テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
梟谷学園高校の午後は、いつも慌ただしいチャイムの音から始まる。
三時十五分。終礼が終わった瞬間に教室を飛び出すのは、私、成井留奈の日課だ。バレーボール部のマネージャーとしての一日は、選手たちが体育館に集まる前の準備から始まるから。
(急がなきゃ……。今日は木兎さんが「ヘイヘイヘーイ!」って叫びながら、アップもそこそこにスパイク打ちたがる日だし)
手提げカバンを肩にかけ、廊下を早歩きで進む。
梟谷の廊下は、放課後の解放感に包まれた生徒たちで溢れていた。笑い声や部活に向かう足音が入り混じる中、私は人の波を縫うようにして階段を駆け下りる。
「……成井。そんなに走らなくていい。練習開始まで、まだ十分ある」
背後から、低くて落ち着いた、どこか冷ややかでさえある声が降ってきた。
その声の主を、私は耳が覚えている。
振り返ると、そこには教科書を数冊脇に抱えた赤葦京治先輩が、一点の乱れもない制服姿で立っていた。
「あ、赤葦先輩! お疲れ様です」
私は足を止め、ぺこりと頭を下げる。
赤葦先輩は二年生ながら、強豪・梟谷バレー部の正セッターを務める司令塔だ。端正な顔立ちと、常に冷静沈着な振る舞い。木兎さんの猛攻を淡々とコントロールするその姿は、一年の私から見れば、どこか遠い世界の住人のようにも思える。
「……お疲れ様。そんなに焦ってどうした。木兎さんの騒ぎ声が、校舎まで聞こえてきたか?」
「いえ、まだですけど……。つい、予感がして。早く行かないと『留奈ー! ボール!』って、体育館の端から叫ばれそうで」
私が苦笑しながら答えると、赤葦先輩は微かに眉を寄せた。それは、彼が何かを深く思考するときの癖だ。
「……あの人は放っておけばいい。騒ぐのは元気な証拠だ。それより、成井」
先輩が、一歩、音もなく距離を詰めてきた。
その瞬間、ふわりと私の鼻をくすぐったのは、柔軟剤の匂いと、少しだけ混じる清潔な石鹸の香り。
「……ボタン、掛け違えてる」
「えっ……!?」
私は反射的に自分の胸元を見下ろした。
シャツの一番上のボタンが、一つずれて留まっている。昼休み後の着替えか、それとも掃除の時間にでも慌てて直したせいだろうか。
「わ、私……恥ずかしい……! すみません、すぐ直します!」
顔がカッと沸騰したように熱くなる。慌てて指を伸ばそうとしたが、指先が震えて、小さなボタンがうまく掴めない。
「……動かないで。非効率だ」
赤葦先輩の細くて綺麗な指先が、私の視界を塞ぐように伸びてきた。
え、と思った時には、もう遅い。
先輩は私の返事も拒絶も待たずに、迷いのない動作で私の襟元に触れた。
「……っ」
心臓が、耳元で警鐘を鳴らすように跳ねる。
至近距離。
先輩の長い睫毛が、瞬きをするたびに影を落とすのが見えるほど近い。
指先が鎖骨のあたりに微かに触れるたび、そこから電気が走ったような熱が全身に広がっていく。
彼は無表情のまま、淡々とボタンを外し、正しい位置に留め直していく。
その手つきは、まるでコートの上で完璧なトスを上げる時のように、正確で、無駄がない。
「……はい、直った。……次は鏡を見てから教室を出るように。マネージャーがだらしないと、部員たちの士気に関わる」
「……あ、ありがとうございます……」
私は絞り出すような声で礼を言うのが精一杯だった。
先輩は私の動揺など一ミリも気にかけていない様子で、淡々と指を離すと、何事もなかったかのように部室の扉へと歩き出した。
彼にとっては、ただの「後輩の乱れた身だしなみを、効率重視で直した」だけの、合理的な行動に過ぎないのだろう。
けれど、触れられた襟元は、いつまでも火がついたように熱を持っていた。
「……成井、何してる。……行くよ」
「は、はい!」
赤葦先輩の少し広い背中を追いかけながら、私は必死に自分の呼吸を整える。
体育館から漏れてくるバッシュの摩擦音や、ボールが床を叩く高い音が、今は遠くの出来事のように感じられた。
この時の私はまだ知らなかった。
何事も計算通り、完璧にこなす赤葦先輩の日常が。
私という、彼にとって最も「計算外」な存在によって、少しずつ、けれど確実に狂い始めていくことを。
三時十五分。
オレンジ色の廊下で始まったこの小さな出来事が、長い長い恋のプロローグになるとは、夢にも思っていなかったのだ。