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「お久しぶりです、長官。就任おめでとうございます。お忙しいところお招きいただきありがとうございます」
5人目の吾妻勇信。
自称「ポジティブマン」が明るい笑顔で言った。
「肩書きで呼ぶのはやめてくれないか。いつものように盛一郎おじさんでいい」
ひと月前に警察長官に就任した菊田盛一郎が、恥ずかしそうにほほ笑んだ。
「たしかに変な感じですね。それでも一度くらいは長官と呼びたかったんです。おじさんの能力にふさわしい職位に就いたこと、心からお祝いします」
「ならこちらも吾妻副会長と呼ぶべきかな」
「就任式は3日後ですので、まだ副会長ではありません」
「ふたりともまた……。堅苦しいのは疲れるから、いつものようにやってよね」
菊田星花がテーブルのグラスワインを手に取った。
新宿ワシントンホテルにて久しぶりに3人は顔を合わせた。
兄勇太の死から約一ヶ月が経っていた。
勇信はいまだに水中に沈んだような感覚だったが、いつまでも立ち往生しているわけにはいかないのもわかっていた。
「ポジティブマン」は、そんな心の隙間をぬって生まれた。
自分が増殖したのを理解した直後、ポジティブマンはこう言った。
「もちろん俺だってまだ心が張り裂けそうさ! でもこのままじゃいけないだろ。ポジティブ思考で前を向いて努力するべきだ。そして俺は信じている。兄さんは絶対に生きている!」
ポジティブマンの言葉に、残る4人はため息をついた。
「もちろん俺たちの中にも、兄さんはちゃんと生きてる」
「俺が言ってるのはそういうことじゃない。兄さんは実際に生きているんだ。この世に「希望」という言葉があるかぎり、望みを捨ててはいけない。今こそ、希望を胸に抱くべき時だ」
深く長い沈黙が漂った。
ようやく兄の死を胸の奥深くに閉じ込めようとした矢先だったためだ。
「これから外出して解決すべき問題は、すべて俺に任せてくれ。何もかもがポジティブに回るよう最善を尽くすから、おまえらは家でのんびりしてればいい!」
誰もポジティブマンの言葉に反応しなかった。
一抹の不安だけが、全員の脳裏をよぎった。
「ところで、和志の容態はどうかね?」
菊田盛一郎は、勇信の父である吾妻和志の現状について聞いた。
現警察長官・菊田盛一郎は、吾妻和志の友人と呼べる数少ない人物のひとりだった。
大学時代に出会ってから築いてきた友情も、はや30数年。吾妻勇太と吾妻勇信は、幼い頃からずっと菊田盛一郎を見てきた。
「特に変わりありません。医療スタッフが24時間体制で常駐し電気治療を行っていますが、いまだ意識は戻りません」
父が植物人間となってから3年が過ぎた。
時間は人の意識を変えることを、ポジティブマンはよく知っていた。
あれほど衝撃的だった父の変わり果てた姿が、今ではまるで家具のように日常に溶け込んでいる。悲しみという感情はもちろんあるが、父が意識を取り戻すのを長い目で見ようという心境だった。
「年をとるほどに、若い頃のことをよく思い出すんだ。あの頃に戻って、もう一度和志と朝まで飲み明かしたいものだ。ボロくて安い居酒屋でな」
菊田盛一郎は焼酎を飲むようにワインを一口飲んだ。
「心配ないわ。ある日いきなり目を覚ますはずよ。あーよく眠ったぁ、とか言いながら。それとパパ、あんまり昔のことばかり考えちゃダメだよ。心の健康よくないから」
ウエストストラップ付きの白いドレスを着た菊田星花は、赤ワインを飲んだあと口まわりを丁寧に拭いた。
銀のイヤリングがキラリと光り、もともと白い肌がさらに白く輝いた。
「いつになるかはわかりませんが、父はきっと良くなります。ぼくも前向きな思考で、その日を期待して待っています」
「若いふたりが、私より正しいことを言っているな」
3人はグラスを掲げ、乾杯をした。
「それよりどうですか? 警察長官職も落ち着きましたか」
「私が答えなくても、勇信ならわかっていると思うが?」
「ぼくがですか?」
「警察庁長官だろうが、企業のトップだろうが、やることは同じだ。功績をあげた人材をしっかりと褒めてやる。それ以外にやることがあるかね?」
「それは単なる概要です。警察という特殊な組織ならではの具体的な状況を聞かせてください」
「なら、私の明日の予定を教えてやろうか」
「はい」
「午前中は山岳事故捜索救助隊を表彰し、午後にはボイスフィッシング詐欺を未然に防いだ銀行員を表彰する。そのあとは何をすると思う?」
