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100日間のオレンジ

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100日間のオレンジ

9 - 第9話

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2026年01月18日

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朝、目が覚めたとき。

元貴は自分が「深い霧」の中に閉じ込められたのだと思った。


昨日までは辛うじて見えていた、若井のオレンジ色のジャージも、窓から差し込む冬の光も、すべてが古びた白黒映画のように色褪せていた。


​(……あぁ、本当に消えちゃったんだ)


​音のない、色のない世界。


そこにあるのは、ただ無機質な質感と、温度だけ。


元貴はベッドの中で、自分の指先を見つめた。

自分の肌の色さえ分からない。

恐怖で呼吸が浅くなる。


​その時、ガタリと椅子が動く振動が伝わった。


横を見ると、パイプ椅子で窮屈そうに眠っていた若井が、目を擦りながら起き上がるところだった。


​若井は元貴と目が合うと、いつものようにパッと顔を輝かせ、スケッチブックを手に取ろうとした。

……けれど、すぐに動きを止める。


元貴の瞳が、自分を映しているようで、どこも見ていないことに気づいたからだ。


​若井はゆっくりと手を伸ばし、元貴の頬に触れた。


元貴はその温もりに、びくりと肩を揺らす。


​「……もとき」


「……」


​若井は声を出したが、元貴には届かない。


彼はスケッチブックに文字を書こうとしたが、ふと思い直してそれを置いた。


今の元貴には、マジックの黒い文字さえ、灰色の背景に溶けて判別しづらくなっているはずだ。


​若井は元貴の手を取り、自分のマフラーに触れさせた。


昨夜、元貴に貸したあのマフラーだ。


​(あ……若井の、匂い……)


​柔軟剤の香りと、少しだけ混ざる部活の汗の匂い、そして若井固有の落ち着く体温。


色が消えた世界で、「匂い」だけが鮮明な解像度を持って元貴の脳に飛び込んできた。


​若井は元貴の掌を自分の顔に導き、鼻、頬、唇の形をなぞらせた。


『俺はここにいる』。言葉を超えたメッセージが、指先を通じて伝わってくる。


​「……若井。僕、もう君のオレンジ色が分かんないよ。……全部、灰色なんだ」


​元貴の瞳から、一筋の涙が溢れる。


若井はその涙を親指で拭うと、元貴の耳元に口を寄せた。

聞こえないと分かっていても、彼は魂を込めて囁いた。


​「見えなくてもいい。俺がお前の色になってやる」


​若井は強引に元貴に上着を着せると、車椅子を用意した。


「……若井? どこ行くの?」


若井は答えず、ただ元貴の手を握りしめ、病院の裏庭へと連れ出した。


​そこには、冬の寒空の下、凛と咲く「蝋梅(ろうばい)」の木があった。


若井は車椅子を止め、元貴を立たせると、その鼻先を花に近づけさせた。


​「……! すごく、いい匂い……」


「(これ、黄色い花なんだよ。お前の好きな、光みたいな色だ)」


​若井は元貴の手に、一輪の花を持たせた。


元貴にはその花が何色かは見えない。

けれど、その強い香りと、花びらのワックスのような不思議な感触が、脳内で「鮮やかな黄色」を再生させた。


​「……若井。僕、今……黄色が見える気がする。……不思議だね。鼻の奥で、色がしてる」


​元貴が久しぶりに、子供のように無邪気に笑った。


若井はその笑顔を見て、確信した。


目が死んでも、耳が死んでも、元貴の「心」はまだ死んでいない。


​しかし、その幸福な時間は、背後から近づく足音によって破られた。


​「……何してるの。勝手な外出は困るって言ったでしょ」


​涼ちゃんだった。その表情は、かつてないほど険しい。


「滉斗、元貴を部屋に戻して。

……主治医から話がある。病状の進行が、想定より早すぎる。

……このままだと、一週間以内に『意識障害』が始まる可能性があるって」


​若井の顔から血の気が引く。


「……意識障害って……なんだよ。元貴が、眠ったままになるってことか?」


「あるいは、……記憶の混濁。……僕たちのことを、完全に忘れるステージに入る」


​若井は元貴の手を、壊れるほど強く握りしめた。


元貴は二人の不穏な空気を感じ取ったのか、不安そうに若井の服の袖を掴んでいる。


​「……一週間? ふざけんなよ……。まだ、何もしてねえよ……。卒業式まで、まだ全然あるだろ!」


​「だから、選んで」


涼ちゃんが、冷徹なまでの瞳で若井を見据える。


「病院で静かに最期を待つか。……それとも、全部を捨てて、彼を『どこか』へ連れ去るか」

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