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「お久しぶりです、長官。お忙しいところ、お招きいただきありがとうございます」
5人目の吾妻勇信。
自称「ポジティブマン」が、明るい笑顔で言った。
「肩書きで呼ぶのはやめてくれないか。いつものように、盛一郎おじさんでいい」
警察庁長官の菊田が、少し照れくさそうにほほ笑んだ。
「それでも、一度くらいは長官と呼んでみたかったんです。おじさんがその職責を担っていることを、昔から知っている身として誇らしく思います」
「なら、こちらも吾妻副会長と呼ぶべきかな」
「就任式は3日後ですので、まだ副会長ではありません」
「ふたりとも、また……。堅苦しいのは疲れるから、いつもどおりにしてよね」
星花が、テーブルのワイングラスを手に取った。
新宿ワシントンホテルで、3人は久しぶりに顔を合わせた。
勇太の死から、それなりの時間は経った。それでもいまだに、水の中へ沈んでいるような感覚から抜け出せずにいた。
しかしいつまでも立ち止まっているわけにはいかないことも、頭ではわかっていた。
ポジティブマンは、そんな心の隙間を縫うように生まれた。
自分が増殖したと理解した直後、ポジティブマンはこう言った。
「もちろん、俺だってまだ心が張り裂けそうさ。でも、このままじゃいけないだろ。ポジティブ思考で前を向いて努力するべきだ。そして俺は信じている。兄さんは絶対に生きている!」
その言葉に、残る4人の勇信はため息をついた。
「もちろん、俺たちの中にも兄さんはちゃんと生きている」
「俺が言っているのは、そういうことじゃない。兄さんは実際に生きている。この世に希望という言葉があるかぎり、望みを捨ててはいけない。今こそ、希望を胸に抱くべき時だ」
深く長い沈黙が漂った。
「これから外出して解決すべき問題は、すべて俺に任せてくれ。何もかもがポジティブに回るよう最善を尽くす。おまえらは家でのんびりしていればいい!」
誰も、ポジティブマンの言葉に反応しなかった。
一抹の不安だけが、全員の脳裏をよぎった。
会食は、表面上は穏やかに進んでいた。
星花が料理に手を伸ばし、菊田がワインを口に運ぶ。
ポジティブマンも笑顔を崩さずにいたが、勇太の名が出るたびに、胸の奥がわずかに沈んだ。
菊田は、その変化を見逃さなかった。
勇太のことをいきなり聞くには、まだ早い。
そう判断したのか、少し間を置いてから別の名を出した。
「ところで、和志の容態はどうかね?」
菊田は、和志の友人と呼べる数少ない人物のひとりだった。
大学時代に出会ってから築いてきた友情は、すでに30年以上になる。勇太と勇信は、幼い頃からずっと菊田を見て育った。
「特に変わりありません。医療スタッフが24時間体制で常駐し、電気刺激治療も続けていますが、いまだ意識は戻りません」
父が植物状態になってから、3年が過ぎた。
時間は人の意識を変える。ポジティブマンは、そのことをよく知っていた。
あれほど衝撃的だった父の変わり果てた姿も、今ではまるで家具のように日常へ溶け込んでいる。
悲しみという感情はもちろんある。しかし、父が意識を取り戻す日を長い目で待とうという心境に変わっていた。
「年を取るほどに、若い頃のことをよく思い出すんだ。あの頃に戻って、もう1度和志と朝まで飲み明かしたいものだ。ボロくて安い居酒屋でな」
菊田は、焼酎を飲むようにワインを一口飲んだ。
「心配ないわ。ある日、いきなり目を覚ますはずよ。あー、よく眠ったぁ、とか言いながら。それとパパ、あんまり昔のことばかり考えちゃダメだよ。心の健康によくないから」
ウエストベルトのついた白いドレスを着た星花は、赤ワインを飲んだあと、口もとを丁寧に拭いた。
銀のイヤリングがきらりと光り、もともと白い肌がさらに白く見えた。
「いつになるかはわかりませんが、父はきっと良くなります。ぼくも前向きな気持ちで、その日を待っています」
「若いふたりが、私より正しいことを言っているな」
3人はグラスを掲げ、乾杯した。
「それより、最近は少し休まれていますか」
「私が答えなくても、勇信ならわかっていると思うが?」
「休めていない、ということですね」
「警察庁長官だろうが、企業のトップだろうが、やることは同じだ。功績をあげた人材をしっかり褒めてやる。それ以外に、やることがあるかね?」
「それは単なる概要です。警察という特殊な組織ならではの、具体的な状況を聞かせてください」
「なら、私の明日の予定を教えてやろうか」
「はい」
