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なおちゃんにお別れを告げて、タツにいとも疎遠そえんになって。


だけどお母さんの病状の目まぐるしい変化に追われる日々の中、私にはそのことを悲しむゆとりなんて残されていなかった。


それがある意味良かったのかも知れない。



***



結局お母さんは胆管を通すための開腹手術もうまくいかなかった――。


お腹を開けてみたら思いのほか内臓という内臓がもろくなっていて……先生はどこにも触れることが出来ずに開けた傷口をただ閉じることしか出来なかったらしい。


――現状ではあと二週間、持つかどうかだと思います。


術後、主治医から告げられた言葉は、お母さんの余命があと一ヶ月もないという非情なものだった。


残された期間が半年だって一年だって……きっと伝えることが難しいだろう余命宣告。

たった二週間だと言われたそれを、私はどうしてもお母さんに伝えることが出来なかった。


伝えられなかったのはそれだけじゃない。



「手術も頑張ったし、お母さん、どんどん元気になるね」


「うん。そうだね。早く退院して、また美味しいご飯作ってもわらなきゃだもん。楽しみにしてるから」


手術の成功を信じて疑わないお母さんに、お姉ちゃんもお父さんも私も……。

誰ひとり何も出来ずにお腹を閉じただけなんて……言えるわけがなかったの。



***



「雨、すごいね」


時節はジメジメとした梅雨に入っていて、連日のようにシトシトと雨が降り続いていて。


大きく膨らんだお腹から伸びた管の隙間から、絶えず腹水が漏れ出るようになってしまったお母さんは、しょっちゅう着替えを要するようになった。



「なのちゃん、こんな天気の悪い時に洗濯物たくさん出してごめんね」


ベッド横に積み上げられた洗濯の山を抱えた私を見て、お母さんが申し訳なさそうに眉根を寄せるから。

私は「大丈夫よー。洗濯は洗濯機が勝手にやってくれるし、乾かすのだってコインランドリーに持って行ったらあっという間なんだから」とにっこり笑って見せる。


日中は普通に仕事をして、夕方就業後にお母さんのお見舞いへ。


その時に汚れた洗濯物を受け取って、綺麗にしてきたものと交換して。

面会時間ギリギリまでお母さんと一緒にいた後で家に帰って、洗濯機を回してコインランドリーへ行く。


他の家事も含めて色々こなしていたら、寝るのは毎晩深夜〇時を過ぎていた。


本当はこの大雨の中、沢山のパジャマやお母さんの傷口に当てられた腹帯を洗濯するのも……。

もっと言うと濡れた衣類を抱えてコインランドリーへおもむくのも、寝不足な身体には物凄く重労働に感じられて疲れ果てていた。


なのに――。


SOSを出しても自分はとついだ身だからと。

近所に住んでいるくせに手を貸してくれないお姉ちゃんにも、そんな姉を『姉ちゃんには小さい子供もいるんだから無理は言うてやるな』とかばうお父さんにも、イライラが募る日々。


たまにでも構わない。

重い洗濯物を病室から車まで運ぶ手伝いをしてくれるだけでも違うのに。


(誰か助けて)


