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「えうそ。だからって、なんでお母さんが……」
打ち明ければ案の定、娘の晴子は表情を曇らせる。「千葉のおじいちゃんおばあちゃんは? 頼れないの?」
「バスに乗って電車に乗って、二時間も三時間もかけてこっちに来るのは無理よ。……お父さんは、お母さんしか、頼れるひとがいないの。
あなたたちはもう、自立したひとりの人間だから。お留守番を頼むわね」
「……分かった」
「分かりました」
渋々、といった調子で子どもたちは頷く。そんな顔しないの、と虹子は笑いかけ、
「ご飯なら朝早く起きてお母さんが作っておくから。あっためて食べてちょうだい。それから……母さんの帰りが遅くなっても、あなたたち、ちゃんと寝てなさいね。特に、智樹」
「――おれのせい、なのかな」
テーブルに指を組み合わせ、ぽつり、智樹が言う。「おれが、父さんを追いつめなけりゃ、父さんは、喘息になんかならなかったのかもしれないな。
ごめん。母さん。おれのせいで……」
「お医者様は、喘息の原因は不明だと言っていたわ」気休めに過ぎない、と知りつつも、虹子は智樹を励ます。「仕方がないのよ。智樹、あなたが気に病むことじゃないわ……。後のことは心配しないで。あなたは、あなたのしたいことをすればいいのよ……」
この時点で、首相は休校宣言をしており、かつ、智樹は三重にある全寮制の中学への転校を決めている。まだ若い子どもたちを残していくことに不安も覚えたが――ましてや、ふたりは、血が繋がっているのにも関わらず、想いを確かめ合った同士――とはいえ、晴子のほうが、智樹を避け続けているといった印象である。
あれほど、仲のよかった、唯一無二のきょうだいなのに。なのに、いまは、晴子が、会話は必要最小限に留めているといった様子で、明らかに、智樹にこころを閉ざしている。
考えるべき問題は、山積みだ。子どもたちのこと。勝彦のこと。それから――石田とのこと。
石田にアプローチをかけられ、子どもたちにも応援されたのを受け、前向きに、石田との交際を考えていこうと思った矢先のことであった。
勝彦が倒れて三日が経過し、経過は順調なようだ。
病院は、面会謝絶。よって渡すものがあるときは、虹子は、病院の受付に声をかけ、三階のナースステーションに行き、看護師づてに、渡して貰っている。
早くて明日には退院だそうだ。メールの文面を見ても、次第に元気を取り戻す様子が伝わってくる。
免疫力が落ちているので、外出は極力避けたほうがいいとのこと。
よって虹子は、勝彦の退院後、一週間程度は、彼の身の回りの世話をすることに決めた。
とはいえ、虹子も、仕事があるので、彼女に出来るのは、洗濯物の処理や、掃除。それから、夕食や翌日の昼食の準備。滞在時間はせいぜい一時間程度にするつもりだ。
子どもたちの同意を受け、石田にも伝え、いよいよ、勝彦が退院をする日。土曜日ということもあり、虹子は、昼前に、勝彦の入院する病院へと向かった。
それにしても、――だ。
入院とは、ある程度の勝ち組にしか享受出来ない、限られた権利なのかもしれない。
先ず、入院手続き自体が煩雑だ。内科医、看護師、それからナースステーションに回され、そこでも入院の説明を受けた。入院手続きの書類は簡単なものではあったが、捺印が必要だったり。また、入院患者と生計を別とする勤務中の保証人を書く欄があり――千葉の勝彦の母親に電話し、彼女から情報を聞き出し、欄を埋めた――病床にいる勝彦がこれをするのは大変だと思い、勝彦が入院したその日に、入院に必要な手続きを済ませたのだが。
手付金が、五万円。これまた高額だ。
入院手続きをする窓口は、受付とは別で、また別の説明を聞かされる。最終的にすべて終了する頃には、十六時を過ぎていた。一旦自宅に帰った時間を加味したとて、四時間もかかったという計算になる。