「また別の警察署を訪問して表彰ですか?」
菊田盛一郎はワインを呷った。
「ビンゴだ」
「お忙しいですね」
「よくできた人材に対し、よくできましたと言ってやる。めちゃくちゃ忙しい」
ふたりは目を合わせて笑った。
「ねえ、会う度に仕事の話するのやめてよね? 忘れないでよ、今日お休みだってこと。体だけでなく頭もちゃんと休ませなきゃ」
菊田星花がそう言っては立ち上がりトイレに向かった。
ポジティブマンと菊田盛一郎は小言をいわれたような気分になり苦笑いを浮かべた。
「ところで勇信。娘とはうまくいってるのか」
「勇太兄さんの葬儀以来、仕事が山積みでなかなか会えませんでした。久しぶりに出社したところ、部屋が書類に埋もれていて、歩くスペースもなかったので」
「スペースがない? どうやってデスクにたどり着いたんだ?」
「……書類の海をかき分けて、どうにか着席しました」
警察長官に就任してもなお、菊田盛一郎には冗談が通じない。
「で、久しぶりに娘に会った気分は? ふたりの仲に問題がないのか、父としてはおおいに気になるところでな」
「一応は大丈夫です。肯定的な前進をしています」
「肯定的な前進ってなに?」
トイレから戻った菊田星花が席についた。
「吾妻グループにとっての前向きな未来について話してたんだ」
菊田盛一郎は太い眉をくいっと上げて笑った。
「パパ、さっき仕事の話はダメって言ったばかりでしょ。ただでさえ勇信さんの頭の中は複雑なんだから、そっとしてあげてよね」
「ああ、すまない」
日本警察のトップも、娘の前ではただの父親だった。
「ところで勇信さん、また痩せたんじゃない? まさかあのカップ麺また食べた?」
「ちゃんと普通のものを食べてるから心配ないよ」
ポジティブマンはキャプテンだった昨日までのことを思い出した。
家族と朝夕の食事を過ごす他の勇信とは異なり、キャプテンだけは食事も外出できず、部屋にこもっていなければならない。
シェフは一日16時間という急ピッチで料理修行を行っているが、まだこれといった料理は完成できていない。
そのためキャプテンが摂る主な栄養は、他の勇信が本邸から盗んでくるパンやおかずだった。そうしたキャプテンから生まれて間もないポジティブマンは、やはり他の勇信に比べてやや痩せていた。
「勇太お兄ちゃんのことでまだ大変だけど、それでもちゃんと食べてね」
「星花は、いつも前向きだな」
「前向きじゃなくて常識だよ。健康じゃなきゃ何もできないわよ」
「わかったよ。君のアドバイスに従って、今すぐ食べさせてもらうよ」
ポジティブマンは目の前のステーキを切って口に入れた。
長い間家に閉じこもっていたため、久しぶりの食事に自然と唾液が溢れ出した。
ポジティブマンと菊田星花はしばらく黙って食事を楽しんだ。
菊田盛一郎は、胃の調子があまりよくないといって、マッシュルームサラダのおつまみにワインをたしなんだ。
「おじさん。その後、兄の件でなにか進展はありましたか」
「残念だがノーだ。DNA鑑定の結果、遺体は勇太自身で間違いないしな。それと他殺である何らかの手がかりも見つかっていない」
「非公式で調査は続いているんですよね」
「ああ。事件性がないと公式発表してあるから、表立っては何もできん。ただ、あと2日ほど待ってもらえるか」
「2日?」
「世論に押される形で、再捜査に着手すると正式に発表するつもりだ。そうなれば堂々と動ける」
「盛一郎おじさん、どうかよろしくお願いします。兄がなぜあんなことになったのか、どうしても真実を知りたいのです」
勇信も独自で事件現場を捜索するための探偵を雇っている。無論その事実を菊田盛一郎には伝えていない。しかし遺体に関する重要なデータをもつ警察側が正式に動いてくれるとなると、早々に探偵を撤退させるべきだと考えた。現場でバッティングするなど絶対に避けるべきだった。
[探偵は撤退させよう]
携帯電話にキャプテンのメッセージが入った。
[オッケー]
ポジティブマンは即答した。
[長官に就任して間もないのに、批判を覚悟で公式的な立場を変えてくださるんだ。おじさんがどれだけ裏で手を打ってくれたかを考えて、しっかりと謝罪してくれよ]
「盛一郎おじさん……ご迷惑をかけてばかりで本当にすいません」
ポジティブマンは頭を下げた。
「気にするな」
すべてを理解している菊田誠一郎は、それ以上何も言わずにマッシュルームサラダを口に運んだ。