結局その日タツ兄から仕事を終えたと連絡が入ったのは、二〇時過ぎのことだった。
タツ兄から『今日は一緒にお母さんのお見舞いに行けなくてごめんね』とメッセージが入るや否や、私は我慢出来なくなって彼に電話をかけていた。
丁度携帯を手にしていたときだったからかな?
ワンコールも鳴らなかったんじゃないかしらという素早さで、『なのちゃん?』とタツ兄が電話に出てくれた。
私は穏やかな凪の海みたいな彼の声を聴いただけで泣きそうになって。
『何か……あったの?』
優しく問い掛けられたらもう駄目だった。
「そ、れでね、お母、さっ、……好きだったお、花の名、前もっ、忘、れちゃってて……」
グシュグシュと鼻を鳴らしながら今日お見舞いであったことをタツ兄に嗚咽混じりに話したら、タツ兄は時折『うん』とか『そっか』とか『それは辛かったね』とか……。
とにかくただただ私の言葉を全て肯定するような相づちを打ちながら、静かに話を聞いてくれて。
私はタツ兄に思っていたことを心のままに打ち明けるうち、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。
『――もう遅いからどうかなって思ったんだけど……ちょっとだけなのちゃんの顔、見に行ってもいい?』
話が一通り終わって間が出来たと同時。
タツ兄がそう聞いてきて。
夕方からずっとタツ兄に会いたいと思っていた私は「私も会いたい。けど――」と答えていた。
時計は電話を始めてから約二時間後の二十二時を指していた。
明日も仕事なのに。
私は時計を見ながら言わずにはいられなかった。
「……けど、折角なら二人きりでゆっくり話したい。……その、わ、私がっ、タツ兄の家に行っても……いい?」
って。
タツ兄だってきっと明日も仕事だ。
なのに彼は一瞬だけ息を呑んでから、「……なのちゃん、僕、一人暮らしだけどいいの?」って探るように問うてきて。
私は消え入りそうな声音で「……うん」って答えた。
窓の外からは、雨が路面や草木を叩く音が聞こえている。
きっとほんの少し外に出ただけでかなり濡れてしまうんだろうな。
そんなことを思いながら、私は既に眠っているお父さんにタツ兄と会ってくる旨の書き置きを残すと、彼と決めた待ち合わせ場所――タツ兄のマンション近くのコインパーキング――へと向かった。
***
「なのちゃんっ」
タツ兄に指定されたコインパーキングに行くと、レインコートに身を包んだ彼が待っていてくれた。
ザーザー降りの雨は、松葉杖をついて佇むタツ兄を容赦なく濡らしていて。
雨具に身を包んでいても身体が冷えてしまうんじゃないかと不安になってしまった。
私は車から降りると、こちらに向かって手を振ってくれているタツ兄の元へ駆け寄って、彼に傘を差し掛けた。
でも、目一杯手を伸ばして高く掲げてみても、私が持った傘の下ではタツ兄は結構身体を屈めないといけなくて。
これではお互いに、とっても歩きにくそう。
「僕、合羽着てるし大丈夫だよ。なのちゃんが濡れないようにして?」
結局タツ兄からもっともなことを言われて、私はしぶしぶ彼に差しかけていた傘を自分一人のために持ち直したのだけれど。
残念ながらすでに結構濡れてしまっていた。
駐車場からタツ兄のアパートまではほんの数メートルだったけれど、気が付けば足元とか肩の辺りがさらに雨にやられてしまっていて。
初夏に差し掛かる頃とはいえ、服が水を吸うと体温を奪われて割と寒い。
身体にピタッと張り付いて見える雨具をまとったタツ兄は大丈夫かな?って心配になった私は、部屋の前でレインコートを脱ぐのに苦戦するタツ兄を手伝わずにはいられなくて。
一生懸命タツ兄を支えながらコートを脱がせていたら、彼の服から滴り落ちる水滴でさらに濡れて内心『どうしよう』と思った。
(着替え、持ってくれば良かった)
そんなことをしたらお泊りを意識しているみたいで恥ずかしかったから敢えて持って来なかったけれど、こんなに濡れると分かっていたら、帰りの服くらい用意しておくべきだったのに。
(私のバカ……)
そんなことを思ったけれど後の祭りだった。
***
「入って?」
玄関扉を開けて私を中へいざなってくれながら、タツ兄が「こんな足なんだから大人しくここで待っておけばよかった。僕のせいで却ってなのちゃんをびしょ濡れにしちゃったみたいだ。ごめんね」と吐息を落とす。
「あ、あのっ。でも私……! ちょっとでも早くタツにぃ……た、っくん、に……会いたかったし……方向音痴で迷子になってたかもしれないから……お迎え、すごく嬉しかった……よ?」
叱られた大型犬みたいにしゅんとした様が可愛くて、私はそう言って慰めずにはいられない。
それに、告げた言葉も嘘じゃなかったから。
懸命にタツ兄呼びを改めて彼を慰めようとしたらしどろもどろになってしまった。
けれど、それが逆に良かったのかな?
