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第2算話 坂の下で泣く子
坂を下りる風は、店を出た時より少しだけ冷たくなっていた。
紙袋の中でラムネの角が当たる。
その隣で、珠が小さく鳴る。
乾いていて、でも軽すぎない音だった。
ローリエは歩きながら、何度もその音を聞いた。
ただのビー玉なら、こんなふうに気にならない。
ただのビー玉なら、握りなおすたびに指先の温度まで拾わない。
ただのビー玉なら、店の中で袋を揺らしたあの瞬間が、頭の奥に何度も戻ってきたりしない。
坂は途中で少し折れて、先の見えない角を作っている。
その向こうから、子どもの泣き声が届いた。
最初は風のこすれかと思った。
次に、猫でも挟まったのかと思った。
でも違った。
声は短く切れながら、何度も同じ場所へ戻っていた。
喉でつかえた水みたいに、うまく流れない泣き方だった。
ローリエは足を止めた。
坂の途中の石段の横、古い塀の影に、ふたりの子どもがしゃがんでいた。
ひとりは短い髪を耳へかけ、鼻の下を手の甲で乱暴にこすっている。
もうひとりは結び目のゆるい髪を肩へ落としたまま、膝を抱えていた。
足元には、丸く並べたはずの跡だけが残っている。
土の上に、小さな円。
遊びの途中で誰かが急に立ち去った時の、半端な形だった。
「どうしたの」
声をかけると、短い髪の子が先に顔を上げた。
泣いて赤くなった目の中に、まだ悔しさの方が残っている。
「とられた」
「なにを」
「ビー玉」
横の子がしゃくりあげながら言った。
「おはじきも……」
ローリエの手の中で、紙袋が少し鳴った。
「誰に」
ふたりは顔を見合わせ、次に同じ方向を向いた。
坂のもっと下。
人通りの多い方ではなく、古い倉庫と用水路のある方だった。
「へんな人」
「さっき、ここに来て」
「見せろって言って」
「そのまま持ってった」
言葉が途切れ途切れに重なる。
その隙間に、店で見た灰色の上着が入り込んだ。
ローリエは塀にもたれかけた自転車をちらりと見た。
風でわずかに動いた荷台の紐が、ぴし、と鳴る。
「その人、髪が跳ねてた?」
子どもたちがうなずく。
「上着、ちょっと変だった?」
もう一度、うなずく。
短い髪の子が、袖口で目をぬぐった。
「お兄ちゃん、知ってるの」
ローリエはすぐに答えなかった。
知っている。
でも、知っていると言うには、さっきの店で見ただけだ。
名前もまだ知らない。
ただ、あの手が掴むための手で、止めるための手じゃないことだけは覚えている。
「見た」
それだけ言った。
結び目のゆるい髪の子が、ぎゅっと膝を抱えた。
「返してもらえるかな」
その聞き方に、ローリエは少しだけ困った。
返してもらえる、とは言えなかった。
言いたくないからじゃない。
言ってしまうと、自分の中で勝手に約束みたいになるからだ。
でも、放っておく気もしなかった。
紙袋の中の珠が、また小さく鳴った。
まるで、中から軽く叩いてくるみたいだった。
「探してみる」
短い髪の子が、ぱっと顔を上げる。
「ほんと?」
「見つけたら、声かける」
「お兄ちゃん、強いの」
強い、と言われて、ローリエは返事に詰まった。
そろばん教室では一位だ。
速さも正確さも、今のところ負けたことは少ない。
部活でも、古い機械に無理をさせることは得意だった。
合わないものを合わせること。
動かないものを動く方へ寄せていくこと。
順番を整えること。
でも、さっき駄菓子屋で見た一手と比べたら、自分の手はまだ乾いた紙みたいに薄い。
「まだ、そんなに」
口にしてから、少しだけ言い方が情けなく思えた。
それでも短い髪の子は、期待を捨てなかった。
「でも、知ってるんでしょ」
知っている。
少なくとも、何も知らない十分前の自分よりは。
ローリエはうなずいた。
「少しだけ」
結び目のゆるい髪の子が、鼻をすすった。
「ビー玉、みずいろのやつ」
「わたしのおはじき、茶色のふちのやつ」
その言い方で、ローリエはふたりが持っていたものを頭の中に置いてみた。
水色。茶色のふち。
数は多くないかもしれない。
でも本人にとっては、たぶん数の問題ではない。
「それ、だいじだった?」
聞いた直後、当たり前のことを聞いた気がして、少しだけ後悔した。
