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ピー…ピー…ピー…ピー…
規則正しい電子音に目を覚ます。まぶたを開けようとするがどうもうまく司令ができていないのか体が思うように動かない。
「ん?悠晴起きたと思ったんだけどな。この間のお昼ご飯だって悠晴が残しちゃうから取っておいたのに。流石に3日たったからもう食べられないか。」
まぶたが開かなくてよかった。姫奈の三日前の昼食を食べさせられるところだった。
ピッピッピッピッピッ
考えただけで変な汗が出て心拍数が上がる。
「おかしいな。心拍数が上がってる。」
姫奈が立ち上がる音がする。
「先生ー!心拍数上がってるけどいいんですか?」
数人がこちらに歩いてくる。
「一宮姫奈さん、もう面会時間終わりますし、病院内では大きな声を出さないでください。」
「あ、ごめんなさい。明日また来ます。」
姫奈は昔から優等生だったからきっと今でも注意されたり、怒られるのが怖いのだろう。今だって逃げるようにいそいそと病室から出ていく足音が聞こえている。
「北野悠晴くん、起きてますよね。」
「はい。目は開きませんが。」
「ストレスと、あとよくわかりませんが食中毒のたぐいですかね。見たことない事例ですね。変なものは食べないでください。」
つくづく思うのだが、姫奈はきっと化学者になるべきだったのだ。それも『日常生活から作る毒物』というテーマで。
「悠晴くん、聞いてますか?」
「すみません。何の話でしたっけ。」
「2〜3日で退院できると思います。それまで安静にしていてください。」
先生が部屋から出ると僕は一人になった。二人部屋だけど同室の人がいないので必要以上に気を遣うこともなく、広く場所を使えるので快適と言えば快適だ。久しぶりにも感じる一人の時間をどう使おうか。とりあえず姫奈が持ってきてくれたのであろう鞄から読み途中の本を取り出してページを開いてみる。
夢に澄麗ちゃんが出た。澄麗ちゃんは僕の彼女、いや元カノ?明確に別れたわけでもないけれど、高校以来あっていないし、今どき珍しく彼女はスマホも連絡手段もないので連絡もできない。僕たちはあの日の夏祭りにいた。神社の境内にあるベンチは僕と澄麗ちゃんだけの穴場スポット。なのにベンチに座っているのは澄麗ちゃんだけで、僕は遠くから眺めることしかできない。少しずつ見え始めた全体像にはあの日存在しなかったはずの霧が出ていて、祭りの賑わいが全く届かない。寂しそうに微笑む澄麗ちゃんの目に浮かんだ不自然な瑠璃色の涙がまるで宝石のようで美しかった。
病院は朝も忙しいらしく、僕は小児棟から逃げ出してきた児童の『お母さん!』と泣き叫ぶ声により叩き起こされる。知らず知らずのうちにこぼしていた涙と柔らかい木漏れ日が優しく頬を撫でる。
いつも通り、10時を過ぎたあたりに姫奈がやってくる。
「姫奈、もしかして暇人なの?」
「何を言うんだ悠晴クン。私にはれっきとしたオフィスワークがあるんだよ。」
「じゃあ何で僕の彼女でもないのに毎日面会時間目一杯来るんだよ。」
「幼馴染だから。」
「幼馴染なんて他人と同じじゃん。」
ほんの一瞬感じる空気の緊張に、姫奈を怒らせてしまったのではないかと不安になる。
「なら彼女だったら他人じゃないの?」
「そういうことでもないね。」
「じゃあいいじゃん、毎日来ても。」
ため息をつく。
「今年の夏は実家に帰ろうと思ってる。澄麗ちゃんだっているし。」
しまった。姫奈の前で澄麗ちゃんの話をするんじゃなかった。彼女の話をするとなぜだか姫奈は戸惑ったような反応をする。昔はそんなでもなかったし、むしろ三人で仲良く過ごしていたのに。会わなくなってからはこんな感じだ。
「会ってくればいいじゃん。澄麗ちゃんも喜ぶよ。」
「…うん。」
理由もわからない罪悪感でつい返事が曖昧になってしまう。
「明日には退院だって。私午後から会議あるから今日はもう帰るね。」
そう言えば姫奈は僕と違って今年から会社員になったんだ。仕事があって、ちゃんと働いて、忙しいはずなのに僕はそんな姫奈にひどいことを言ってしまったのだ。やりたいことが何もなくて、考える時間がほしいからと対しいて得意でもない社会科の大学院に進んだ僕と反対に、やりたいことを社会に出てやっている姫奈がよっぽどすごい。姫奈のことは尊敬してるしさっきだって『ありがとう』と言おうとしたのに言葉が喉につっかえて言えなかった。退院してからちゃんと話をしよう。
退院から一週間しても姫奈と話す機会がなかなか訪れない。姫奈の仕事は朝が早くて夜が遅い。僕も昼間の殆どが大学の講義で埋まっている。それでもなぜか姫奈は僕の部屋に居座り続けているということは姫奈も僕と話す機会を伺っているのではないだろうか。なんとなく石を蹴りながら友達と大学から帰りながら考える。
「でさ、て聞いてんのか悠晴?」
「ごめん、何?」
隼人はなんだかんだ大学に入ってから友達で、うるさいけどいいやつだ。
「だからさ、俺達大学生活もあとちょっとだろ?彼女欲しいよなってことを言ってんだよ。」
「…彼女か。」
姫奈と、澄麗ちゃんのことですれ違っているせいで『彼女』というワードから姫奈を連想してしまう。気のせいか向こうから歩いてくる若い女性まで姫奈に見える。
「あれ?悠晴じゃん。ラッキー☆」
「あー…姫奈だったんだ。」
「なにそれ。まあいいか、ちょうどいいや。家に書類忘れちゃったから会社まで届けてくれない?」
「ああ、いいけど。」
「私の鞄に入ってると思うからよろしく。ありがとね。」
「え、でも姫奈…」
言い終える前に姫奈は立ち去ってしまった。あんなにさわるなと言われた鞄を開けても果たしていいのだろうか。
「なあ悠晴、お前同棲してる彼女いんならなんで言わねえんだよ。こっちは裏切られた気分になるんですけども。」
「…彼女じゃねえよ。」
「なにっ!お前結婚してたの?!結婚式呼んでくれたら良かったのにぃ、そんなに俺がうざいかあ?」
「ちげえよ。ただの幼馴染。」
「まじ?!今度紹介してくれよ。」
「はいはい、わかってますよ。」
マンションの扉を開けると金色の夕陽に照らされて大きく伸びた影が景色に飛び込む。心地よい風が夏用のカーテンを揺らし、湿った雨の匂いを運ぶ。深呼吸をしてから、なにか悪いことをしているかのように足音を立てずに姫奈の鞄に近づく。ためらいにためらってから僕は少しずつ姫奈の鞄のチャックを開ける。バサバサと紙が流れ出る。姫奈の言っていた書類かと思ったがそうではなかった。
「…なにこれ。」