「午前中は山岳事故の捜索救助隊を表彰し、午後には電話詐欺を未然に防いだ銀行員を表彰する。そのあとは何をすると思う?」
「また別の警察署を訪問して表彰ですか?」
菊田はワインをあおった。
「ビンゴだ」
「お忙しいですね」
「よくできた人材に対して、よくできましたと言ってやる。非常に忙しい」
ふたりは目を合わせて笑った。
「ねえ、会うたびに仕事の話をするのやめてよね。今日、お休みなんだよ。体だけじゃなくて、頭もちゃんと休ませなきゃ」
星花はそう言って立ち上がり、トイレへ向かった。
ポジティブマンと菊田は、小言を言われたような気分になり、苦笑いを浮かべた。
「ところで勇信。娘とはうまくいっているのか」
「勇太兄さんの葬儀以来、仕事が山積みで、なかなか会えませんでした。久しぶりに出社したところ、部屋が書類で埋もれていて、歩くスペースもなかったので」
「スペースがない? どうやってデスクにたどり着いたんだ?」
「……書類の海をかき分けて、どうにか着席しました」
相変わらず菊田に、冗談は通じない。
「で、久しぶりに娘に会った気分は? ふたりの仲に問題がないのか、父としては大いに気になるところでな」
「一応は大丈夫です。肯定的な前進をしています」
「肯定的な前進って何?」
トイレから戻った星花が席についた。
「吾妻グループにとっての、前向きな未来について話していたんだ」
菊田は太い眉をくいっと上げて笑った。
「パパ、さっき仕事の話はダメって言ったばかりでしょ。ただでさえ勇信さんの頭の中は複雑なんだから、そっとしてあげてよね」
「ああ、そうだな」
日本警察のトップも、娘の前ではただの父親だった。
「ところで勇信さん、また痩せたんじゃない? まさか、あのカップ麺また食べた?」
「ちゃんと普通のものを食べているから、心配ないよ」
ポジティブマンは、キャプテンだった昨日までのことを思い出した。
家族と朝夕の食事を過ごせる他の勇信とは違い、キャプテンだけは外出できず、部屋にこもっていなければならない。
シェフは1日16時間という急ピッチで料理修行をしているが、まだまともな料理は完成させられていない。
そのためキャプテンが摂る主な栄養は、他の勇信たちが本邸から持ち帰るパンやおかずだった。
そんなキャプテンから生まれて間もないポジティブマンは、やはり他の勇信に比べてやや痩せていた。
「勇太お兄ちゃんのことでまだ大変だと思うけど、それでもちゃんと食べてね」
「星花はいつも前向きだな」
「前向きじゃなくて、常識。健康じゃなきゃ、何もできないわよ」
「わかったよ。アドバイスに従って、今すぐ食べさせてもらう」
ポジティブマンは目の前のステーキを切り、口に入れた。
長い間家に閉じこもっていたため、久しぶりの外食に自然と唾液があふれた。
ポジティブマンと星花は、しばらく黙って食事を楽しんだ。
菊田は胃の調子があまりよくないと言い、マッシュルームサラダをつまみにワインをたしなんでいた。
「おじさん。その後、兄の件で何か進展はありましたか」
「残念だが、ノーだ。DNA鑑定の結果、遺体の一部は勇太本人で間違いない。それに、他殺を示す手がかりも見つかっていない」
「非公式の調査は続いているんですよね」
「ああ。事件性はないと公式に発表してあるから、表立っては何もできん。しかし、あと2日ほど待ってもらえるか」
「2日?」
「世論に押される形で、再捜査に着手すると正式に発表するつもりだ。そうなれば堂々と動ける」
「盛一郎おじさん、どうかよろしくお願いします。兄がなぜあんなことになったのか、どうしても真実を知りたいのです」
勇信も独自に事件現場を捜索する探偵を雇っていた。
もちろん、その事実を菊田には伝えていない。
しかし遺体に関する重要なデータを持つ警察側が正式に動いてくれるなら、探偵は早々に撤退させるべきだと考えた。
現場で鉢合わせるような事態だけは、絶対に避けなければならない。
[探偵は撤退させよう]
ちょうどキャプテンからのメッセージが入った。
[オッケー]
ポジティブマンは即答した。
[国民の批判を覚悟で公式見解を変えてくれるんだ。おじさんがどれだけ裏で手を打ってくれたかを考えて、しっかり謝罪してくれ]
「盛一郎おじさん。ご迷惑をかけてばかりで、本当にすみません」
ポジティブマンは頭を下げた。
「気にするな」
すべてを理解している菊田は、それ以上何も言わず、マッシュルームサラダを口に運んだ。
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