「そう言って頂けると光栄です」
尽は桜茶を一口飲むと、眼鏡の奥の目を細めてにっこり笑った。
それは計算され尽くされた極上のスマイルで。
いつも何か含みのありそうな不敵な笑みばかりを見せられている天莉は、見慣れない尽の表情にドキッと心臓を跳ねさせる。
お陰様で、食べようとつまみ上げていた金平糖をポロリと天板の上に落としてしまった。
慌てて拾い上げようとしたそれを尽が拾って手渡してくれたのだけれど。
ほんの一瞬触れた指先からピリッと電気が走った気がして、天莉はピクッと肩を震わせる。
偽装の関係としては大変まずいことに、天莉はこのところ尽のことを意識してしまって仕方がない――。
***
「俺が天莉さんと付き合う切っ掛けになったのは――」
尽は天莉の両親の前で〝私〟の仮面を脱ぎ捨てることに決めたらしい。
座卓を挟んだ向かい側に座る玉木夫妻を交互に見て、〝俺〟と自分のことを称して話し始めた。
夜の社内、エレベーターでたまたま天莉と乗り合わせたこと。
五年間付き合った彼氏に裏切られたばかりで憔悴し切っていた天莉が、エレベーターを降りるなり目の前で倒れたこと。
そんな彼女を捨て置けなくて介抱しているうち、徐々に距離を詰めていったことなどを淀みなく話す尽に、天莉は(徐々に、というのとは違いますけどね!?)と心の中で突っ込まずにはいられない。
だが、まぁ出会ったその日に結婚を申し込んで自宅へ連れ帰りました、だなんて真実を語るのが得策ではないことくらい天莉にだって分かる。
これはそう――、嘘も方便と言うやつだ。
まるで、酷く優秀なプレゼンを聞いているかのように、尽の説明は的確で分かりやすくて――。
さすがこの若さで常務取締役まで昇りつめただけのことはあるなと思ってしまった天莉だ。
よく分からないけれど、理路整然とした物言いや、日頃からの理詰めで天莉を追い詰めてくる論法から考えるに、尽は理系の人なのかもしれない。
(うちの会社、医療用医薬品の卸売なんかを手掛けてるんだもん。有り得なくはないよね)
天莉の勤め先では、医薬品・医療機器・医療材料・臨床検査試薬など、医療に関わる商品を数多くのメーカーから仕入れ、病院や診療所・薬局などと言った医療機関に販売・納品している。
社内にはMR(Medical Representatives)と呼ばれる医薬情報のスペシャリストもいて、自社で取り扱う医薬品の適正使用や、品質・有効性・安全性等をクライアントに説明したりしている。
そんな会社なので、総務課配属の天莉は文系だが、会社全体で見ると理系の人間の方が多いくらいだ。
現に、元カレの博視も理工学部卒だった。
(そう言えば……高嶺常務は何学部卒なんだろう?)
考えてみたら、天莉は尽のことをほとんど何も知らない。
尽は天莉のことを〝調べた〟と言っていたので、話さなくても色々知っていそうだけれど、自分は違うとハッとした。
(常務ばっかり色々知ってるのって……何だかズルくない?)