そう思うけれど、みんなお母さんの病状のことでピリピリしていて……誰にもそんなことを頼める気配じゃなかったから。


私はひとり、誰にも吐き出せない鬱憤うっぷんを抱えて今にも限界を迎える寸前だった。



***



腹水をたっぷり吸った布地は、ずっしりとした重さとともに、およそ生きた生物から出たにおいとは思えない生臭い異臭を放つ。


お母さんがそれを気にしていたのを知っていたから。

私はお母さんの尊厳を守りたい一心でそんな洗濯物からの臭いが漏れないよう、細心の注意を払いながら二重に重ねたビニール袋の口をギュッと固く縛る。


「また明日来るね」


私は今にも壊れそうな心と身体にむち打って、お母さんに笑顔を向けた。


そんな私に、お母さんはどこか寂しそうな……申し訳なさそうな顔をして「なのちゃん、いつも有難うね。気を付けて帰ってね」と手を振ってくれる。


大好きなお母さんのためだと思えるから。

私はしんどくても何とか立っていられるの。



***



エレベーターに乗り込んで壁にもたれ掛かるようにして、手にした洗濯物の入った手提げ袋をグッと握り直す。


一階ロビーに着いて正面入口を見やると、篠突く雨が景色をぼんやりと霞ませていた。


またあの雨の中を、この重い荷物を持って歩き回らないといけない。


総合病院の駐車場は病院のすぐ近くにあるけれど、何せ収容台数が多い。

日によってはかなり離れた所に車を停めないといけなかったから。


傘をさした状態で、この荷物を持って歩かないといけないと思うと、自然と吐息が漏れてしまう。


エレベーターを出てヨロヨロと歩いて。


正面入口の自動ドアを抜けて、屋根越し。

ひっきりなしに大粒の雨を落とす鈍色にびいろの空を鬱々うつうつとした気持ちで見上げていたら、突然背後からグイッと荷物ごと身体を引っ張られた。


「ひゃっ」


驚いて振り返った私に、

「荷物、重いんだろ? 持ってやるよ」

懐かしい、低い声が投げかけられた――。


「タツ兄……」


私のすぐ背後に立っていたのはお母さんの手術前日、なおちゃんとのことを打ち明けたまま疎遠になっていたタツ兄で。


一ヶ月くらい音信不通だった間に退院したのかな?

タツ兄の服装がパジャマではなく私服になっていることに、時間経過を見せつけられた気がした。


突然現れたタツ兄を前に、驚いた顔をして固まってしまった私に、バツが悪そうにタツ兄の視線が一瞬だけ伏せられる。


でも、すぐに意を決したみたいに私に向き直ると、

「ずっと連絡しなくてごめん。自分なりに気持ちの整理したくてウダウダしてたら、あっという間にこんなに時間が経ってしまってた……」

言って、タツ兄が頭をガバリと下げて。


そうした瞬間、肩の荷へ添えられたままだった彼の手にグッと力がこもって、私はそちらへ引っ張られそうになってよろめいてしまう。


というのも、タツ兄はまだ松葉杖を要する身だったからだ。


「ごめん……!」


私を支えにしてしまったことを申し訳なさそうに謝るタツ兄へ、私は「大丈夫だよ」と答える。


タツ兄は少し逡巡して私の荷物から手を離すと、杖を支えにして体勢を立て直した。


「ああでもない、こうでもないと思い悩んでる内に退院なんかと重なってバタバタしちゃって……。ここを出る日、なのちゃんに連絡しようかとも思ったんだけど……意気地いくじがなくて出来なかった。……本当にごめん」


あの日、何も言えずにいたタツ兄に、『告白してくれたの、忘れてくれて大丈夫だから』と告げて立ち去った私の後ろ姿を思い出すと、どうしても勇気が出せなかったんだとタツ兄が言う。


「ホントはあの時、すぐにでも『大丈夫だよ。僕は気にしない』ってなのちゃんを引き留めるべきだったのに……。僕の中のなのちゃんは幼い頃の印象が強すぎて。不倫をしていたと告白してくれたキミと、僕の中のなのちゃんがどうしても結びつかなかった」


何年も会わずにいたのだ。

その間に自分が知らないなのちゃんが増えていることは仕方がないことじゃないかと――。

それでもその不毛な関係を自分の目の前で断ち切ってくれたなのちゃんを僕は信じるべきだったんじゃないのか?と――。


そう自分に言い聞かせ、心に折り合いを付けるのに随分時間を要してしまったのだとタツ兄が淡く微笑んだ。


「退院後もリハビリには通わなきゃいけなかったからさ。院内で偶然会えたら面と向かってちゃんと謝ろうと思ってたんだ。けど……考えてみたら病院ここって物凄く広いもんね。会おうと思って自分からなのちゃんのお母さんの病棟へ出向かない限り、会えるわけなんてなかったんだ。結局のところ、僕はまだ迷っていたんだと思う。なかなか踏ん切りが付けられない間にこんなに時間が経ってしまってた。ホントなのちゃんからしたら、今更出て来るなよって感じだろうけど……。ごめん。……僕、やっぱりどうしてもなのちゃんが諦められなかった」


