テラーノベル
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階段裏から引きずり戻されたあと、遥は一度トイレの個室でうずくまったまま、しばらく動けなかった。
──息が、できねぇ。
水をかぶったままの制服は重たく、身体の節々は痛みを越えて、熱をもっていた。
熱ではない、内出血のような痛み。
殴られた部位が、脈打つたびに跳ねた。
数十分後。屋上。
誰もいない時間を見計らって、日下部からメッセージが来た。
《屋上》
それだけ。
遥は足を引きずりながら、いつもの階段を上がった。
鍵の壊れた扉を押すと、すでに日下部がフェンスに背を預けていた。
風が強く、冷たかった。頭がくらくらする。
「……来たじゃん」
日下部は言った。
「午後、ちょっとやりすぎだったね。あれじゃ“持たない”でしょ、おまえ」
遥は答えなかった。
背中がうまく伸びず、フェンスの影でゆっくり腰を下ろした。
「何が……したいんだよ」
かすれた声で問いかけると、日下部は肩をすくめた。
「別に? ただ──ちょっと考えてただけ」
「おまえ、このまま潰れたら、何も残らないでしょ」
「潰れる前に、一回“修理”したほうがいいと思って」
「……“修理”?」
「そう。メンテナンス。人間も、使うには整備が要るでしょ」
遥の喉がつかえた。
喋らなければよかった、と思った。
この男の口から出る言葉のどれもが、決して救いのためじゃない。
「……誰のためだよ、それ」
「おまえのため? オレのため? みんなのため? ……どっちでもいいよ」
日下部はゆっくりしゃがみ込んで、遥の正面に視線を合わせた。
その目は笑っていなかったが、冷たく光っていた。
「家に来い。今日から──一週間」
遥は顔を上げる。理解が追いつかない。
「は……?」
「一週間、オレんとこ泊まれって言ってんの。いま動けないんだろ? その状態でここ通って、また同じスケジュール、続けられる?」
「だったら、仮に“飼う”としても、回復させなきゃ意味ない」
「オレは、潰れた犬には興味ないんだよ」
遥の胸の奥で、音もなく何かが崩れた。
日下部は立ち上がって言った。
「逃げ場所を作ってやる、なんてつもりはねぇ」
「ただ、死なれたら面倒だし、興が冷める」
「……一週間。それ以上は面倒だから。必要ないし」
言い終わると、ポケットからキーケースを取り出して放った。
小さく転がって、遥の前で止まる。
「……選べよ。潰れて寝てろ。か、少し休んでまた続けるか」
「どっちでも、おまえ次第」
そして、日下部はそのまま屋上を出ていった。
風が止むと、まるで周囲の音が全部消えたように静かになった。
遥はしばらく動けず、ただ冷たい金属の鍵を見つめた。
──これは、優しさじゃない。
──どこまでも、別の種類の命令だった。
でも、自分の足でまた“明日”に戻るためには、
一度どこかで、身体を捨てなきゃならない気がしていた。
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