そう思ったのと同時、こんな風に客観的に二人の経緯を振り返ってみると、天莉は出会った瞬間からずっと、目の前の美丈夫に踊らされまくりだったと気が付いて。
何だか胸の奥がわけの分からない苛立ちに包まれて、モヤリと燻った。
(私だって彼を私のことでオロオロさせたりヤキモキさせたりしてみたい……)
それは無理でも、せめて自分の半分でも尽に自分を見て欲しいと思って。
だけど――。
(……利害関係がなかったら、高嶺常務は私のことなんて目にも留めてくれてなかったよね)
そんな風に考えたら、苦いものがこみ上げる。
天莉はそんな不毛な感情を押し込めるように、目の前の器から金平糖をつまみ上げると、口の中へ放り込んでギュッと噛みしめた。
ジャリッという音とともに、奥歯の上で甘い甘い砂糖菓子が砕け散って。
いつまでも舌の上に残る甘さと、ザリザリとした感触が、まるで自分の気持ちみたいだと思ってしまった天莉だ。
(きっとあの日、彼と一緒のエレベーターに乗り合わせてしまった瞬間から、私は高嶺常務に惹かれる運命だったんだ)
高身長で物凄くハンサムで、おまけにふんわりといい香りがして……。
強引で子供っぽいところもあるけれど、根本的な部分では天莉のことを尊重して優しく気遣ってくれる。
それが尽からの、偽りのフィアンセに対する最低限の心遣いだというのは分かっていても、博視にずっと蔑ろにされ続けてきた天莉には、この上なく甘美な罠だった。
(――いきなりキスして来たり……やたら男性を意識させるんだもん。好きになるなって言う方が無理だよ……)
見た目も良くて中身もいいとか……。
そんな人に特別扱いされて、恋に落ちないはずがない。
(だけど……常務はそうじゃない)
天莉は自分の容姿を過小評価している。
若い頃から紗英みたいなフワフワした可愛らしさとは無縁だったし、性格だって真面目過ぎて息苦しい、と博視から指摘され続けてきた。
(何で常務はこんな私なんかでいいと思ってくださったんだろう)
両親に自分との馴れ初めを話している尽を横目に、天莉は負のドツボにハマってしまってソワソワと落ち着かない。
そう言えば尽は、今日結婚のことも切り出すようなことを言っていた。
(私、このまま常務の隣にいてもいいのかな)
不安になって視線を落とした時だった。
隣から尽の手がスッと伸びてきて、卓上へ所在なく載せたままだった天莉の手をふんわりと包み込んだ。
「あ、あのっ……?」
両親の前なのに、と戸惑いに揺れる瞳で尽を見詰めたら、「実はキミにも話していなかったことがあるんだ」と切り出されて。
わけも分からないまま「え?」と漏らしたら、「キミはエレベーターで出会ったのが俺との初見だと思っているようだけど……俺の方は違う」と続けられた。
***
尽は天莉の二十八歳のバースデーだった二月八日の夜、社用車の中から、ハイエンドホテル前で同じ会社の社員と思しき三人の男女が何やら揉めているのを見た。
恋人同士の付き合いに別れ話なんてつきもの。
何ら珍しくもない光景だが、仕事柄社員らの人間関係は結構把握していたから。
三人のうちの二人――玉木天莉と横野博視が長いこと交際していたのは知っていた尽だ。
彼女側が三十路近いこのタイミングで、若い女――江根見紗英に乗り換える横野のことを酷い男だと思う程度には、尽は三人の事情に明るかった。
フラれた玉木にとっては、堪ったものではないだろう。
ホテル前のロータリー。
信号待ちが意外と長く、なかなか動かない運転手付きの社用車の中、隣では秘書で腐れ縁の伊藤直樹がパソコンを開いて難しい顔で何やら仕事中だ。
ゴーと言うエアコンの音がやけに大きく聞こえる車内で一人、さしてすることもない尽は、見るとはなしに玉木天莉に視線を注ぐ。
よく見れば彼女、楚々とした空気感の相当な美人だ。だが、本人にその自覚がないのだろうか?
――それこそすぐそばの江根見のように華美に飾り立てた様子がない。
見るからに一途で真面目。
純朴そうなその雰囲気に、(あの子は理不尽な悲劇に耐えられるだろうか)とふと思って。
さすがにすぐさま全てを受け入れるのは無理だろうなと判断した尽だ。
きっと、泣き崩れるか、相手の男にとりすがるか、思い切り怒るかの三択……。どれに転んでも修羅場になるだろう。
泣くでも喚くでも男に縋り付くでもなく、スッと二人に背中を向けて立ち去った。
だが、尽の見ている角度からは天莉が前を向いたままポロリとこぼした涙が、きらりと光って路上へ落ちたのがハッキリと見えた。
それでも背筋を伸ばしたまま歩き続ける彼女の凛とした姿と、その涙の儚さのギャップに、尽は一瞬で心を奪われてしまったのだ。
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