不意にタツ兄にギュウッと抱き締められた。
「なのちゃん、ヤバイ。可愛すぎなんだけど」
タツ兄が私を抱き寄せた拍子、彼が手にしていた松葉杖がカランと倒れて……。
なのにそんなのお構いなしに私を抱きしめたタツ兄に、「なのちゃん。キスして……いい?」って問いかけられた。
私はうなずく代わりにそっと目を閉じてほんの少し顔を上向けて。
タツ兄の柔らかな唇がためらいがちに自分の唇に重ねられる感触を受け入れる。
ポタポタと顔を濡らすのはタツ兄の髪から滴り落ちてくる水滴かな?
雨に濡れて冷えた身体が、そんなことを意識した途端ぶわりと熱を持ったのが分かった。
***
「このままじゃ風邪。ひいちゃうね」
唇を離すと同時。
タツ兄が照れたように瞳を揺らしながらそんなことを言って。
その初々しい態度にあてられて、私も照れ隠し。うつむきながら小さくうなずいた。
「えっと……なのちゃん、着替えとかは……」
ちらりと手にしたままの荷物に視線を向けられた気配に、「ごめんなさい、こんなことになるとは思ってなくて何も……」と、小さなハンドバッグの持ち手を握りしめたら、タツ兄が、「僕の服でもいい?」とうかがうように聞いてきた。
幸いショーツまでは濡れていないと思う。
私は「貸してもらえると助かります……」って答えながらタツ兄が靴を脱ぐのを手伝って。
「あの、松葉杖は……」
地面に横倒しになったままの杖を持ち上げながら問いかけたら「家の中では使ってないんだ」と返された。
「じゃあここに立て掛けておくんでいい?」
水滴の付いた松葉杖を玄関わきの壁に寄せながらタツ兄を見上げたら、「うん、お願い」って言いながら、彼がヒョコヒョコとケンケンをしながら奥の方へ消えて行く。
私はそんなタツ兄の背中を見るとはなしに見送りながら、自分はどうしたものかと玄関先に立ち尽くして。
とりあえず服から水が滴り落ちるほど濡れてはいないけれど、ぐっしょりと水気を吸ってしまった靴下は脱がないと駄目かな?とかぼんやり考える。
(裏地が太ももにまとわりついて気持ち悪いな……)
そんなことを思いながらワンピースのスカート部分をつまんで眉根を寄せていたら、
「えっと……もしよかったら……その……シャワーとか浴びる?」
ヒョコッと奥の間から顔を覗かせたタツ兄に問い掛けられた。
このところ自分はシャワーばかりで、いま浴槽にお湯が溜まっていないんだ、と申し訳なさそうに付け加えながら、「それでも熱いお湯を浴びると違うんじゃないかと思って」とタツ兄が言うから……。
何だかそれってとっても恥ずかしいお誘いに思えてしまった私だ。
だって、なおちゃんとはお風呂と性行為は必ずセットだったから。
(タツ兄にはそんな下心ないのかな?)
