十数人での野営はいつ以来だろうか、とユカリは過去に想いを馳せるが、脳も過去も凍り付いたようで上手く思い出せなくて諦める。
数度星が天を巡って訪れたある日の、まだ梟たちの微睡むある夕暮れ時のこと、冬に耐え忍ぶ松林のそばで、ユカリたちは休息を得ていた。いくつかの妙に整然として行儀のよい焚火に加え、魔法使いたちの類稀な結界によって、焚書官たちの野営地だけが野花目覚める春のような温かさを得ている。それでいて、雪は少しも解けずに地面を覆っていて、冬や雪の精霊たちは困惑した様子で松林の奥から遠巻きに救いの乙女の信徒たちを見つめている。
焚書官たちは黙々と着々と食事の準備を進めている。ユカリは結界の端で、倒木に腰かけて、グリュエーの運んでくる温かな空気を浴びて、その様子を眺めていた。何度か手伝いを申し出たが、警戒されているのか、近づかせてはくれなかった。それでいてこの数日、一度として不公平なことをされなかったのも事実だ。世間ではこの人たちこそが良い人なのだ、と改めて思い出す。
ルキーナがこちらに歩いてくるのが見えた時、見えない何かがユカリの隣の雪に落ちて、蛇行しながら雪を踏んで、ルキーナの方へ向かって行った。ずっと透明蛇のカーサに見張られていたらしい。
倒木に座るユカリの前に立ち止まって、ルキーナは言う。「ねえ、何か聞きたいことないの?」
「いえ、別に、特には。今のところ怪しいところはないですし」
「そうじゃなくてさ。……まあ、いいけど」そう言ってルキーナはユカリの隣に座る。
顔は向けないが、ユカリは鉄仮面の向こうから視線を感じた。しかしルキーナは何も言わない。
とうとう沈黙に耐え切れず、ユカリは尋ねる。「チェスタさんはどうされたんですか?」
ルキーナは考えながら小さく唸り、探り探り答え始める。「うーん。どうされたんだろうねえ。ちょっと失態があってねえ。良くて破門かな。えーっと、魔法少女ユカリって知ってる?」
「噂くらいは、まあ」と無関係を装う。「あまり良い噂は聞きませんが」
「そうだね。色々とあだ名されてる」ルキーナはくすくすと笑って指折り数える。「偶像冒涜者、魔導書の堕落者、星墜とし、デノクの呪病、化け蛾殺し」
知らないのが増えている。ユカリは何とか抗議を飲み込む。全部冤罪だ、と心の中で叫ぶ。
「にわかには信じがたいですけどね。一人の少女がそんな、ねえ?」とユカリは乞うように言った。
「まあねえ、でも首席焚書官が良いようにされたんだよ。とんでもない力を持ってるのは確か」
「私は、魔法は、これといって得意なわけでも、まあ、下手なわけでもないですけど、なので魔法少女には遠く及びませんが」ユカリは話の方向を変える思い付きを得た。「そうだ。あの、扉を移動させる魔術、教えてもらえませんか?」
ルキーナはのけぞらん勢いで驚く。
「私が言うのもなんだけど」と言ってルキーナはようやくユカリの方に顔を向ける。「あの魔術が憎くないの? 燃える家の中に二人を閉じ込めた魔術だよ」
一方でユカリの義母ジニが地下室を隠匿するために同じような魔術を使っていたおかげで、ユカリたちを助けた魔術でもある。
「魔術は魔術です。使い手次第でしょう?」
「へえ、殊勝なことで。まあ、いいよ。私の唯一得意な魔術だからね。教え甲斐があるってものよ」
ユカリは驚きを通り越して、表情が脱力する。
「ルキーナさんってたしか次席ですよね?」どこかでサイスがそう言っていたはずだとユカリは思い出し、疑念の表情を浮かべる。「そんな人が魔術苦手なんですか?」
「ち、ち、違うよ!」ルキーナは両手をぶんぶん振ってあからさまに慌てふためく。「言葉の綾だよ。魔術は大得意なんだから。ほら、見て、えーい!」
そう言ってルキーナが背後の松の木を指さすと、木は激しい音とともに真っ二つに割れ、雪を舞い上げて倒れる。
ユカリは飛び上がって後ずさる。グリュエーと二人で誰とはなしに威嚇した。確かにとんでもない魔術だ。ユカリにはどのような力が作用したのかも分からない。ただ指でさし示しただけにしか見えなかった。あれが人に向けられれば想像もしたくない出来事が起こる。
ルキーナは両手を上げて弁解する。「いや、別に何もしないから。ただ、私は焚書機関第二局の次席なんだってことを示したくてね。あ……」
ユカリがルキーナの視線を追うと、山羊の仮面がこちらへ向かってきていることに気づいた。ルキーナの慌てふためきぶりを見るにどうやら叱られるらしい。
その時、宵闇迫る北東の空の下に、天の星々のどれよりも強く輝く二つの白い光が現れた。ユカリも焚書官たちも素早く立ち上がり、周囲に目を配るが他に光はない。
