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第1算話 力のあるそろばん
坂の途中にあるその店は、遠くからだと駄菓子より先に、時間を売っているように見えた。
角を折れた先で、道は少しだけ急になる。
上から来る風は校舎のにおいを連れていて、下から来る風は商店街の揚げ油の名残を持っていた。
そのちょうど真ん中で、木の看板は毎日同じ角度に揺れている。
ローリエは坂を上がりながら、かばんの中でそろばんの枠が教科書の角に当たるのを感じていた。
今日の部活は短かった。
古い機械の移し替えは、思ったよりうまくいった。
電源を入れるたびに少し遅れて動く画面へ、落ちてくる形を流し込み、崩れる形を昔の癖に合わせて直し、ふくらんだ風船みたいな動きを画面の中でやっと跳ねさせた。
そこまではよかった。
そのあと、顧問が笑いながら言った。
そこまで直せるなら、人の性格も組み替えられるかもな。
言われた瞬間、部員たちが笑って、ローリエも笑った。
けれど、心のどこかに小さく残った。
組めるものと、組めないものがある。
そういうことを考えながら坂を上がる時、甘いものがほしくなる。
ただそれだけのことで、ローリエは店の引き戸に手をかけた。
戸は軽く鳴って、店の中の空気が少しだけ動いた。
甘い粉のにおい。
しょうゆせんべいの乾いたにおい。
紙の箱と、古い木の棚と、缶のふたの鉄っぽい気配。
それから、音がひとつも急いでいない。
店は小さい。
けれど狭くはなかった。
積まれた箱の並びがきれいで、吊るされた菓子の袋も、色の散らばり方に変な乱れがない。
誰かが毎日、見えない定規で整えているみたいだった。
レジの横には、丸いカンカンがいくつも並んでいた。
中にはビー玉。
別の缶にはおはじき。
水色、緑、茶色、紫、透けたもの、濁ったもの、欠けの見えるもの。
昼の光を受けるたび、底の方で小さく鈍いきらめきが回る。
ローリエは一歩入ってから、少しだけ首をかしげた。
ビー玉の置き方が、遊び道具の置き方ではなかった。
数をそろえているというより、偏りを避けている置き方だった。
同じ色を集めない。
似た大きさを近づけすぎない。
取り出しやすいのに、崩れにくい。
わざと、なのだろうか。
「いらっしゃい」
声はレジの奥からした。
おばあちゃんがいた。
割烹着の胸元で手を拭きながら、でも目だけはもうローリエのかばんのふくらみまで見ていた。
「今日はラムネかい」
「まだ決めてないです」
「決めてから来る子と、来てから決める子がいるからねえ」
ローリエは小さく笑って、吊るされた菓子を見上げた。
いくつか手に取って、戻して、また別の棚へ目をやる。
静かだった。
けれど、店の静けさは眠い静けさではない。
なにかが起きても、このくらいの温度で受け止める、そんな静けさだった。
レジの横の古いそろばんが目に入った。
木の色は深くなっていて、枠の端は手でなぞられ続けたみたいになめらかだった。
授業で使うものより大きく見えるわけでもない。
でも、妙に視線が留まる。
「そろばん、使うんですか」
「使うよ」
おばあちゃんはそれだけ言って、棚の下から新しい棒きなこを出した。
「会計にも?」
「会計にも」
「速そうですね」
「遅いと夕方が詰まるからねえ」
その時だった。
戸が、さっきとは違う鳴り方をした。
開け方に遠慮がない。
入ってくる空気も、外から押しこまれたみたいに急だった。
ローリエが振り向くと、男がいた。
灰色の上着。
裾の片側だけ長く、肩が先に店へ入ってくるような立ち方。
店の配置を見る目ではなく、取れるものを測る目だった。
チョウ、という名をローリエはこの時まだ知らない。
男は店内を見回した。
菓子を見るふりをして、すぐにレジ横のカンカンへ目を落とした。
その視線の止まり方が短すぎて、逆にそこしか見ていないことが分かった。
ローリエはなんとなく、棒きなこを持つ手を下ろした。
男は棚の前をゆっくり動いた。
足音を消そうとしているわけでもないのに、歩幅だけ妙に小さい。
おばあちゃんは顔を上げなかった。
紙袋を一枚取り、口を軽く広げる。
指の先だけが静かに動いていた。
男の手が、カンカンへ伸びた。
ふたを開ける音は、意外なくらい小さかった。
一粒、二粒ではない。