なおちゃんとの数年間で、すっかりエッチが生活の一部みたいになってしまっていたはしたない私は、タツ兄相手にそんなことを思ってしまう。
「タツに……、たっくんは……入らない、の?」
身体が冷えている云々で言えば、彼もじゃないかな?って思った私だったけど、思い返してみれば、タツ兄は実際レインコートを脱ぐとそれほど服は濡れていなくて。
髪の毛だけが濡れそぼっていたのはレインコートのフードから滴り落ちた水滴がタツ兄の顔を濡らしていたからだろう。
むしろ、さっき私を抱きしめてくれた時に私の服から水気を吸ってしまったかも知れないくらい。
「僕は……平気だよ」
言われて、私は少し考えた。
靴下を脱いで小さくまとめて手に握りしめると、
「えっと……着替えとタオルを貸してもらえたら……すぐにでもそうさせてもらえたら……嬉しい、な?」
上り框にそっと湿った素足を下ろしながら、意を決してそう告げた。
***
シャワー後に身に着けていた下着をもう一度身に着けるのは少し抵抗があった。
でもこれしかないんだから仕方がない。
ブラジャーは残念ながら結構濡れていたから仕方なくタオルで包んでギューッと水気をふき取ってみた。
でも着けるのは難しそう。
湿ったブラを肌にあてたら痒くなりそうだったし、何より折角タツ兄に借りたTシャツを濡らしてしまいそうで。
(ノーブラとか、かなり抵抗がっ)
なおちゃんとの時にはどうってことないと思えていたことが、タツ兄とだと、すごく恥ずかしい……。
服も。
貸してもらったタツ兄のTシャツはかなり丈が長めで太ももの半ばまで裾が来ているとはいえ、ショーツだけの下腹部はスースーして心許ないのも気になってしまう。
「シャワー、有難う……」
髪は極力濡らさないようにしたつもりだったけれど、お風呂上りにドライヤーを借りて乾かせたのは幸いだった。
タツ兄がビニール袋を用意してくれていたので、それに濡れた下着や靴下を入れさせてもらって胸元を隠すように抱き締めてタツ兄の元へ戻った私は、恥ずかしさから明らかに挙動不審。
「あ、うん……。どう、いたしまし、て?」
私を一目見るなりタツ兄が恥ずかしそうにしどろもどろ。瞳を揺らすのが気まずさに拍車をかけるの。
着てきた長袖薄手のワンピースは、タオルで水気を吸った後、タツ兄がハンガーに掛けて部屋干ししてくれている。
あれが完全に乾くのには何時間かかるかな?って何の気なしに考えた私は、タツ兄に「今日はその……泊まって……行く?」と恐る恐る問い掛けられてトクンッと心臓が跳ねた。
「あの、でも……明日もお仕事……」
お互いにそうじゃないのかな?って思ってソワソワとタツ兄を見詰めたら「……えっと、なのちゃんは……朝、弱い?」と問い掛けられた。
私は目覚ましが鳴るよりも先に目覚めてしまうくらい朝に強い。
「弱くない、と思う、よ……?」
タツ兄のうかがうような眼差しに小首を傾げながら答えたら、「僕も弱くないんだ」と返って来て。
「え?」
真意を取り損ねた私は、思わず聞き返してしまった。
「えっと……だから……その……もしよかったら……なんだけど。ぼ、僕と……明け方まで一緒にいませんか?」
私がキョトンとしたからだろう。
タツ兄が恥ずかしそうに敬語でそんなおうかがいを立ててくるから。
私は何だか彼のことが可愛くて堪らないって思ってしまったの。
「……はい」
私はそう答えながらタツ兄の片手を取って、そっと両手で包み込んだ。
「今日ね、私、お母さんのことがあって……ずっとタツ……たっくんに会いたかったの」
そのままタツ兄を見上げたら、彼が瞳を見開いたのが分かった。
「だからね、たっくんが電話で会いに行っていい?って聞いてくれた時、すごくすごく嬉しかった……」
「なのちゃん……」
タツ兄がぎこちない仕草で、あいていた方の手で私を抱き寄せてくれて。
何でだろう。
たったそれだけのことで、心臓がトクトクと早鐘を打った。
目の前のタツ兄も緊張してくれているのかな?