けれど、短い髪の子はすぐに言った。
「勝ってたから」
「え?」
「さっきまで、これから勝つとこだったから」
横の子も小さくうなずく。
「いい音するやつだったのに」
いい音。
その言い方に、ローリエは目を細めた。
子どもはちゃんと分かっている。
重さとか、色とか、値段とかじゃなくて、自分の手で触れた時の、あの違いを。
「分かった」
ローリエは紙袋を持ち直した。
珠の重みが、さっきより少しだけはっきりした。
「探してくる」
「下のほう?」
「たぶん」
短い髪の子が立ち上がりかけて、でもすぐに座り直した。
追いかけたいのに、怖さが先に足を縛っている顔だった。
「ここにいて」
ローリエはそう言って、坂を下りた。
走るほどではない。
でも歩くよりは速い。
そんな速さで。
途中、紙袋を開けた。
中の珠を確かめる。
緑のビー玉、透けた水色、小さな茶色のおはじき。
店で選んだものが、夕方の光の中で別の顔をしていた。
さっき、おばあちゃんは言っていた。
位を決める。
珠を入れる。
止める。
そこで、ただの玉じゃなくなる。
ローリエは袋を閉じた。
まだ使うかどうかも分からないのに、指先が先にその手順をなぞっている。
上から。
下から。
そこで止める。
坂の町は、上から見ると素直だが、中へ入ると急に曲がる。
まっすぐ伸びた道は長くなく、途中で階段、塀、用水路、物干し台、古い蔵の影が割りこんでくる。
人が多い場所から少ない場所へ入るには、一本だけでは足りない。
ローリエは頭の中で道を並べた。
最上位。
右へ。
処理順。
考えた瞬間、自分で少し苦笑した。
なんでもそろばんみたいに並べるのはよくない。
でも、その方が見失わない。
チョウが逃げた時、店から出て坂を下へ向かった。
足音は乱れていたが、上へ逃げるより下へ落ちる方が楽だ。
ただ、人通りの真ん中へは行きにくい。
店で脳を揺らされた直後なら、騒がしい場所はきつい。
日陰がある方。立ち止まれる方。
座り込める方。
そうすると、用水路の曲がりか、倉庫の裏手になる。
ローリエは道の左側へ寄った。
左の細い道は倉庫につながる。
右は八百屋の前を通る。
もし自分が今のチョウなら、右は選ばない。
目立つからだ。
足が自然に左へ向いた。
坂の脇の細道は、幅が急に狭くなる。
塀の上から洗濯物が見え、その下を風だけが先に通る。
石の割れ目に草が生えていて、そこへ誰かが落としたラムネ玉みたいな水滴が残っていた。
ローリエは歩きながら、さっきの店で見たチョウの動きを思い返した。
棚の見方。
カンカンへの手の伸ばし方。
掴むと決めた後の迷いのなさ。
つまり、欲しいものが決まると速い。
だとしたら、子どもから奪う時も、色か形か、何かしら見ているはずだ。
ただの嫌がらせなら適当でいい。
でも、あの目は選んでいた。
戦闘属性珠になるもの。
その言葉が、やっと今になって別の重さを持った。
店の中では不思議だった。
今は、急に町のあちこちへ染み出してくる。
子どもの遊び道具。
レジ横の缶。
掌で転がる丸いもの。
平たく光るもの。
どこにでもある。
だからこそ、知らないままだと取られてしまう。
ローリエは用水路の音を聞いた。
水は少ない。
石に当たるたび、細い舌で道を舐めるみたいな音がする。
細道を抜けると、倉庫の壁が見えた。
茶色い板に古い釘のあと。
その横に、自転車が一台。
荷台にひもがたれ、かごの底に紙くずが溜まっている。
人影はない。
ローリエは一度立ち止まった。
外したかもしれない。
でも、足を止めた瞬間、奥から子どもの笑い声がした。
甲高く、軽い声。
泣いていたふたりとは違う。
遊びの途中でふいに大きくなった笑い声だった。
ローリエは倉庫の角へ寄る。
板の影から先をのぞく。
向こうには小さな空き地があった。
半分は土、半分はひびの入った古い舗装。
端に用水路の柵があり、その向こうへ低い草が寝ている。
子どもが三人いた。
丸みの残る輪郭の少年がひとり、しゃがんで地面へおはじきを置いている。
その向かいに、年下らしいふたりが顔を近づけていた。
輪になったおはじきは、夕方の光を受けて鈍く光っている。
茶色のふちのものもある。
透けた水色もある。
ローリエの胸が少し鳴った。
見つけた、と思うより先に、奥の塀に寄りかかる影が見えた。
チョウだった。
