焚書官たちが全員酒場へと入ったことを確認すると、ユカリはこっそりと彼らの馬の元へ近づく。もしかしたら自由になりたい馬がいるかもしれない。そうだとすれば助けるのにやぶさかではない。あるいはその馬が手伝ってくれる、なんてことがあるかもしれない。
馬たちを厩に連れて行こうとする馬丁に気づかれないようにこっそりと追って、最後尾の馬に話しかける。
「こんにちは。ここはとても暖かい街ですね」
斑点模様の黒馬は横目にじろりとユカリを見つめる。「ええ。地の底から与えられたる恵みだそうです。献身的沐浴様の思し召しでしょうね」
ユカリは少し考え、考えても意味がないことに気づいて相槌を打つ。「……ええ、そうですね。ターティア様、ですね」
馬はゆっくりと瞬きして小さく嘶いた。「第六聖女様をご存じないなら、貴女は異教の徒でしょうね。申し訳ありませんが、会話を禁じられています。いずれ改宗されましたならばその時にまた」
まさか馬に信仰させることができるとは思っていなかった。ユカリは諦めて焚書官たちの馬を見送る。仮に無理に連れて行ったとしても言うことを聞きそうにもない。もちろんそんなことをするつもりは一切なかったが。
来た道を戻ろうとすると黒衣に身を包んだ少年、山羊の仮面の首席焚書官、サイスが待ち受けていた。隣には蛇使いの焚書官ルキーナもいる。しっかり今のやり取りを見られていたらしい。
振り返ると他の焚書官たちがすでに回り込んでいる。手際の良いことだ。いま、魔導書は『我が奥義書』しか所持していない。この場から逃げるだけなら十分だが、雪降る荒野を逃走するとなると話は変わって来る。それに、彼らの前ではエイカであり、ユカリではない。魔法少女だと明かしたくはない。
「ベルには魔導書一冊で我慢してもらえば良かった」とユカリは誰にも聞こえないように呟く。
「強力な触媒があったところで効果的な逃走に使える魔術なんて知らないでしょ」とグリュエーはずいぶんすらすらと言ってのける。
ユカリは時々グリュエーを叩きたい気持ちになるが暴力は嫌いなので我慢する。
「偶然ですね」とユカリは愛想笑いを浮かべて言った。
もっと嫌味っぽく言ってやればよかった、とユカリは思う。
これで何度目だろう。追いつかれたり先回りされたり、偶然なわけがない。やっぱり何かしらの魔術を使っているに違いない。
「魔術など使うまでもない」と心を見透かすように言って、サイスは山羊の鉄仮面を傾ける。「連日の謎の光を起こしているのが誰なのか、僕たちは知っている。【怪力】の形になった雷雲が光っているのを目の前で見たからな。そして最近三か所で――」
「長い長い長い。長いですよ首席」とルキーナが口を挟む。「経緯なんてどうでもいいでしょ。短くまとめてください」
誰より他の焚書官たちが不満げに唸っているが、直接ルキーナの不敬を窘める者はいなかった。
サイスは端折って言う。「……最も近くの光から最も近い場所にあるのがこの街だ。エイカ、君かベルニージュがいるだろうと思ってね」
ユカリは合切袋の肩ひもを握りしめて言う。「えっと、何か御用ですか?」
「何か御用も何もないだろう。首席焚書官を騙り、護女を騙り、我々の追っている教敵を知っている」
「あとカーサの抜け殻も盗まれた」とルキーナが付け加える。
「……そして、研究実験をしながら旅をしていると言っていたな。あの光も関連しているのだとするなら、それが徒に世間の不安を煽っていることについて理解してもらいたいものだ。君には、君たちには聞きたいことが山ほどあるんだよ」
グリュエーが何も言わずにユカリの周りをゆっくりと渦巻く。
しかしユカリは風を制して言う。「いま私たちもクオルを追っています。協力しませんか?」
サイスが何か言う前にルキーナが口を開く。「駄目に決まってるでしょ? 信用できない。それに大方残りの二つの光のどちらかにクオルがいるんでしょ? そしておそらくは北東。情報通りトンド王国にメヴュラツィエがいる。君は何の力にもならない」
ルキーナはユカリに比べると背の低い女性だが、得も言われぬ威圧感がその鉄仮面の向こうに存在している。
「喋り過ぎだ」とサイスは言った。「が、しかし協力するならば情報交換は不可欠だ」
「首席!」と言ってルキーナは食い下がる。
しかしサイスが片手をあげると、ルキーナは他の焚書官たちに後方へと引っ張って行かれた。
「当然君はあの光の灯し方について教えてくれるんだよな?」とサイスは山羊の仮面の向こうで言う。
ユカリは頷き、茜色の円套が魔導書の衣であることを伏せて説明を試みる。
「実験内容は話せませんが、禁忌文字を使う魔術です。ある特定の形式で文字を形作ると文字と円套から光が放たれます」
「ふうん。つまりあの大事そうにしていた衣をクオルに盗まれたという訳だ。いったいどんな魔法なんだろうね?」
「商売道具ですから秘密です」
「そうかい。それで、全ての文字を完成させた時、君たちの企みが成るというわけだな?」
山羊の仮面の向こうの瞳がじっとユカリを見つめている。ユカリが話したつもり以上のことを読み取られている予感があった。
ユカリが答えずにいるとサイスが続けて話す。「まあ、いいや。それで、つまり残りの文字は六つか。残りの文字の作り方を教えてくれ」
「全部を教えるつもりはありません。残り少ないし、いつ使うかが重要なので」
「そうか。じゃあ君はこの街で留守番だな」ユカリが息を呑み、押し黙るのを見て、サイスはため息をつく。「僕たちを信用し給え。我々とて本気で追っているんだ。切り札を下手に使うつもりはない」
ユカリは折れ、残りの六つの文字の光らせ方を話す。
【崩壊】を示す”砂は玉座の上にあり”。
【沈黙】を示す”墓石を削り”。
【狂奔】を示す”轍に惑う”。
【予兆】を示す”嬰児の母は剣を帯びて”。
【天罰】を示す”髑髏と真珠が釣り合いて”。
【浄化】を示す”開かずの箱にしたためる”。
そして二か所で光らせた理由、クオルに追いつくための策も話す。
サイスは声変わりしつつある不安定な声で唸る。「たしかにあちらからも見えるというのは厄介だな。よし、良いだろう。今日の内に出発する。まずは北東だ」
焚書官がぞろぞろと移動を始め、じっと立つルキーナが現れる。
「本当に協力できるの?」とルキーナは冷ややかに尋ねる。
見えない蛇の漏らすしゅうという音が足元から聞こえる。
「ええ、貴方がたが裏切らない限り」とユカリは硬い声色で答える。
「本当に?」と繰り返すルキーナはユカリをじっと見、柔らか気な唇を開いて淡々と言う。「彼ら、ほとんどの焚書官はあの時、君に直接会っていないか、そもそもあの村にいなかったから君のことに気づいてないけど、君の生家を焼いたのがサイスで、扉や窓を魔術で隠したのが私だと知っても、協力できるの?」
思いのほか怒りが蘇り、拳を握りしめ、唇を噛み締めた。ユカリは自分に言い聞かせるようにして心を落ち着かせる。屍の灯のおかげで義父ルドガンが生きていることは判明したのだ。家を失ったことなど些細な問題だ。
ユカリは頭を下げる。「レモニカが、友達がさらわれたんです。協力してください」
ルキーナは小さくため息をついて零すように言う。「そう。分かったよ。ごめんね」
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