耳に、頬に、タツ兄のせわしない鼓動が伝わってきて。
それが、ますます私を緊張させる。
何だか妙に気恥ずかしくなって視線を落としたら、不自然に上げられた足が目に入って、タツ兄はまだ怪我が完治していなかったんだって気が付いて。
立ったまま話しているのは辛いんじゃないかなって心配になった私は、恐る恐るタツ兄に問いかけた。
「あの……立ったままはつらくない?」
座って話そう?って続けようとしたら、タツ兄が「うち、ソファーとか置いてないから。その……骨折ってからずっと……、そ、そこのベッドに座ってテレビとか観てるんだけど」って申し訳なさそうにソワソワするの。
その姿にキュンとした私は、「じゃ、今日もそうしようか?」ってタツ兄の手を引いた。
今までずっと手練れのなおちゃんと一緒にいて……いつもリードされてばかりだったから。
初めて身体を繋げた相手もなおちゃんだった私は、彼以外の男性を知らない。
だからどうするのが正解か分からないんだけど。
……でも。
目の前のタツ兄に「触れたい」「触れられたい」って思ってしまった。
***
タツ兄を支えるようにしてベッドまで行くと、先にベッドへ座ってもらって、自分もタツ兄のすぐそばへ腰かける。
私が腰を下ろしたと同時、ベッドのスプリングがたわんで、ほんの少しタツ兄との距離が縮まって。
隣り合った肩がトンッと触れ合った。
それを合図にしたみたいに、タツ兄が「なのちゃん……」って私の名を呼ぶから。
「ん?」
私はタツ兄の方へ顔を向けた。
途端、存外至近距離で視線がぱちりとかち合って、何だか妙に照れ臭くなって。
「たっ、ただ座ってるのも何だし、てっ、テレビ! そう、テレビをつけようか」
その距離に焦ったのかな。
タツ兄がソワソワと視線を彷徨わせて矢継ぎ早にそうまくしたてるから。
(ヤダ、可愛い……)
私はタツ兄の初心な様子にまたしてもトクン!と心臓を跳ねさせる。
(もっとタツ兄が照れるトコが見たいな……)
無意識にそう考えてハッとした。
私……、知らなかった。
自分がこんな風に男性をリードしたいって思う気持ちが心の奥底に眠っていたこと。
私はフルフルと首を振って、ぎこちない様子でベッド前、ローテーブルのリモコンへ伸ばそうとしたタツ兄の手に自分の手を重ねると、間近から彼をじっと見つめる。
「私……たつ、おき君に……触れたい……」
タツ兄のことを〝たっくん〟と呼ぶのだって慣れないくせに、あえてもっともっと背伸びをして〝建興くん〟と呼び掛けてみた。
「な、のか……、それ……本当?」
それに呼応するみたいにタツ兄が私の名を初めてちゃんと愛称ではなく〝菜乃香〟って呼んでくれて。
不安そうな問いかけにこくんとうなずいて見せたら、
「僕も……菜乃香に、触りたい」
たっくんが、熱のこもった〝男の目〟で私を見詰め返してくれた。
***
「痛かったらすぐに言ってね? 私……そんなに上手くないかも知れないから」
お互いに、相手へ触れたいと意思表示をしてみたものの、タツ兄……たっくんは今、リハビリを要する不自由な身。
私は意を決して床へ降り立つと、たっくんの真正面に立って彼を見下ろした。
「な、のちゃん、……一体な、にを……」
するつもり?と続いたであろう彼の言葉を皆まで言わせずたっくんの前に跪くと、戸惑いの言葉とは裏腹。
ほんの少し兆し始めている彼の下腹部にズボン越し、そっと触れた。
「んっ……」
途端たっくんが眉根を寄せて可愛く喘ぐから。
私はそれだけで自分の下腹部がキュン、と疼くのを感じた。
「今日は私が精一杯頑張るから……元気になったらたっくんの方から……めてね?」
責めてね、を照れ隠し。ゴニョゴニョと誤魔化すように早口で言って、ゆっくりと布地越しにたっくんの雄を撫で上げると、彼がふるりと身震いして。
「なんて……言ったの?」とか掘り下げてくるから「……ナイショ」って布地越し、たっくんの大切なところにチュッと口付けた。
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