ごっそりと掴むつもりの手だった。
その瞬間だった。
「あんたあなにしとるんじゃ」
店の空気が、そこで折れた。
声は大きくない。
むしろ低く抑えられていた。
なのに、天井の板まで一緒に発したみたいに響いた。
同時に、パチン、と珠のはじかれる音がした。
ひとつ。
なのに、店の中ではそれがひとつで終わらなかった。
見えないところを何本も駆けるように、乾いた音の余韻が走った。
古い木の棚が鳴り、吊るし菓子の袋が一斉に揺れ、カンカンの中のビー玉がふるえた。
轟音だった。
雷に似ていた。
けれど空からではなく、もっと近く、もっと狭い場所から来た。
店の床の下で、坂そのものが短く吠えたみたいだった。
チョウの肩が跳ねた。
掴みかけた手が止まり、遅れて顔が歪む。
次の瞬間には後ろへもつれ、棚にぶつかる手前で膝を落とした。
ローリエも息を止めていた。
耳の奥が熱い。
目の前の空気が一瞬だけ固くなり、それが割れて戻った気がした。
チョウは床に手をつき、首を振った。
耳鳴りでもしているのか、片目だけ閉じ、口元をひきつらせている。
レジの向こうで、おばあちゃんがそろばんを持っていた。
ただ、持っているだけなのに、さっきまでと違った。
小さく見えた手が、急に小さく見えない。
枠の角度も、珠の並びも、全部がぴたりと収まりすぎていて、見ている方の呼吸が先に乱れる。
おばあちゃんは一歩も出ていない。
でも、店の中で一番高い場所に立っているように見えた。
チョウが顔を上げた。
その目が、おばあちゃんの手元のそろばんを見た瞬間だった。
男の顔から、さっきまでの軽さが消えた。
頬の筋がひきつり、喉が鳴る。
立とうとして、うまく足に力が入らない。
それでも半ば這うように立ち上がると、掴みそこねたビー玉を床にいくつか散らしたまま、戸口へよろけた。
おばあちゃんは追わなかった。
「二度とすんな」
その一言だけが、逃げようとする背中へ真っ直ぐ届いた。
チョウは戸に肩をぶつけ、外へ消えた。
坂を踏み外しかけた足音が、すぐ下へ落ちていく。
店はまた静かになった。
いや、静かになったというより、静かさの形が戻った。
ローリエはしばらく動けなかった。
棒きなこを持つ指先だけが、少し遅れて震えた。
床に散ったビー玉が、レジの下で転がっていた。
ひとつがゆっくり止まり、もうひとつがその横へ寄る。
まるで何事もなかったみたいに。
おばあちゃんがしゃがんだ。
その動作もまた、変に速くない。
なのに無駄がなく、ひとつ拾うたび、次に手が行く場所が決まっている。
ビー玉は指先で軽く鳴り、カンカンの底へ戻る。
ローリエはやっと声を出した。
「さっき、何を」
おばあちゃんは最後の一粒を拾い、缶のふたを閉めた。
「そろばん」
「え?」
「力のあるそろばんじゃよ」
その言い方が、ふざけていなかった。
古い話を大事に残す言い方でもない。
さっき水を沸かしたとか、戸を閉めたとか、そのくらい普通の調子だった。
ローリエはレジの上のそろばんを見た。
「力って……今の、音?」
「音もじゃな」
「でも、あれ、棚まで……」
「揺れたねえ」
おばあちゃんはレジの横のカンカンをひとつ引き寄せた。
中には水色のビー玉がいくつか入っている。
ふたを開ける。
ひとつ摘む。
光に透かすでもなく、ころりと掌で転がした。
「これが、もと」
「ビー玉が?」
「おはじきでもいいよ」
隣の缶を開ける。
今度は薄い茶色のおはじきが重なっていた。
「入れものはなんでもええわけじゃない。けど、こういう丸いもん、平たいもんは、入りやすい」
「入る……?」
「そろばんにさ」
ローリエは少し身を乗り出した。
おばあちゃんは、そろばんを持ち上げた。
古い枠の木目が、手の中で少しだけ深く見えた。
「位を決める。どこから動かすかを決める。珠を入れる。止める。そこではじめて、ただの玉じゃなくなる」
「止める」
「通り過ぎたらだめ。浅くてもだめ。ちゃんと、そこ、ってとこで止まらんといかん」
おばあちゃんは上段を指した。
「上は上から」
次に下段を指した。
「下は下から」
ローリエの目の前で、ビー玉が一粒、おばあちゃんの指に挟まれた。
それが上からすべるように降り、ある位置でぴたりと止まる。
音がした。
小さな、乾いた音。
たったそれだけだったのに、ビー玉の見え方が変わった。