灰色の上着の裾が風でずれる。
片足だけ壁へ寄せ、腕をだらりと下げたまま、子どもたちの遊びを見ている。
さっき店で倒れた時より顔色は戻っている。
でも、目の下にうっすらと影が落ちていた。
まだ完全には戻っていない。
ローリエは息を浅くした。
チョウは笑っていない。
子どもたちを見ているというより、地面の上に置かれたものの動きを見ていた。
どれが手に馴染むか、どれが丸いか、どれが厚いか。
そんな見方だった。
少年が指をはじく。
おはじきがひとつ滑る。
ぶつかる。
小さな音。
その音で、チョウの目が少し細くなった。
選んでいる。
ローリエは塀の影へ体を寄せた。
まだ気づかれていない。
ここで出るべきか。
もう少し見るべきか。
頭の中で、順番が並ぶ。
一。
子どもとの距離。
二。
チョウの立ち位置。
三。
自分の手元。
四。
逃げ道。
紙袋の中に、買ったばかりの珠。
かばんの中に、自分のそろばん。
まだ戦うとも決まっていないのに、指が先に動きたがる。
右手の親指が、人さし指の腹に軽く触れた。
珠を弾く前の癖だった。
ローリエはそれに気づいて、少しだけ肩の力を抜いた。
まず、構造。
おばあちゃんはそう言っていない。
でも、そういうふうに見えた。
最初に、どこから崩れるかを見る。
目の前の空き地なら、崩れるのは子どもの輪からだ。
チョウが一歩近づけば、泣く。
一度泣けば、拾うより早く散る。
散れば、奪いやすい。
だとしたら、輪を崩させない方がいい。
ローリエは左手で紙袋を押さえ、かばんの肩ひもを外した。
音が出ないように、ゆっくりと。
そろばんの枠が中で少し触れ合う。
その時だった。
チョウが塀から背を離した。
子どもたちはまだ気づいていない。
少年がもう一度おはじきをはじこうとして、指を構える。
年下のふたりが身を乗り出す。
チョウが、ひとつ、二つ、足を進めた。
「それ、見せろよ」
声は軽かった。
でも、空き地の空気はそれで急に狭くなった。
少年の指が止まる。
おはじきに触れたまま、動かない。
「なんで」
「いいから」
チョウはしゃがみもしない。
上から覗き込むみたいな角度で、輪の中を見る。
「きれいなのあるじゃん」
年下のひとりが、慌てて水色のビー玉を手の中へ隠した。
その動きで、ローリエにはもう確信があった。
あれは、坂の途中で泣いていた子のものだ。
チョウの目もそれを追う。
「隠すなよ」
少年が立ち上がった。
まだ背は高くない。
でも、足をひらいて前へ出る。
「だめ」
「なんでだよ」
「ぼくのじゃない」
その言い方に、チョウの口元が少しだけ上がる。
「じゃあ、なおさらいいだろ」
違う。
いいわけがない。
でも、そういうふうに崩して入ってくるのか、とローリエは思った。
持ち主じゃないなら、守る理屈が弱くなる。
そのすきまに手を入れる。
粗いのに、いやらしい。
チョウが手を伸ばした。
ローリエは塀の影から一歩出た。
「それ、返せよ」
声は思ったより真っ直ぐ出た。
空き地の四人が同時に振り向く。
チョウの目が細くなる。
少年の顔に、助かったような、でもまだ逃げきれていない表情が浮かぶ。
年下のふたりは、ビー玉を握った手ごと背中へ隠した。
ローリエは坂道の方から来た風を背に受けて立っていた。
茶色の髪が少しだけ揺れ、制服の袖口に残った油の気配が自分のところまで戻ってくる。
かばんの中のそろばんが、背中で小さく位置を変えた。
チョウの視線が、そのかばんへ落ちた。
ほんの一瞬。
でも、見逃さなかった。
「へえ」
チョウが言う。
「坊ちゃん、買ってもらったのか」
ローリエは返事をしなかった。
紙袋の中で、珠がまたひとつ鳴った。
空き地の上に、まだ陽は残っている。
けれど、建物の影はもう半分まで土を食っていた。
影と陽の境目が、子どもたちの足元を横切っている。
ローリエはその線を見た。
立ち位置を測るみたいに。
順番。
構造。
処理。
さっきまで頭の中だけにあったものが、急に目の前の空き地へ重なり始める。
どこから動くか。
何を先に守るか。
どこへ入れるか。
チョウが一歩、前へ出た。
ローリエも、紙袋を握り直した。
坂の下の空気は、夕方の手前でぴたりと張っていた。
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