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「おうちにかえりたい」
妹りんが目に涙を浮かべて懇願した。
「口答えが多いな。普通なら怖くて声も出せないだろうに……それなりの痛みを味わったのは認めてやる」
それは姉妹への同情ではなかった。
誰からも同情という感情を受けたことのない高阪にとって、そうした概念など存在しない。
「逃げようなど考えるな。ここは大人でも簡単に見つけられない深い山奥だ。周りには誰もいないし、近くには獣がうようよいる。悪あがきせず、ただ俺の言うことを聞いてれば殺しはしない」
殺しはしない……。
その言葉に、姉妹の表情は一変した。
自分たちの置かれた立場を、幼いながらに理解したのだ。
高阪は黙って待った。
姉妹の心に現れるのは恐怖か。それとも恐怖を超えて現実を受け入れるのか。あるいは……クルミになるのか。
猟犬の訓練に似ているなと、高坂は思った。
それぞれがもつ適性をしっかりと識別する。
猟師にとって重要な能力だ。
姉妹は最終的に恐怖を前面に押し出した。
つまり、ふたりは心の底から父親を憎んではいなかったのだ。置かれた現実を知ることで、父のもとへは帰れないという恐怖に包まれたのだ。
それは高阪伸太郎にとって大きな意味をもっていた。
あんなゴミのところに戻りたいんだな。
ここにいるよりも、あのゴミといるほうがいいんだな。
怒りがゆっくりと込みあげてくる。
高阪は一度部屋を出て、ロープをもって現れた。
「手を出せ」
高坂の手にあるロープを見ては、姉のかなが突然涙を流した。
「ご主人さま。おねがいします。ころさないでください」
「いいから出せ」
すると妹のりんが両手を差し出した。覚悟を決めた目だった。
「くそっ、そうやってふたりで協力するな! むしずが走るんだ!」
高阪が激昂すると、姉のかなも同じように両手を前に差し出した。
ふたりは同時に涙を流した。
「……結局のところ、力がすべてか」
父のように、先輩社員のように、強さは常に甲であり、自分はいつだって乙だった。
「これからおまえたちをどう扱うかはじっくり考えよう。忘れるなよ。ここから逃げたら死ぬだけだ。俺の言うことさえ聞いておけば、おまえたちを救ってやろう」
「……はい。ご主人さま」
最初から彼女たちを殺すつもりなどない。父親であるゴミを苦しめるための、単なる道具であるだけ。姉妹が死んでしまうと、復讐は叶わなくなる。
「とにかくここでじっとしていろ」
そう言い残して高阪は扉から出ていった。
部屋に戻り焼酎を一杯飲み干すと、自然と笑みが浮かんだ。
人生で一度も笑ったことがないため、顔の筋肉がうまく動かなかった。それでも高阪伸太郎は数分間笑った。
*
4日後、檻に小さなイノシシがかかった。
かろうじて罠から逃れた母イノシシと他の子どもたちが、遠くから檻を見ている。
高坂がナイフをもって近づくと、危機を察したうり坊が檻の中を走り回った。鉄柵に頭をぶつけ、反転してはまた柵に頭から突進する。
母イノシシは遠くから檻を見つめ、嘆き声を漏らした。うり坊との最後の挨拶のようだった。
やがてイノシシ一家は森の中へと消えていった。
高阪は材木工場の窓に視線を移した。
木の板が貼りつけられた窓の隙間。
3センチにも満たない狭い隙間には、2つの目が光っていた。
上にひとつ、下にひとつ。
上は妹の日沖かな、下は妹の日沖りんの目だった。
2つの視線は、檻の中で暴れるうり坊に注がれていた。
これから何が行われるのか。
何もない部屋で過ごす姉妹にとって、最高の見世物に違いなかった。
「幼い頭で、少しでも情報を得ようとしているな」
高阪は手作りの槍を高々と掲げた。
剣先が太陽光に反射し、不気味に光った。
2つの目がナイフの先を見つめている。
高阪はゆっくりと檻に近づき、柵の隙間に槍を差し込んだ。
疲れ果てて寝転ぶうり坊が、再び錯乱状態となって柵の中を走り回った。
命を賭けた脱出劇だった。
しかし人が作った仕掛けの前では、イノシシの力はあまりに無力だった。
「おまえたちも同じだ」
高阪が少女たちの方に目をやった。
ふたりの瞳孔が開いているが、遠くからでもわかった。
少しずつ、少しずつ。
高阪は自尊心というものを知りつつあった。
乙から甲へ。
幼いふたりの人間が、俺を甲へと引き上げてくれる。
やはり獣と人間は違う。
圧倒的な力で獣どもを制圧してきた過去には、一度も味わったことのない感覚だった。
高阪は身をかがめてうり坊を狙う。
ナイフの先は、顔の下、心臓あたりに向けられている。
キアアッ!
ナイフがうり坊の心臓を正確に突き刺した。
甲高い断末魔があたりに響いた。
血が壊れた水道のように吹き出し、うり坊はさらに檻の中を駆け回った。だが次第に力を失ってはその場に倒れた。
どうにか立ち上がろうともがいている。バタバタと震える4つの足には、もはや力の源となる血液は残っていなかった。
電流が流れるように痙攣をはじめると、高阪はゆっくりと檻を開けた。
後ろ足を掴んで引きずり出し、その小さな体を逆さにもち上げた。
血まみれのイノシシが徐々に少女たちの方へと近づいてくる。
うり坊が命の最後に見た景色は、垂直に並ぶ2つの目だった。
「これからおまえたちにうまい昼食を作ってやる」
高阪の声は、少女たちには届かない。