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俺の増殖。
この忌々しい状況をどう乗り越えるべきか。
3人の勇信は、毎晩遅くまで話し合いを続けた。
キャプテンは酒を飲みながら思慮をめぐらせる。
ジョーは腕立て伏せをしながら意見を述べる。
ふたりの発言に対し、つねに反対意見を出してばかりのあまのじゃく。
それぞれが異なる方法で問題解決に取り組んでいた。しかしいつも結論は同じだった。
結局は勇信ひとりの考えだ。
様々な角度からアイデアを出し合ったとしても、勇信という型から抜け出せるはずはない。
吾妻勇信討論会は、今夜も沈黙のうちに終わった。
午前2時半。
「ふたりはそろそろ寝ろ。俺は今日出た問題点をまとめておくから、明日にでも内容をチェックしてくれ」
「あらためて思うが、自分を制御するためのルールが必要だなんて……。わかってはいるが、あまりにバカバカしい」
キャプテンはジョーの意見に眉をひそめてコーヒーを飲んだ。
ほんの少し前まで、企業の大きな決断を下す立場にあった。何よりも大切だったのは、吾妻グループ全体であり、また社員とその家族たちだった。しかし事がこうなった以上、もう出社するわけにはいかない。
会社の重責を担う吾妻勇信は他の者の手にあるのだ。それも他人ではない、別の自分の手に。
キャプテンは壁の時計を見た。
約3時間後の朝6時には、他の勇信のために目玉焼きを作らなければならない。
「他の俺のために料理をする……。何度自分に言い聞かせても、わけがわからない」
吾妻財閥の常務取締役という職から自分を切り離すのに、丸一週間ほどかかった。
『キャプテンは吾妻勇信だが、吾妻グループの常務ではない』。
この事実がようやく頭の中に定着しはじめていた。
朝の6時になると、フライパンを温め、手に卵を掴んだ。
「おい、卵よ。おまえは生まれる前にこの世から姿を消す。でも俺は、生まれた後に姿を消したんだ。体も心もすこぶる健康なのに、ひきこもり生活を送らなければならない。いったい何なんだこれは……。教えてくれよ、卵」
パチパチという音を立て、卵が焼けていく。
「俺はもう吾妻財閥の息子ではない。他の吾妻勇信のために、料理を提供する吾妻勇信だ。理解しているし仕方ないことだが、興味のない料理に手をつけるのはなかなか大変だ」
キャプテンがそうつぶやくと、タブレット画面の中の女性が明るくほほ笑んだ。
「では最後に塩を振りましょう。これで目玉焼きの完成です。ただあまり早く取り出すと半熟になります。また遅すぎると焦げてしまいますので気をつけてください。みなさん、料理の基本は何かわかりますか? 食材を最もおいしい状態でフライパンから取り出すことです。基本なくして応用などありません。そのことを忘れないでくださいね!」
料理レッスン動画の第1回が終わった。
キャプテンは焦げた目玉焼きをゴミ箱に捨て、最初から動画を見直した。
ようやく卵焼きに成功すると、次は包丁をもってキャベツの千切りに挑戦する。
「ではキャベツをこのように押さえて、端から包丁を入れていきましょう。トントントントンとリズムよく行ってください」
「こうだな……」
キャプテンはキャベツに包丁を当て切り込んだ。
「包丁を使うときには注意が必要です。思ったより刃が高くまで上がるのと、力を加える位置にも慣れていませんので指を切らないよう気をつけてください」
「理にかなっているな」
包丁を掲げる手がプルプルと震えた。
勇信にとっての千切りは、常に糸のように細いものだ。
そうでない千切りなど見たことも、食べたことがない。
左手でキャベツを押さえ、指を折りたたんで、包丁の場所を決めて下ろす。しかし細いキャベツが、下にいくほどぶ厚くなってしまった。
「ふむ、角度が悪かったようだな」
再び体勢を整え、包丁に力を込めた。
サクッという歯切れのよい音とともに、細い糸のようにキャベツが切れた。
ふぅ、とため息をつき、凝り固まった首をぐるりと回す。
再び姿勢を正し、包丁を下ろす。
きれいな細切りのキャベツがまな板の上に横たわっている。
「ほれみたことか! 俺は何だってできるんだ!」
先ほどまで暗かったリビングルームに、朝日が差し込みはじめた。
30分の格闘のすえにキャベツを切り終えると、手首と指は使い物にならないほど疲弊していた。
俺が作るサラダを、誰かがおいしく食べる。
まぁ、悪くない。
構造としては、顧客に提供する製品と同じこと。
ただ顧客が自分自身であるのが解せないだけ。
「このまま追求していけば、これはこれでおもしろいかもな」
料理レッスンは第3話の後半へと突入していた。
「では切るのに慣れたところで、少しスピードを上げてみましょう」
講師は明るい笑顔でキャベツを切りはじめた。
とてつもない速く、またリズミカルだ。
キャプテンはタブレットPCを見つめ、講師の動きを記憶しようとした。絶妙な間隔で移動する手と包丁。垂直方向におろされる切っ先。嫌味のない笑顔までもが完璧だった。
キャプテンは講師を真似て笑顔を作り、千切りを再開させた。
その直後――。
「ぐああっ!」
「ぐああっ!」
キャベツを押さえていた左手に激痛が走った。
刃が指を切り、キャベツが血だらけになっていた。
痛みは思った以上にひどく、水で洗い流そうと蛇口に手をやる。
するともうひとつの手が現れ、キャプテンの手とぶつかった。
「なんだ!?」
「なんだ!?」
声がステレオとなって響いた。
全裸の勇信がとなりに立っていた。