも、生き方のひとつ。ですが、あまり責めすぎるのも良くないかと。もしあなたがあなたを責めすぎた時、私は、怒ってしまうでしょうね。」
なんて、意味不明なことをイロハは言ったあと、次の虚霊の元へと向かうべく、足を動かした。
深夜。
歩道橋の上には、月の光が冷たく差していた。
風が吹くたび、欄干にもたれかかる影が、かすかに揺れる。
制服姿の少女が、そこにいた。
その姿はまるで、世界から切り離されたようだった。
誰にも気づかれないまま、たったひとりで、そこに立っていた。
「……もう、いいでしょ。誰にも、必要とされてないの」
少女の声は、あまりに静かだった。
その言葉に、俺は思わず足を止めた。
息をのむ。
心がざわついた。
誰にも、必要とされてない……か。
イロハは、ゆっくりと歩み寄る。
「本当に、誰にも?」
少女の肩が、小さく震える。
「……うそじゃない。誰も……助けられなかった んだ……だってあの時みんな……わたしのせいで……」
その言葉に応えるように、影が伸びる。
黒く、ぬめりを帯びたその影――虚霊が、背後にいた。
それは優しくて、少女の肩に手を伸ばしていた。
まるで「分かってるよ」とでも言いたげに。
絶望の中で求められた手が、それだった。
その虚霊こそが、彼女の「たった一人の理解者」になりかけていた。
俺は思わず声をかけてしまった。
「わかるよ……その気持ち。」
でも、少女は、俺を怒鳴った。
「うるさいな!!わたしの気持ちなんて理解もできないくせに!」
……はぁ……。
お前だって、俺のこと、よく知らないくせに。
イロハは、少女の隣に立ち、そっと言葉を紡ぐ。
「……あなたは、ずっと、誰かが気づいてくれるのを待っていた。違いますか?」
少女の瞳が、かすかに揺れた。
ほんの一瞬の迷い――それだけで、虚霊は動いた。
彼女を完全に飲み込もうと、口を開く。
イロハは、剣を抜いた。
無駄のない動き。
ただ一閃で、虚霊と少女を繋いでいた因果を断ち切った。
虚霊は霧となって消え、少女はその場に崩れ落ちるようにして、膝をついた。
そして、ふと、笑った。
かすかな笑みだった。
「……ほんとは……ほんとは、誰かに……気づいてほしかった……」
涙が、頬を伝う。
誰にも届かなかった声が、ようやく届いた。
そんな顔だった。
イロハは、その涙に何も言わず、ただ隣で佇んでいた。
静かに、寄り添うように。
――それは、「生きている」という願いが、最後に生まれる瞬間だったのかもしれない。
虚霊を祓ったあと、しばらく俺たちは無言だった。
歩道橋の上に、冷たい風が吹いている。
さっきまで虚霊に囚われていた少女は、すでに姿を消していた。
彼女の涙だけが、地面に残っていた。
イロハは剣を静かに鞘に収めて、月を見上げていた。
俺は、胸の奥でぐるぐる渦巻いていた疑問を、とうとう口にする。
「……君は……こんなふうに、人を“殺せる”のか?」
自分で言っておいて、どこか不器用な質問だと思った。
だけど、他に言い方が思いつかなかった。
イロハは、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと首を振った。
「私は命を終わらせているのではありません。
魂を、帰るべき場所へ還しているだけです」
優しい声だった。
でもその中には、強い意志と――なにより、痛みがあった。
俺は、胸の奥がざわつくのを感じた。
「……でも、それって……未来を奪ってるんじゃ……」
思わず、問い返していた。
イロハは、まっすぐにこちらを見た。
その瞳は、いつもより、少しだけ深かった。
そして、静かに言った。
「では、質問です。」
「……え?」
「目の前に、’’行きたいと願う者がいたとします。では、あなたはその人に対して、’’死ね’’なんてこと、言えますか?」
……は?何言ってんだ。この子。
「そんなの……言えるわけないだろ。……残酷すぎるよ」
すぐに、答えは出た。
考えるまでもなかった。
俺は誰かの願いを、そんな風に踏みつけたくなんてない。
だけど――イロハは、続ける。
「それと同じです。 死を願う者に、“生きろ”という言葉も……残酷なのです」
その瞬間、胸が締めつけられた。
俺は何も返せなかった。
言葉が、喉の奥でつかえて動かなくなった。
静寂の中、風が俺たちの間をすり抜けていく。
イロハはふと、目を伏せて、ぽつりと呟く。
「……それでも私は、“生きろ”と願うことがあります。 それが、たとえ……残酷な祈りだとしても」
その言葉に、俺は息をのんだ。
きっと、イロハ自身も迷っているんだ。
それでも歩き続けてる。
祈るように。
赦すように。
斬るように――でも、決して見捨てることはせず。
そんな彼女が俺はまだ、理解できなさそうだ。
イロハは、歩き出した。剣に、想いを込めるように。
俺もまた、歩き出した。
まだ何もかも、よく知らないままに。
第三の月夜「眠れる記憶と因果の森」へ続く。