電話をすることも考えたけれど、電話で伝えるのは何か違う気がして出来なかったのだと、タツ兄が申し訳なさそうに瞳を揺らせた。


タツ兄の患部にはまだ金属製のプレートが埋め込まれたままで、それを除去するのは一年後くらいになるらしい。


私自身、お母さんの手術後は目まぐるしい日々で以前みたいに院内をウロウロすることもなくなっていたから……。


だから、偶然に頼って私に会いたかったタツ兄とは、何だかんだで今まで会えず仕舞いになっていたんだろう。


それを思うと『タツ兄の意気地なし!』と思わないこともない。


だけど――。


それだけ私のことを重く捉えてくれていたということなのかな?とも思えて。


そう思い至ったら、不思議と気持ちが凪いでいくのを感じずにはいられなかった。



「タツ兄……荷物持ってやるって言ったけど……。まだ松葉杖取れてないじゃん……」


さっきだってちょっと頭を下げただけでぐらついた癖に、よくもそんなセリフが言えたものだと思ったら、何だか可笑しくなってきてしまった。


「そんな人に荷物持ちなんて任せられません」


きっと、荷物を持ってくれると言うのは、私を見かけて……どう声をかけていいか迷った末の、タツ兄なりの言い訳みたいなものだったんだろう。


「くそっ。ホント、僕は何でこんなに役立たずなんだろう」


クスクス笑いながら告げた私に、心底悔しそうにタツ兄が眉根を寄せるから、私はタツ兄に首を振って見せた。


「ううん。その気持ちだけで十分嬉しかったよ?」


ずっと誰かにこの荷物を、少しだけでもいいから肩代わりしてあげようと言って欲しかった。


実際にはそれが出来ないのだとしても。

タツ兄がそう思ってくれたことこそが――。


日々の看病ですり減った私のささくれだった心には、凄く凄く有難かったの。


――ねぇタツ兄。ホントだよ?



***



週末のお見舞いの時、タツ兄と一緒に病室を訪れたら、お母さんが大きく瞳を見開いた。


建興たつおきくん……」


長いことご無沙汰だったのだ。


突然のタツ兄の来訪に、お母さんが驚くのも無理はない。



「――タツ兄ね、ちょっと前に退院したの。それでね、色々バタバタしてて……私もずっと会えていなくて――」


不倫のことをタツ兄が知っていると言うのは、お母さんには黙っておこうと彼が言って。


私たちはあらかじめ打ち合わせていた通りの言葉をつむいだのだけれど。


退院云々うんぬんを考慮しても、明らかに不自然なほど空白の期間が空き過ぎていたことを思うと、お母さんから「でも」と言われても不思議ではなかった。


だけどお母さんは何かを察してくれたみたいに、そこに関しては何も突っ込んでは来なくてホッとする。



「えっと……また一緒にここへ来てくれるようになったってことは……二人はもしかして……」


私がなおちゃんと切れていなかったことを心配していたお母さんが、そう言って言葉をにごしたのは当然だと思えた。



「はい。その〝もしかして〟です。なのちゃんからなかなかOKがもらえなくて苦労したんですけど……先日やっと――。だから今日は僕、晴れ晴れとした気持ちでおばさんに会いに来ることが出来ました」