これでは、からだが弱くなったとしても、おちおち入院などしていられない。自分になにかあったとしたら、子どもたちが、これをするのだ。健康とはつまり、財産なのだと思う。
勝彦は、虹子の自宅の最寄り駅から三駅離れたところに住んでいる。もし、今後勝彦になにかあったとしても、引き続き、自分は助けてやろう――と彼女は、決めた。
手続きや検査に時間がかかっており、一旦虹子は、病院を出て、食事をしてから勝彦を迎えに行った。
「色々と……済まなかったな」
確かに、先日救急車に担ぎ込まれた直後のあの状態よりも随分回復したように見える。
それにしても、勝彦を追いつめたのが、智樹のあの行為なのであれば、背負うべきは自分なのだ――と虹子は思った。
「いいのよ。それより、……お腹空いてない? お昼食べてないんでしょう? 簡単なものでよかったらわたしが作るから……」
「智樹と、晴子は」
「あなた、外のことなぁんにも知らないの? いまは、非常事態なのだから、あの子たち、家に閉じこもりっきりよ」
それから、勝彦のアパートに帰宅し、洗濯物の処理をし、掃除機をかける。
床は、足の踏み場もないほどに散らかっていたから、虹子が洗濯物の次にしたのは、これらのごみを片っ端から袋に入れていくことであった。
ベッドに寝そべり、携帯をいじる勝彦が、
「……親子だな」
虹子が、顔を向ければ、勝彦は、
「そうやって、誰かのために必死になるところなんか……おまえたちは、そっくりだ。
あの日。おれのところにやってきた智樹も、おまえと同じように、おれのために、必死になっていた……」
「――智樹が?」
「聞いてないのか」と勝彦が身を起こす。「あいつ……ひとを、不幸のどん底に叩き落としておいて、てめえが不幸せにしたやつの世話なんかしやがるんだ。いったいなにがしたいのか、意味が分からない……」
――智樹が戦い、刃を向けたのだとしたら、それは、誰のためなのだろう。
そのことを、目の前のこのひとは、分かっていない。
虹子は、その事実を言わずに置いた。いまの、勝彦が、知る必要はないと判断したからである。
先ずは、勝彦が健康を取り戻すまで、支えてやること……。
勝彦のことは、確かに、憎い。けれど、いざ目の前で苦しんでいるさまを見て、放置しておくのは、夢見が悪いというか。それでは、後から後悔するように思えたのだ。
後悔のない、人生を、生きたい。
時には運命の過酷な流れに負かされようとも。
それが、自分の人生を生きる、意義なのだと思う。
この年齢になっても、まだまだ学ぶことばかりだ。教えてくれた勝彦には、感謝の念が沸く。虹子は、それから翌週末まで勝彦宅への訪問を続け、家庭料理に飢えているだろう彼に、懐かしの味を提供し続けた。
「――じゃあ、わたしは、これで。勝彦さん、お元気で……」
潮時だと思い、洗いものを済ませると、虹子はエプロンをバッグに仕舞い、ジャケットを羽織った。
スヌードを頭に通していると、
「虹子。……あの」
だいたい、この男がなにを言おうとしているのかは、想像がつく。
意識して、素早く、虹子は、玄関へと向かった。からだを回転させ、勝彦に向かって頭を下げ、
「……さよなら」
ひとりぼっちの世界に取り残される勝彦は、なんだか泣きそうな顔をしている。仮に、この顔をしているのが息子の智樹であれば、迷いなく、虹子は、抱き締めていたであろうに。
「……虹子。済まなかった……色々と……」
「もういいのよ」と虹子は顔の前で手を振り、「わたし、勝彦さんとのことは、もう、過去のことだから。終わったことだから。考えない、って決めたの。
だから、あなたは――これからは、わたしのいない日常を生き抜いてちょうだい。
元気でね」
「……ああ」
部屋を出た。澄み渡る空を見上げ、ひとつ、息を吐く。
