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これまでにないほどの視線と陰口を受けながら、赤い絨毯を歩く。
歩き方、変じゃないかしら。視線はずっと、前だけを向いていていいの?
まだ夜会デビューを迎えたばかりの私は戸惑うばかりで、気づけばアベル様と共に、王室専用の座席に通されていた。
上階の、舞台中央の正面にあたるそこは空間を広くとっているのに加え、開演直前までは柵が上がっており、目隠しを担ってくれている。
やっとのことで剥がれた緊張にほうと息を吐き出すと、「茶を持ってこさせる」とアベル様。
「あ、いえ、そこまでお手を煩わせるわけには」
慌てて告げるも「遠慮するな。そのための専用席だ」とお付きの方に指示を出し、「座るといい」と座席まで導いてくれる。
「申し訳ありません、アベル様。私が未熟者なせいで、無粋な憶測を広めてしまったかもしれません……」
喧騒の中からバッチリ聞こえた、「他国の姫君か……? いや、それにしては」という誰かの呟き。
アベル様が気づいていたのかはわからないけれど、私の片手を両手で包むと、
「言ったろう。俺は、何を噂されようが構わない。それよりも、キミの心を痛めさせてしまった己が不甲斐ない。すまない。俺のエスコートが拙いばかりに……」
「いえ! アベル様のエスコートは誰が見ても完璧でございましたわ!」
「そんなことはない。そもそも、こうして誰かを連れ立つのも初めてなんだ。男のリードが上手ければ、どんな女性だって輝く。昔からよく言われていたのだが、初めて身に包まされた。……次までに、もっと学んでおこう」
次。きっとその時は私ではない、”本物の淑女”をエスコートされるのだろう。
上品で、優雅で。誰もが羨むほどに美しく、なによりも、愛のある。
(そんなお二人の並ぶ姿が見れたなら、私はその神々しさに涙を流してしまいそうで――)
って、あれ?
(……アベル様が別のご令嬢と並ぶ姿を想像しても、心が痛まないわ)
悲しさがまったくないわけではないけれど、それよりもアベル様が幸せそうにしてくださっていることが、とにかく嬉しくて。
妬ましさなど微塵もなく、ただただ祝福の気持ちが溢れてしまいそうな……。
(……おかしい)
だって私はアベル様に恋をしているのよ?
他の誰でもなく、私がアベル様の婚約者になりたいから、ルキウスと婚約破棄をしたくてたまらない……はず。
なのになぜ、アベル様が他のご令嬢と並ぶのを祝福できるのかしら。
(だって、さっきは)
ルキウスが、他のご令嬢をエスコートしているのだと考えた時は。
あんなにも重く、苦しい気持ちになっていたというのに。
「お紅茶です」
「! ありがとうございます」
差し出されたカップを受け取り、コクリ流し込む。
刹那、鼻腔に広がる柑橘系の芳醇な香り。
「これは……!」
「茶葉にベルガモットの香り移した紅茶だ。気が休まるからと、俺が好んで飲んでいるのだが……口に合わなかったか?」
「いえ、初めての体験でしたので、驚いただけにございます。本当、なんていい香り」
(アベル様が愛飲している紅茶までいただけるなんて……!)
なんて贅沢な、至福のひと時なのかしら!
嬉々としながらもう一口を含めば、たしかに緊張が解れたような気がする。
ほ、と息をついた私の表情も柔らかかったのだろう。
アベル様は「気に入ってもらえたようで、良かった」と目を細めてから、視線を前方へ投げる。
「そろそろ幕が上がる。柵が下がると、会場中の視線を受けなければならない。……平気か」
ごくり、と喉が鳴る。
緊張、恐怖。ドレスに隠れた足が震えてしまうけれど、私はもう、逃れられない。
「……はい」
カップを返して、背を正す。
仮面はきっと、私を”謎のご令嬢”にしてくれている。だから、大丈夫。
アベル様はそんな私の横顔をじっと眺めてから、左手をぎゅっと強く握ってくれた。
「キミは、俺のパートナーだ」
下ろしてくれ。
その言葉を合図に、木製の柵が下がった。
途端、静まりかえった会場から、数多の視線が飛んでくる。
(大丈夫、大丈夫)
アベル様の握ってくれている手は、どの席からも見えていないだろう。
震えてしまわないよう、口元に淑女の微笑みを貼り付けていると、音楽が響いた。
視線が剝がれる。
(よかった……始まるのね)
アベル様の体温が、どんなに心強かったことか。
客席が暗くなり、照らされるのは舞台だけ。
これならもう平気だとこっそり伝えようと、アベル様にちらりと視線を向ける。
そこには真剣な面持ちで舞台を見つめる、精悍な横顔。
(……やっぱり、かっこいい)
アベル様の婚約者になれたなら、こんな横顔も飽きるほどに見れるのかしら。
いいえ、飽きるなんてあり得ない。だって大好きなのだから。
いつだって心臓は今のように、バクバクとうるさく跳ねて仕方ないに決まっている。
(って、手を離していただかないと)
名残惜しさに蓋をしながら、そろりと手を引き抜こうと試みる。
途端、気づいたらしいアベル様に、ますます力を込められてしまった。
(どうして……?)
アベル様の目が向く。
刹那、ふっと甘く緩まる、コバルトブルーの瞳。
「!」
結局、アベル様の手は、一幕が終わるまで離されることはなかった。
再び目隠しの柵が上がると、アベル様は上機嫌に口角を上げて、
「楽しめたか?」
(まっっったく集中できませんでしたけど!!??)
本音の叫びは胸の中。
「ええ、とても」
なんとか笑顔を貼り付け答えると、アベル様は顔を背けくつくつと喉を鳴らすばり。
もう、と拗ねた気持ちになっていると、
「……アベル様。少々よろしいでしょうか」
従者のひとりがアベル様に近づき、
「歌劇場の支配人が、ご挨拶をしたいと」
「……わかった。すまない、すぐに戻る」
「はい。いってらっしゃいませ」
立ち上がり去っていく背を見送って、私はやっと息が出来た心地で胸を撫で下ろす。
左手には、まだアベル様のぬくもりが。
(アベル様はどうして、ずっと握ってくださっていたのかしら)
時折密かに飛んでくる視線に怖気づかないためにと、気を配ってくださったとか。
うん。きっと、そう。
(舞台に集中出来なかったのは残念だけれど、おかげで顔を伏せてしまうこともなかったもの)
本当に、お優しい方。
まるで魔法にかけられているかのような浮ついた心地で、私は鞄を膝に乗せ開けた。
今のうちに、仮面に歪みがないかを確認しておこうと考えたから。
けれど――。
「…………あ」
視界に飛び込んできたのは、一枚のハンカチ。
赤い薔薇の美しく咲く、ロザリーと約束を交わした、あの。
「――っ!」