二か所ということはどういうことだろうか。同じ方向だが距離はかなり離れてる。光を灯したのがレモニカだとすれば、クオルから解放された吉兆ということになる。ベルニージュだとすればそこには必ず意味がある。何かを伝えたいか、やむを得ない事情か。
「これは聞いていなかったな」いつの間にかそばにいたサイスが言う。「何か別の策を用意していたのか? どの文字を使ったんだ?」
ユカリは静かに首を振ってから答える。「まず合流する手はずでした。確かに片方の光までは、ユビスが急げばたどり着ける距離です。でも、何のために……。分かりません。どの文字を作ったのかも」
「まあ、難しく考えることはない」とサイスは諭すように言う。「君の友人は残り六文字を早計に使うような魔法使いじゃないだろう。が、そもそもほぼ間違いなくクオルはトンド王国の領域にいて、さらに北東へと進んでいる。あとは追いつくだけだ。何か異変がない限り君たちの魔術を使う機会ももうなさそうだ。それこそさっきのは合流地点の報せにすぎないかもしれない」
しかしユカリの表情は晴れない。
「でも、もしかしたら早急にクオルの位置を知りたい緊急事態だったのかもしれません」
「悪いが、いずれにせよこれ以上の速さは出ないぞ」とサイスは釘を刺す。
ユカリはこわばった表情で頷く。
「まあまあ。楽な道が早い道だよ」ルキーナがユカリの背中をぽんと叩き、そして耳元で囁く。「今のうちに例の魔術を教えてあげる」
焚書官たちは再び、夕餉の支度へと戻った。その間、ユカリはルキーナから魔術を教わる。
出入口を移動させる魔術はユカリが想像していたよりも簡単だった。というよりはルキーナが大げさに話し過ぎていたのだった。この魔術に使う呪文は対象の大きさや厚さ、本来の場所からの移動距離などで微妙な調整を求められる面倒さはあるが、一通り法則を覚えてしまえばそう難しくはない。
とはいえ雪原の真ん中で実践練習はできないので、理論だけを知ってしまったユカリはもどかしい気持ちになった。
翌朝、東の空が白む前に出発し、太陽が天頂に至る前にある宿場町交叉にたどり着く。町は何やら物々しい雰囲気で、人々は一つの噂に夢中になっていた。
曰くたった一人の魔法使いが、トンド王国の首都を襲撃し、サンヴィアで知らぬ者のいない北海の戦士たち、トンドの精鋭たちと渡り合っているという。間違いなく魔導書使いだとして、シグニカやアムゴニムとの戦争が始まるのではないかと人々は怯えている。
道の真ん中に立ち尽くし、集まる情報を聞いてユカリの不安もまた最高潮に達した。クオルが魔導書の衣を使って暴れているのだとすれば、ベルニージュはまだしもレモニカにはどうすることもできないだろう。
そしてユカリにもまたどうすることもできない。せめて元型文字を光らせられれば、ベルニージュやレモニカがクオルを追ってるなら役に立てるし、ユカリを待ってるならば昨夕の返事ができる。
しかしもはや残りの詩はどれも実現が難しい。
そこへルキーナがやって来て、ユカリの前で剣を抜く。
ユカリは驚いて飛び退いて鋭く問い詰める。「何ですか? どうしたんですか?」
「もうここで作っちゃおう」そう言うとルキーナは剣先で雪に文字を書く。「嬰児の英雄、泡沫の行く末、息吹、空気、兆しの風、去り行く母、懐胎、胎動、誕生」
【予兆】の禁忌文字が地面を覆う雪に記された瞬間、白い光が溢れかえる。ユカリはすぐにどこかにあるもう一つの光を見つけた。魔導書の衣はさらに北東へと進んでいた。
「間違いないね。あの光はトンドの首都にある」とルキーナは言った。
ユカリは喜びと驚きで感情が溢れかえる。「ありがとう、ルキーナさん! それより、ルキーナさん。赤ちゃんがいるの?」
”嬰児の母は剣を帯びて”の詩が成立したということは、ルキーナは赤ん坊の母親だということだ。
ルキーナは慈しみ溢れる笑みを浮かべる。「うん。お腹の中にね」
ユカリは一層目を見開き、ルキーナのお腹をまじまじと見つめる。まるで気づかなかった。
「私、てっきり、クオルと同じで子供を産めない体にされてしまったのかと。以前とても怒っていたから」
ルキーナは一瞬眼光を光らせるが、すぐに鎮めて優しい声音で言う。「ああ、なるほどね。まあ、でも私は私のことでそこまで怒ったりしないよ」
「じゃあ一体……」とユカリは呟く。
ルキーナは寂しげな笑みを浮かべて首を振る。「ただ救いたい人がいるだけだよ」
ユカリは同じような気持ちだが、怒るサイスが後ろから近づいてくることは黙っていた。ここは一緒に怒られるべきだろう。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!