さっきまでただ光っていた丸いものが、今は何かの途中にいる珠に見えた。
おばあちゃんは外した。
次におはじきを手に取った。
下から押し上げるようにして、既存の珠と合う位置へ持っていく。
重なった瞬間で、指が止まる。
そこで、平たいものが妙に自然に収まった。
ローリエは息をのんだ。
「入った……」
「入れたんよ」
「見た目、変わらないのに」
「変わらんようで、変わっとる」
おばあちゃんはそろばんを寝かせた。
「珠には癖がある。そろばんにも癖がある。入れ方にも、弾き方にも癖がある。ようするに、人が出る」
レジの上の光が、珠の列を短く照らした。
ローリエは自分のかばんを開け、学校で使っているそろばんを少しだけ見せた。
「これでも……できますか」
おばあちゃんの目が、そろばんの枠と珠と、手の当たり方まで一度に見た。
「できるよ。できるけど、その子が何をしやすいかは別じゃ」
その子、とおばあちゃんは言った。
ローリエは少しだけその言い方に引っかかったが、なにも返せなかった。
「やってみるかい」
「いいんですか」
「見ただけで帰るよりはね」
ローリエはうなずいた。
おばあちゃんは小さな木箱をレジの奥から出した。
中には、数の少ないビー玉とおはじきが並んでいた。
売り物の缶に入っていたものより、どれも少しだけ静かに見える。
「好きなのを選び」
ローリエはしばらく迷った。
最初に目についたのは緑のビー玉だった。
次に、水色。
それから、茶色のおはじき。
どれも違って見える。
色だけではない。
手に乗せた時の重さでもない。
たぶん、止まり方の予感みたいなものが、少しずつ違った。
「どうして、違うって分かるんですか」
「長く見とるとね。向こうが先に顔を出す」
言われてもよく分からない。
でも、ローリエは選んだ。
緑のビー玉。
茶色のおはじき。
透けた水色の小さな玉。
おばあちゃんはうなずいた。
「まず、位を決め」
ローリエはそろばんを手に取った。
学校で持つ時とは重さが違う気がした。
同じはずなのに、指が先に意識する。
「最上位から右へ。上流から下流みたいなもんじゃ」
「左から組む……」
「そう。左ほど骨。右ほど皮膚」
その言い方は、少しだけ妙だった。
でも妙に分かった。
ローリエは下段へおはじきを入れようとして、少し戸惑った。
普段の珠とは違う。
押し上げる。
既存の珠へ近づける。
そこで、止める。
止める。
頭では分かる。
でも指先では少し遠い。
一度、浅く止まった。
おばあちゃんはなにも言わなかった。
ローリエは息を整え、もう一度触る。
今度は、ぴたりと入った。
それだけで、胸の奥が少し熱くなった。
「そこ」
おばあちゃんが言う。
「そこが入る場所」
次に上段へビー玉を入れる。
上から滑らせる。
速すぎると通りすぎる。
遅すぎると意味がない。
ローリエはゆっくり動かした。
途中で、違うと分かった。
止める場所の少し手前から、指の腹に反発みたいなものが出る。
そこを越えると、入らない。
やり直す。
もう少しだけ速く。
もう少しだけ浅くなく。
そこで、止める。
入った。
パチ、と小さな音がした。
さっきおばあちゃんがやった時より、ずっと弱い。
でも、たしかに何かが変わった。
そろばんの枠の中で、珠がただ並んでいるだけではなくなった。
順番が生まれた。
流れが生まれた。
まだ細いが、確かに一本、通る線がある。
「弾いてごらん」
ローリエは一瞬、息を止めた。
「今ので、なにが起きますか」
「起きるもんが出る」
「それ、説明……」
「見た方が早い」
ローリエは指を構えた。
珠に触れる。
普段の計算の時と同じ角度。
けれど、少しだけ違う。
学校では答えへ向けて弾く。
今は、向こうへ出すために弾く。
パチ。
音は乾いていた。
レジの横に置かれた紙袋が、ふっと揺れた。
風にも見えた。
でも風だけではない。
紙袋の口が一度ふくらみ、すぐにしぼむ。
その後ろにあった細い紙札が、遅れて棚から落ちた。
ローリエは目を見開いた。
「今の」
「弱いけどね」
「動いた」
「そりゃ動くさ。入れたからね」
おばあちゃんは笑わなかった。
でも、少しだけ目尻の線がやわらいだ。
ローリエはもう一度そろばんを見る。
珠の位置。
位の流れ。
右へ寄るほど、結果に近づく。
それは、どこか見覚えがあった。