そんなお母さんにタツ兄がふんわり笑ってそう答えると、松葉杖をついていない方の腕で私の肩を引き寄せてくる。


私はタツ兄の大きな手のひらの温もりを肩に感じながら、照れくささにうつむいたままお母さんの「まぁ!」という嬉しそうな声を聞いた。



***



病院の正面玄関を出てすぐ。

荷物を持ってあげるとタツ兄が声を掛けてくれたあの日――。


「改めて言わせて? 戸倉とくら菜乃香なのかさん。僕はキミが好きだ。結婚を前提に僕と付き合ってもらえますか?」


そう言って不安そうに瞳を揺らせたタツ兄を見て、私は彼からの告白を今度こそちゃんと受け止めることにしたの。


なおちゃんとは別れてフリーの身。


私の汚い部分を全て知った上で……それでも私を好きだと言って再度交際を申し込んでくれたタツ兄を拒絶する理由は、もうなかったから。


「よろしくお願いします」


言って、すぐそばに立つタツ兄を見上げたら、タツ兄ってば心底ホッとした顔をしたの。


そうして感極まったみたいに私をギュウッと抱き締めてきて。


渇いた音を立てて私たちのすぐそば。

タツ兄が使っていた松葉杖が倒れたのもお構いなしに、タツ兄は私を包み込む手を緩めてくれないの。


タツ兄の大きな身体に覆われていて見えないけれど……。

雨の音に混ざってひそひそとささやき声が聞こえてきた気がした私は、慌ててタツ兄との間に腕を突っ張って距離を取った。


手にしたままの荷物が重いとか……そんなのも気にならないくらい、周りからの視線が痛い。


「た、タツ兄っ! ここっ、正面玄関っ」


総合病院というのは予約診療が主だ。


雨降りだからと言って、来訪する患者の数が減るわけじゃない。


そんな大病院のメイン入口に当たるこんなところでラブシーンなんて繰り広げているのだから、注目されてしまうのは当然なわけで。


私の言葉にタツ兄が慌ててパッと手を離して。

きっと無意識に怪我した方の足を地面についてしまったんだろう。


いてっ」


と言ってふらつくから。


私は慌てて彼を支えると、タツ兄がバランスを取り戻したのを確認して、肩の荷物を落とさないよう気を付けながら足元の松葉杖を拾い上げた。


それを手渡しながら「バカ……」とつぶやいたら、タツ兄が「ごめん、嬉しくてつい……」と申し訳なさそうに眉根を寄せるの。


彼のその顔を見て、私は真っすぐに向けられるタツ兄からの温かな好意をひしひしと感じて、胸の奥がほわりと温かくなる。


こんな風に真摯しんしに誰かから想ってもらえたのは本当に久々で。


なおちゃんからの〝好き〟は、始まった瞬間から奥さんと二股をかける旨を宣言されていたことを思い出した。


未だ未練がましく消せてもいなければ、着信拒否にも出来ていないなおちゃんの連絡先が、スマートフォンの中に残っている。


でも、別れを切り出したあの日以降なおちゃんから私に連絡が入ることはなかったから――。


なおちゃんの中で私の順位は一体まで落ちていたんだろう?とふと思ってしまった。


カバンの中に入ったままのスマートフォン。


今は荷物をどっさり持っていて取り出せないけれど……家に帰ったら今度こそ『緒川直行』という連絡先を消すことが出来る、と確信した。



***



タツ兄とのお付き合いを始めてすぐ、私はなおちゃんの連絡先をスマートフォンの中から削除した。


その際、残ったままになっていた着信履歴や発信履歴もオールリセットして……。


近所のお兄ちゃんという意味合いで『タツ兄』と登録していたの名前を、『波野なみの建興たつおき』と、彼のフルネームで登録し直した。


日を追えば追うほど着信履歴も発信履歴もお父さん、お母さんを追い上げる勢いで『波野建興』で侵食されていく。


そのことが何だか照れ臭くてたまらなく面映おもはゆいの。



結局あれっきりなおちゃんからは連絡が入ってこない。


そのことを最初のうちこそ悲しく思っていた私だったけれど、タツ兄との日々のなかで段々気にしなくなっていった。


それに――。



***



「お母さん、調子どう?」


「うん。今日もとっても元気よ。お昼過ぎにね、お父さんがアイスを買って来てくれたんだけど……お母さん、丸々一個一人で食べられちゃったの。すっごく美味しかったんだけどね、お母さん、本当はバニラアイスよりかき氷系のアイスの方が食べたかったのよ。――せっかく買って来てくれたから言えなかったんだけど」