やれることは、すべてやったのだ。後悔など、微塵も、ない。
同情も協力もしたくない。これ以上、あのひとの存在で、自分の人生を汚されたくなどないのだ。
復縁を求めたがっているあの目を思い起こすと、吐きそうになる。――勘違いしやがって。てめえの浮気が原因で離婚しておいて。ネット炎上、そんなのは、元々てめえが人様に顔向け出来ない行為をしていたのが原因だろうが。馬鹿が。
胸のなかで毒づき、虹子は、アパートを離れると、バッグのなかでふるえる携帯電話を取りだす。
「――虹ちゃん?」
愛おしい、あのひとの声。
このひとは、あのひとと違って、不必要に期待することなんかもしない。
「清太郎さん……、あの、ありがとう……」こみあげるものを虹子は押さえ込もうとする。虹子の事態を知った石田は、昨日から、泊まり込みで、晴子や智樹のケアをしている。「わたし……あと三十分で帰るけど。なにか、買って行くものとか、あるかしら?」
子どもたちが言う限りでは、石田は料理も上手なのだそうだ。家事全般出来ると聞き、虹子のなかでつい、石田への期待値があがってしまう。
「ないけど……帰ったら、一緒に、飲もうか?」
歌うような石田の声の響き。
釣られて虹子のこころは弾んでしまう。「じゃあ、ちょっとお酒とか買ってこうかな。清太郎さん、柿ピーとか好き? 柿ピーはね、わたし、亀田のものって決めているの……」
「待ってる」と石田。「虹ちゃん……会って、これからのことを、話そう。……て焦りすぎだねぼく。今日は、とにかく、虹ちゃんのお疲れ様会をしよう……気をつけて帰ってきてね」
「食べたいものがあったらメッセで教えて」
「うん……分かった」
電車に乗って帰宅していると、携帯がふるえた。石田からのスタンプは、ハートマークであふれている。
「……ふふっ」
思わず、笑みを漏らす。この年になって、新しい愛の予感に身をふるわせるだなんて、想像だにしていなかった。子どもたちと共に。子どもたちのことだけを考えて、残りの人生を生き抜く覚悟でいたのに。新たなる可能性を切り開く、愛という存在。
帰り道、虹子は、ただ、石田だけのことを想った。いまだけは、石田以外の誰のことも、考えたくなかった。
愛は、こころを自由にする一方で束縛もする。
すこし春のあたたかさへの予感を感じさせる、冬のやわらいだ空気に包まれ、帰宅の途につく虹子の目には、世界が、きらめいて見えた。いつもとはなにかが違って見えた。
『――虹ちゃん』
あの男の声が、好きだと思う。女としての本能が、認めてしまう。たったひとりの孤独な魂を揺さぶる、その存在を。
(ありがとう、って、言わなきゃな……)
手から、ビールや柿ピーの入ったビニール袋をぶらさげ、ぶらぶらと。虹子のこころは、たったひとり、他の誰にも奪えない領域を支配する存在に向かっている。
どうしようもなく、あの男の声が、聞きたかった。
頑張ったね虹ちゃん――なんて言って、あのたくましいからだのなかに抱き締めて欲しい――。
(やだわたし……)
虹子は、赤く染まった頬に触れる。いったい自分は、石田になにを期待しているのか。そもそも、石田のような、完璧な男を独り占めすること自体が図々しいというのに――コブつきの自分が。
けれど、もう臆病な子どもではない。
愛されることに当惑するのではなく、その愛情を受け止めてやる、大人の理性を宿した、成熟した人間として――彼の愛に、応えたい、と虹子は思った。
石田の喋り方。『虹ちゃん』と言うときのあの、あまい響き。はにかんだその表情――どれもが一体となって、虹子のささくれたこころを癒してくれる。愛とは、栄養なのだ、と虹子は思った。
それから帰宅するまで虹子は、本来であれば、勝彦を突き放した罪悪及び孤独に浸っているはずが。唯一無二の、石田への狂おしい恋情に満たされていた。
*