古い機械に遊びを移す時、処理の順番を決める。
どこで読み、どこで返し、どこで崩すか。
順番が違うだけで、同じ形でも動きは変わる。
このそろばんも、似ている。
違うのは、画面の中ではなく、目の前で袋が揺れるところだった。
「これ、組んでるんですね」
「うん?」
「位で順番を決めて、珠で命令を入れて、弾いて進める。なんていうか……」
ローリエはうまく言葉を探した。
店の奥で時計が小さく鳴る。
「プログラムみたいだ」
おばあちゃんは少しだけ黙った。
それから、そろばんをローリエの前に戻した。
「いい呼び方じゃね」
それだけ言った。
ローリエはもう一度、今度は少し違う位置に珠を入れた。
緑の玉と、水色の玉。
おはじきは下段へ。
上段の玉は少し右へ。
構造を変える。
弾く。
今度はレジ横の紙の札ではなく、吊るされた小さな菓子袋がひとつ、横へ揺れた。
ほんの少しだけ。
でも、ただ当てた揺れ方ではない。
途中で押されたように動いた。
「すごい……」
言ってから、少し恥ずかしかった。
けれど、本当にすごかった。
おばあちゃんは缶のふたを閉めた。
「すごいのは、あたしじゃないよ」
「でも、さっきのあれは」
「長くやっとるだけ」
ローリエは、さっきの轟音を思い出した。
棚も床も空気も一緒に鳴った、あの一手。
今、自分がやった揺れとはまるで違う。
違うのは力だけではない。
迷いのなさが違う。
「……強いですね」
「年のぶん、手が短くなっただけさ」
意味が分からなくて、ローリエは少しだけ笑った。
会計の時、おばあちゃんは缶からいくつか珠を取り分け、小さな紙袋へ入れた。
その動きにも無駄がない。
最後に、ラムネと棒きなこと一緒にレジへ並べる。
「これ、いくらですか」
おばあちゃんはそろばんを手前へ引き、珠を弾いた。
パチ、パチ、パチ。
今度の音はさっきみたいな轟音ではなく、日暮れに似合う速さの音だった。
でも、それでも十分すごい。
指が迷わない。
数字を見ているというより、数字の通り道をなぞっている。
「これだけ」
言われた金額に、ローリエは少しだけ目を丸くした。
「え、ちょっと高くないですか」
「安いもんに命を預ける気かい」
ぐうの音も出なかった。
ローリエは財布から小銭を出した。
渡しながら、ちょっとだけ考える。
菓子だけ買うつもりだったのに、今日は珠の方が主役になってしまった。
おばあちゃんは紙袋を渡した。
菓子のやわらかい重みと、珠の固い重みが一緒に手へ落ちる。
「教師代も入っとると思いな」
やっぱりそうなんだ、と思ってしまい、ローリエはまた少し笑った。
「ありがとうございました」
「坂、気ぃつけて降りな」
戸を開けると、外の光が少し傾いていた。
午後の色が、店の木枠に長く乗る。
坂道の先には、人の話し声と、自転車のブレーキの短い悲鳴が混ざっている。
ローリエは二歩ほど歩いてから、紙袋の中を見た。
ラムネ。
棒きなこ。
それから、包まれた珠。
緑の玉がひとつ、紙の隙間からわずかに見えた。
さっきの揺れを思い出す。
紙袋がふくらんだ瞬間。
あれは偶然ではない。
自分の指で起こしたものだ。
坂を下りながら、ローリエはかばんの中のそろばんを気にした。
普段はただの道具だ。
計算して、答えを出す。
速さを競って、正確さを磨く。
珠は珠で、位は位だった。
でも今は違う。
位が順番になる。
珠が命令になる。
止めることが、そのまま意味になる。
それはまるで、数字の皮をかぶった別のものだった。
坂の途中で、風が吹いた。
紙袋の口が少し開く。
中の珠が小さく鳴る。
その音に、ローリエは足を止めた。
振り返る。
駄菓子屋の看板は、さっきと同じ角度で揺れていた。
店はもう、ただの店には見えなかった。
菓子のにおいと、木の棚と、静かなレジ。
その全部が、なにかを隠しているというより、最初からここにあったものを、今日やっと見せたみたいだった。
ローリエは坂を下り始めた。
紙袋の中の珠は、軽いはずなのに、少しだけ重かった。
それが値段のせいなのか、見たもののせいなのかは、まだ分からない。
ただ、指先だけが覚えていた。
上から入れる。
下から入れる。
そこで止める。
止めた瞬間、ただの玉ではなくなる。
そのことだけが、帰り道のあいだ、ずっと頭の中で静かに転がっていた。