貧血のためだろうか。

お母さんはこのところ氷をやたらとみたがる。

お医者様からは大量の氷を食べるのは胃腸に負担がかかってよくないので、一個をゆっくりゆっくり舐め溶かすように言われているのだけれど。


「味はなくてもいいの。とにかく氷をガリガリ噛みたいのよね」


そう言って吐息を落とすお母さんに、

「そっか。じゃあ明日来るときなるべく粒の大きそうな氷菓子を買ってくるね」

そう答えながら、買ってくるなら途中で食べるのをやめることが出来る、カップ入りの氷菓『コオリボックス』だな、と思った。


「……代わりというのも変な話だけど、今日は私、お花を買ってきたの。置いといてしおれたら可哀想だし、先に花瓶へ活けてくるね」


梅雨のじめじめした天候は、空だけでなく気持ちもどんよりさせがちだったから。


花を飾ったら、殺風景な病室が少しは華やぐかな?と思ったの。


タツ兄――たっくんと呼ぶ練習をしている真っ最中です――は今日、お仕事でどうしても来られないと連絡があったから。

いつも彼と合流するのに要している時間を使って、花屋さんに寄ってみたのだ。


花屋の店先に並んだバケツの中、白地に青紫色の縁取り――覆輪ピコティ――が美しい、一重咲きのトルコ桔梗を見つけた私は、何の迷いもなくそれを選んで包んでもらった。


というのも、トルコ桔梗はお母さんの大好きな花のひとつだったからだ。


お母さんがまだ元気な時、よくトルコ桔梗を買ってきては玄関先の花瓶に活けて、「綺麗でしょう? お母さん、トルコ桔梗、大好きなの」と言っていたのを覚えている。


花にはそれほど詳しくない私だったけれど、トルコ桔梗はそんな感じ。幼い頃からしょっちゅうお母さんに名前を聞かされ、実物を見せられていた花だったから、名札を見るまでもなくすぐにそれだと分かったの。


長さを適当に調整して花瓶に活けた花を持って病室へ戻ってきた私を目で追いながら、お母さんが「綺麗ね」とつぶやいて。


私は「うん、そうね」って答えながら、買ってきて良かったって思ったんだけど――。



「なのちゃん。そのお花、何て名前?」


真顔でそう問い掛けられて、私はギュウッと胸の奥をえぐられたような切なさにさいなまれた。


実はちょっと前に、お母さんが「お父さんがお見舞いに来てくれてね。先生とお母さんの手術のことについてお話をしてくれたの」と話しくれたことがある。


私はその支離滅裂な内容に頭をひねって。


余りに不可解な言動が心配で、後日主治医の先生に相談したら、「お母さんは病気の進行に伴い脳がダメージを受け始めています。今後少しずつそういうことを言う頻度が上がって来ると思います」と説明されてしまった。


その際、「認知症のような症状が出たり、今まで分かっていたものが分からなくなったり、常識では考えられないような妄想に取り憑かれたりすることがあります」とも言われていたから。



だから、今の〝大好きだった花の名前が思い出せない〟のも、その症状だとすぐに分かったのだけれど、頭で理解出来ているのと、心がそれを受け入れられるかどうかは全然別の話なんだと、嫌というほど思い知らされた。


結果、私はお母さんに何て答えたらいいのか分からなくなって――。


言葉をつむぐまでに不自然な間があいてしまった。



「……えっとね、これはトルコ桔梗って言うんだって。花屋さんが教えてくれたよ? お母さんが、買ってきてみたの」


心の中では『何言ってるの? お母さん。これ、お母さんが大好きなトルコ桔梗じゃない』。

そんな言葉がグルグルと渦巻いている。


でも、私は現実それをお母さんに突きつけることが出来なかったの。


泣きそうになるのを必死に我慢して、お母さんにくるりと背を向けて。


花瓶をベッド枕元に置かれた台――床頭台しょうとうだいの上に載せてから、触れなくてもいいのに花のバランスを整えるふりをして泣きそうな自分を懸命に誤魔化した。


お母さんはそんな私の背後から、「うん、そうね。お母さん、その青紫色のお花、綺麗で大好きよ。なのちゃん、買って来てくれて有難う」と屈託のない様子で教えてくれた。


最後まで〝トルコ桔梗〟の名前が言えなかったお母さんに、私は花を買って来たことをほんのちょっとだけ後悔して――。


そのせいかな。

無性にタツ兄に会いたい、って思った。

叶わぬ恋だと分かっていても

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