今日も僕は夜空を見上げて家に帰る。星は希望の光で輝いているという人もいるけれど、僕には星が泣いているように見える。この世界を憐れみ、絶望した美しい涙だ。彼女の住むところはきっとこんな都会よりもずっと綺麗な星が見えるのだろう。もう五年も故郷に帰っていない僕を彼女は怒っているだろうか。何度思ったことかわからないような考えが頭をよぎるデジャブ感を抱えながら僕は錆びついた外階段を登る。
「ただいま。」
誰もいないとわかっているのについ癖でいつも言ってしまう。良く言えばさっぱりしていて、悪く言えば殺風景な僕の部屋は生活感があまりなく、この間隣に越してきた中年男性の部屋よりよっぽど新居めいている気がする。僕の何も無いアパートとは対象的に実家は大家族の騒がしい古民家暮らし。おそらく僕の、誰もいないのに挨拶をしてしまう癖だって、そんな賑やかな生活の名残なのだ。まだ6月下旬なのに今年は梅雨が短い影響で日中の最高気温は35度以上。僕は考えなしにクーラーを付けていた。何をする気力もなく寝転がると、畳の丁度いい温度とイグサの香りが僕を眠りに誘う。
肌寒さを感じて僕は目を覚ます。クーラーを消してそのままベランダに出る。昨日の夜雨が降ったのだろう。ベランダも、外のアスファルトもしっかり濡れ、いくつかの水たまりを残している。雲の多い不穏な空を見て僕は弱々しく笑う。さんさんと晴れるわけでも、どんよりと雨が降りしきるわけでもなく、ただただどちらとも言えない微妙な天気。今の僕を比喩しているように思えて皮肉に感じる。
ピンポーン
洗濯物を干している途中だというのに玄関チャイムがなる。無視をしても止まらないので頭にきて表へ出る。
「N◯Kなら取ってません!テレビもな…って姫奈!?」
「えっとぉ、来ちゃいました!」
姫奈は僕の幼馴染で実家が近所なのだ。おまけに小学校から高校まで学校が同じで、奇跡的に十二年間同じクラスだった。
「なんで急に?来るんならラインくれればよかったのに。」
「家出してきた。」
「一人暮らしが何いってんの。」
「まあ色々あるの。悠晴はどうせわかんないよ。2〜3日泊まってくねー。」
「何を勝手に…。まあいいけど。」
幼馴染とは言え追い返せのはきっと不躾だ。昔のようなお泊り会だと思えばまあ…。
「布団一式しかないからどうぞ床で寝てください。」
「うわ、ひっど。女の子にそんな事するの?いいよ、そう思って布団持参してきたから。」
…は?布団持参?泊まる気満々かよ。とりあえず姫奈を中にいれるために扉を広く開け、カバンを持ち上げる。
「いいからそういうの。私の鞄触らないで。」
「え、あ、ごめん…。」
ピシャリとガラスを割ったような冷たい声色に圧倒される。姫奈がこんな声を使ったのはちょうど五年前に一度きりだ。混乱して玄関先から動けないでいる僕の背後から先ほどとは別人のような姫奈の黄色い声がする。
「わあ。何もないじゃん。」
安堵の吐息を漏らす。
「逆に何を期待してた?」
「彼女の私物。」
「ないよ、そんなの。」
「ていうか悠晴彼女っているんだっけ。」
「もう僕、そういうのはいいんだよ。」
言っては行けないタブーでも口にしてしまったかのように姫奈は気まずそうに目をそらす。まったく、先に話題を振ったのはそっちだろうに。僕もなんと言葉をかけたらよいのかわからなくて黙ってしまう。どうしようもない沈黙の中を時計の秒針がカチカチと動く音だけが鳴り響く。すると、気を遣ったのか、姫奈がやれやれというようなため息をつく。
「婚期逃した中年のおっさんかよ。」
急な切り返しに一瞬戸惑う。
「え?いや、そんなこと彼氏いない暦=年齢の姫奈に言われたくないね。」
「はあ?モテるし!私めっちゃモテるし!告白だって何回もされてるんだもん!」
「あそう。僕は一回もそんなとこ見てないけど。」
「そりゃあ、だって…。」
姫奈と話しているととても懐かしい気分になる。高校の頃は気にしていなかったけど、姫奈の怒ったときに子どものような話し方になるところも、いじけてもすぐに立ち直るところも、全部小学生のままだ。空腹を感じ、僕はカップラーメンでも食べようかと棚を漁る。
「悠晴カップラーメン食べようとしてるでしょ。」
エスパーかよ。僕はバレないようにそそくさと手に持っているカップラーメンの容器を体の後ろに隠す。
「いやだなぁ、そんなことないよ?姫奈は本当に人聞きが悪いや。はは。」
「あのねえ、悠晴くん。片手にカップラーメン持った人が言っても説得力ないからね?」
「…すみません。」
「仕方ないねー、私がお昼ご飯を作ってあげよう。」
「やめてください。」
「えっ!即答?!失礼な奴め。キッチン借りるからね。」
これはまずいことになった。姫奈は一周回って天才と言えてしまうレベルで料理が下手なのだ。小学校の家庭科の授業では普通に調理しているはずなのに通して計5本の包丁、三枚のまな板、2つのお鍋を破壊。中学では僕を含めて生徒17名を病院送りに、高校では調理実習参加禁止令をくらっていた。
「悠晴できたよー!」
今まで育ててくれたお父さん、お母さん、そして僕の好きな子、そう澄麗ちゃん、僕は今日多分死にます。もう合うことができなくなるでしょう。さようなら。
「おう゛ぇ゛」
「あれ!悠晴大丈夫?!水!水持ってこなきゃ!」
薄れる記憶の中で僕は雷の音が聞こえた気がした。ああ、雨降ってるのか。目の端に包丁を握りしめたままの姫奈が映る。もう絶対に姫奈を台所に立たせてはいけない。流石に僕でも命の危機を感じる。
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