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電話を切った千紘が席に戻り、スマートフォンは手元に置いた。凪はもう一口クラムチャウダーを食べてから、千紘がスプーンを持つのを見やった。
「ごめん、電話でちゃって」
千紘はそう言って食事を再開させた。
「別に……。出かけんの?」
聞く必要はなかったが、すぐにでも用事があるのなら、食事をするペースも考えなければと凪は思った。
「うん。買い物付き合ってってさ」
「ふーん。じゃあ、俺もう帰った方がいいだろ」
「ご飯くらいゆっくり食べていきなよ。急かしたりしないから」
千紘はそう言って笑うが、否定はしなかった。凪は何となく、用事がないなら一緒に出かけないかと千紘に誘われるかもしれないと内心ビクビクしていた自分が恥ずかしくなった。
千紘の好意を感じてはいるが、自意識過剰だったのだ。考えてみれば突然昨日も泊まると言ったのも自分だし、千紘の都合は考えていなかった。
それも頭のどこかで千紘が凪の誘いを断るはずがないと思っていたのだ。実際そうだったのだが、千紘は当日かかってきた電話の誘いもあっさりと受け入れた。
それも支度ができたら迎えに行くという。
凪はたったこれだけの経緯で、自分は特別でもなんでもないような気がした。あんなにも穏やかで優しい口調で話すのだ。
会って会話をする時だって、凪と話している時と同じくらい柔らかい表情をしているのだと思えた。
友達だったら当然のことだ。凪だって友達と遊ぶ時は、気を使う必要もないから楽だし自然と笑顔になる。それと同じだ。
そうは思うのに、千紘にもそういう相手がいるということを全く考えたことがなかった。
その友人は、千紘がゲイだと知っていて誘ってきているんだろうか。知っているとしたら、千紘に気があってのことだろうか。もしもソイツに告白されたら付き合うんだろうか。
そんな疑問が浮かぶ。
「急いでったって、熱くて進まねぇし」
「ね。全然冷めないよね」
千紘はクスクスと笑う。きっと今から会う人間の前でもこんなふうに笑うんだろうとぼんやりと考えた。
「友達、待ってんじゃないの?」
「急ぎじゃないから大丈夫。いつも待ち合わせに遅れてくるし」
いつもという言葉に、凪はグッと眉間にシワを寄せた。頻繁に会っている証拠だ。忙しいと言いながら、その友人とは会う暇があるのだ。
相手も休みだとわかっていてわざわざ電話をしてくるということは、毎週のように会ってるのかもしれないとぼんやりと思った。
「お前の方が先に着いてるなんて珍しいんじゃないの」
凪は全く気にしていないふりをしながら会話を続けた。
「俺待ち合わせはあんまり遅れないじゃん。朝起きれないだけでさ」
千紘は心外だとでもいうようにからっと笑う。
「ふーん。じゃあ、朝から待ち合わせはできないわけだ」
「そう。だから、昼過ぎにかけてきた」
千紘はそう言って人差し指で自分のスマホ画面をトンっと触った。その動作で真っ黒だった画面が点灯した。
凪はそれをぼんやりと見ながら、今から会う相手は千紘がアラームで起きられないことも、朝が苦手なことも知っていてわざわざ昼過ぎに電話をよこすような配慮をする人間なんだと認識した。
「予定があるなら先に言っといてくれれば朝早く帰ったのに。お前、俺が帰ったら色々するって言ってたけど」
凪はすぐにでも出ていきたくなった。どうせ今日も誘いの電話がくるとわかっていたんだろう。あの電話の出方は、なんとなく想像はついていたような感じだったから。だったら、前もって用事があるって言ってほしかった。そしたら、余計なことを考えることもなかったのに。
凪は鬱々とした気持ちで残りのスクランブルエッグをスプーンに乗せた。
「うん、予定入れてなかったよ? 予定があるのは凪でしょ?」
「……え?」
目を瞬かせて不思議そうな顔をしている千紘。凪は予定があるだなんて言ったつもりはないが……と自分の記憶を辿った。
「だってほら、いつも予約が入ってない時はプライベートの用事で埋まってるって言ってたじゃん」
「あー……言ったかも」
「朝からの予約なくなったって言ってたから、普段仕事でできないことするのかと思って」
千紘の言葉に凪は食べる手を止めた。確かにいつか千紘に言った気がした。予約がない時はプライベートの用事でいっぱいだと。
でもそれはしつこかった千紘の誘いを断るための口実に過ぎなかった。言った本人ですら忘れていたのだから適当にあしらっただけに過ぎない。
だとしたら、千紘は凪が朝食を食べたらさっさと帰っていくと思っていたんだろうと千紘の考えがわかったような気がした。
凪はふっと笑ってスクランブルエッグを口に入れた。ケチャップの香りが真っ先に鼻を抜けた。
凪の気まぐれで泊まりにきて、用事があるからとさっさと朝食だけ食べて去っていく。それが千紘の中での凪のスケジュールなのだ。
だから当然この後千紘は暇になり、友人の誘いも断らなかった。凪が一体何しにきたのかもわからないまま。
凪に触れることもなく、デートへの誘いもせず、単なる凪の気まぐれに付き合ったのだ。
それがわかったら、千紘を振り回しているのは自分の方だと気付いた。貸切をしたいと言った千紘は、凪がいいと言ったらコース料金も払うのだろう。
舐め回すようにホームページを覗いていた千紘は、貸切の料金が20万円だということも承知しているはず。
料金など発生せずとも、凪からこんなふうに泊まりに来ているのに、タダでデートがしたいとは言わないのだ。
ご飯に行こうと誘ってきたのだって、その前に会った時から数週間空けてのこと。きっと千紘なりに配慮して誘ってきているのだと思えた。
ただ、凪を誘わない間は今日みたいに千紘を誘ってきた誰かと会っているのだ。求められて体を重ねているかもしれないし、そうでなくても頻繁に会っているのかもしれない。
同性愛者にとって、千紘は魅力的に映るだろう。女性だって群がるほどだ。千紘には他人を惹き付ける魅力がある。それは凪も理解していた。
以前考えたことがあった。凪に振り向いてもらうことを千紘が諦めたら、関係はそこで終わりだと。
以前のようにガツガツ迫ってこなくなった千紘は、少しずつ凪と距離をとっている。もしかしたしたら、このままほんの少しずつ千紘は諦めていくつもりなのかもしれないと凪は思った。
ただ添い寝するだけなんて、千紘も相当我慢しているだろうと予想はつく。けれど、疲労でセックスなどしている余裕はなかった。セラピストを始める前の自分だったら、女性と同じベッドで添い寝だけだなんて耐えられなかっただろう。
それも自分が好意を抱いていたら尚更。しかし千紘はそれに文句も言わず、誘うことも触れることもなく、大人しく腕枕だけしてくれたのだ。
凪は、ぐっすり眠れたのもそういった千紘の優しさのおかげだと思わざるを得なかった。
「違うの?」
「今日はな。特に予定なかった」
「……そうなんだ」
千紘は凪の言葉の意図がわからず、ふーんと頷く。けれど、「だから、別にセックスしてもいいと思ってたけど残念だったな」と凪が言ったことで千紘は今度こそ盛大な音を立ててスプーンを床に落とした。