『神さま。
わたしたちをどうして引き離したのでしょう?
交わるはずのなかった運命が交差し、引き裂かれたわたしたちの絆を呼び戻す。
……ああ。神さま。
どうか、恋に溺れるわたしたちをお許しください。
SHIONE』
ブログの文章を読み返してわたしは思う。……それにしても。
自己陶酔感半端ないなぁ。……ま、不倫が叩かれるようになったくらいの時期に書かれたものだから仕方ないか。昭和の時代は、みんな、不倫に、そんな厳しくなかった。かつて不倫は男の勲章、文化なんて言われた時代があった。
「中島さんも鷹取汐音さんに操られていたんですよね。怖」と身をすくませる前野さんは、「この珈琲、なにか入ったりしてませんよね?」
「……ぼくの淹れたハンドドリップコーヒーに文句をつけたら次の査定はC−にしてやるぞ」
カウンターの向こうでジョークを放つ才我さん。慌てたように前野さんが、そんなぁっ! と言い、一同から笑いがさざめく。
あれから一ヶ月が経過した。気持ちの落ち着いた頃に、と決めて、またみんなで集まっている。
水萌はすこし髪が伸びてまっちゃんからは卒業した感があるし。既に中島さんは退職している。
なんでも彼女、元々フェスが大好きだというのもあって、その道に進みたいのだとか。
わたしに恨みを抱いたのは。
おねえちゃん、と慕っている汐音さんの憎き義理の妹、だったから。中島さんは昔汐音さんの実家の近くに住んでいたことがあって、おねえちゃん、と親しく慕っていた。
かつ。そんな相手がまさかの、自分の勤める会社に入ってきたのだ。
……広岡課長が、わたしのことを高く評価するのも、面白くなかったのだという。退職届を出した帰りに、さばさばとした表情で、中島さんは教えてくれた。
『会社を辞めることになって。かえってすっきりしています。……変ですね。
あんなに鷹取さんのことが憎かったはずなのに。辞める、ってなったらどうでもよくなりました』
キャンプで罠に嵌めたことや、プールで足を引っ張ったことも謝ってくれた。……ある意味、中島さんも被害者なのだろう。汐音さんのことだからきっとうまく中島さんを誘導したに違いない。
「……汐音さんをなんでみんなあんな崇拝するの? ってみんな思ってるかもしれないけれど……」とわたしは才我さんが淹れてくれた珈琲のカップを手で包み、「主婦って誰でもエスケープ願望があるのよ。誰だって、……くさくさした日常から。終わりのない家事から育児から逃げ出したい、って思うことはあると思うわ。
そこを上手く汐音さんは利用したのだと思う」
わたしだってグクが相手だったら浮気するわ。
汐音さんは離婚した。子ども三人を連れて実家に戻り、義理両親はみんなをまとめて世話しているに違いない。汐音さんはまだ、夢から醒めないそうだ。あたしはカリスマなのよ、と言い張っているという。……そこまで来るともはや哀れだ。
「一件落着、といったところですが。……さて」立ち上がった前野さんがなにをするかと思えば、カウンター内にて洗い物をしている才我さんの元へとずずいと近寄り、「……どうなってんですか。あのことは」
「あのこと?」
「あーもー。じれったいなぁぁー!!」坊主頭をかき回すようにしてわめく前野さん。どうしたのだろう。朝枝はスマホを見ながらにやにやしているしまったく。「鷹取さんはもう、鷹取さんじゃなくなったんですから、遠慮なんかすることないのにぃー」
「……だって。離婚成立しても100日間は再婚出来ないって」……このふたり。
わたしの話をしているのか。
わたしは無事に、鷹取有香子を卒業して、橘《たちばな》有香子になりました。
いまは祐さんのマンションに仮住まいさせて頂いている……が、彼の言う期限が来月に迫っている……ぼちぼち物件探しもしなきゃ……。
あれから結構大変だった。
年末年始を利用して、離婚、転居、名義変更、詠史の転入手続きも進めたのだから。
五年生になったタイミングがよかったかな、と思いつつも、……詠史は無事、三学期から新しい学校に通い始め、ようやく慣れてきたところだ。
勿論前の学校でお友達もいたし……。引き離したり、環境を変えてしまったりと。詠史には辛い思いをさせてしまっている。
でも、彼はそんなことは一言も言わない。毎日楽しいよ、学校でこんなことがあったよ……と話してくれる。
正直、親子ふたりきりになってしまうと結構なロスに陥った。まぁ、するべき手続きが満載で。あと、こっちでのスーパーの場所とか歯医者や小児科の場所とか色々調べなきゃだったし。そこは、才我さんや、みどりさんご夫妻が手伝ってくれた。
みどりさんは帰国して、同じS区に住む、なので、わざわざ才我さんの会社に挨拶をしに来ていたのだ。その場面を誤解した頃がもう、懐かしい。
真由佳は服役中で山崎さんは、真由佳の息子も引き取り、三人の子育てを頑張っている。真さんとはやり直すことにしたそうだ。……ちょっと信じがたいが……。自分を殺しかけた妻と元サヤだなんて。
わたしは慰謝料を請求しなかった。
すべてが露見するのが彼らへの罰だった……と思うから。
ま、夫には養育費を請求してはいますがね。
鷹取の両親は、一度謝罪に来たは来たが、もう忘れてください、と伝えてはいる。……わたしも新しい生活があるし、もう、いやなことは全部忘れたいから……新しくこの地でやり直す、その気持ちに水を差さないで欲しいというのが本音だ。
と、わたしが振り返っている間に。いつの間にやら、エプロンを外した才我さんがわたしの前で跪いていた。
立って、と後ろから水萌に言われ椅子から立ちあがった。すると。
「……橘有香子さん。
ぼくと結婚してくださいませんか……?」
全部、分かった。みんなもう、とっくに知っていたんだな……。みどりさんご夫婦も朝枝も水萌も前野さんも詠史もみんなみんな……。
復讐に燃えていたあの頃のわたしに教えてあげたい。もう――忘れていいんだよ。
いや、違うな。とわたしは思い直した。自分の腹の底にうごめく憎悪の炎、それは、一生涯、わたしが生きている限り消え失せることはないのかもしれない。
それは、ひょっとしたら絶望? 生きている悲しみ? ――それでもわたしはこの道を選ぶ。
申し訳ないですが、わたしは、あなたたちのことを、絶対に許しません。
だからこそ――。
「はい。喜んで」
ぱかりと開かれた婚約指輪のケース。んもう。いつの間にこんな仕掛けをしていたのよわたしの指輪のサイズを教えたのだーれー?
立ちあがった才我さんには、手を包まれそっと……左手の薬指に指輪が嵌められた。
その瞬間、何事かと思った。クラッカーが一斉に鳴った。それから花びらが宙を舞う。振り返ればみんなが……祝福してくれている。
みんなみんな、ありがとう。
みどりさんもダーリンさんも。他人に過ぎないわたしのことに親身になってくれ、色々と力を貸してくれた。
水萌。あなたの力なしでこの復讐は成り立たなかったよ。
前野さん。笑いと感動をありがとう。
朝枝。インスタいつも見てるよ。双子ちゃんの子育ては大変だろうけれども、一緒に乗り切ろうね。
みんなの笑顔の花が咲く。その中心の中でわたしは、才我さんにお姫様抱っこをされて頬にキスをされる。その頃にはもう、自分が……わき役のサレ妻に過ぎなかった自分が、物語の中心へと躍り出たのを悟った。永遠に、この胸に愛を込めて、生きていく。
―完―
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