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「……本気なの? 滉斗」
深夜二時。病院の通用口で、涼ちゃんが冷たい霧の中に立っていた。
その横には、厚手のコートに身を包み、若井に背負われた元貴がいる。
元貴は強い睡眠導入剤の影響で、若井の背中で小さく寝息を立てていた。
「……ああ。病院の天井を見上げて終わるなんて、アイツらしくないだろ」
若井の瞳には、一切の迷いがなかった。
「元貴の薬、一週間分。
それから、緊急時の連絡先。
……全部このバッグに入れてある」
涼ちゃんは、黙って大きなスポーツバッグを若井の肩にかけた。
「……いいの? 涼ちゃん。
これ、バレたら君もタダじゃ済まないでしょ」
「僕は、元貴の『共犯者』だって言ったじゃない。……それに、君たちを止められるほど、僕は分からず屋じゃないよ」
涼ちゃんは一瞬だけ、元貴の眠る横顔に触れた。
「……行って。夜が明ける前に、できるだけ遠くへ。……あと、これ」
涼ちゃんが差し出したのは、あの日音楽室で録画していたビデオカメラだった。
「いつか、必要になる。……滉斗、元貴をよろしくね」
「……おう。ありがとな、涼架」
若井は短く答えると、暗闇の中へ走り出した。涼ちゃんは、二人の影が夜の向こう側へ消えていくのを、いつまでも、いつまでも見つめていた。
若井が向かったのは、始発の駅でも、実家でもなかった。
彼は、部活動の遠征で一度だけ使ったことのある、海沿いの古いコテージを目指した。
冬のオフシーズン、そこには誰もいない。
ガタゴトと揺れる古い軽トラック(若井が必死で兄貴から借りてきたものだ)の助手席で、元貴が目を覚ました。
「……ん、……わか……い?」
「……」
若井は左手で元貴の手を握り、ゆっくりと二回、その甲を叩いた。
『大丈夫だ』。二人の間で決めた、安心の合図。
元貴は窓の外を見た。けれど、そこには色が消えた灰色の流れる景色があるだけだ。
「……僕たち、逃げてるの?」
「(ああ。海へ行くんだ)」
若井は車を停め、スケッチブックに大きく書いた文字を元貴の目の前に出した。
元貴はそれを見て、ふっと、この数週間で一番穏やかな顔をして笑った。
「……バカだね。若井は、本当にバカだ。……サッカーの推薦、取り消されちゃうよ?」
「(そんなもん、また取り返せばいい。お前の『今』は、今しかないんだ)」
海に到着したとき、ちょうど夜が明け始めていた。
若井は元貴を車から降ろし、砂浜に座らせた。
「……若井。音がする」
「え……?」
「耳、聞こえないはずなのに。……潮の匂いと一緒に、ザーザーって、懐かしい音が頭の中で鳴ってる。……これが、海の色?」
元貴の視界に、奇跡が起きた。
灰色の世界の中に、波の飛沫だけが「白く」輝き、水平線の向こうから昇る太陽の光が、元貴の瞳に「オレンジ色」を呼び戻した。
それは、若井のオーラと同じ色だ。
元貴は隣に座る若井の顔を見た。
相変わらず、若井の顔は正確な造形としては見えない。
けれど、その隣にいる存在が、とてつもなく暖かくて、眩しい「オレンジの光」であることは痛いほど分かった。
「……若井、ありがとう。……僕、もう死んでもいいや」
「ふざけんな!」
若井は思わず声を荒らげ、元貴の肩を掴んだ。
「(死なせない。お前が俺を忘れても、俺の顔が見えなくなっても、俺がずっとお前の隣で生きててやる。……勝手に完結させるな、大森元貴!)」
若井は砂の上に、大きな文字で『 愛してる 』と書いた。
元貴はそれを指でなぞり、泣きながら笑った。
冬の海。誰にも邪魔されない、二人だけの物語が、ここから加速していく。