「なぁ。朝食の支度。くっそ簡単なもんになっけど俺にさせろ。――お前は俺が呼ぶまで寝室で布団にくるまっとけ」
「けど――」
「腹、まだ痛ぇんだろ? 仕事も休む気ねぇーみてぇだしさ。家にいる時くらい俺に甘えとけ」
信武自身も、しばらくはバタバタするみたいな宣言をしておきながら、この言いよう。
不破みたいにふんわりほわほわな綿菓子的甘さではないけれど、信武も相当に彼女をダメにするゲロ甘系の男らしい。
うー、と尚も言い募ろうとした日和美を、「素直に言うこと聞けねぇんならお姫様抱っこで寝室まで運ぶけどいいんだな?」と脅しつけてくるとか……ホント酷い。
「信武さんだって忙しくなるって言ったくせに」
すごすごと寝室へ向かいながらもそう言わずにはいられなかった日和美だ。
そんな日和美に信武が「バーカ。俺のはちぃーとサボりすぎたツケが回ってきただけだ。気にすんな」とニヤリとする。
信武が記憶喪失の男性・不破として山中家にいた期間なんて十日足らずだ。
それなのに。
作家と言う彼の職業を思えば、締め切りなどで作業が大詰めになっているのかも知れないけれど、超過密スケジュールですね⁉︎と思わずにはいられない。
(ちょっと前に蜜口が出たばかりなのに。休む間もなくすぐ別のお仕事に追われちゃうなんて。売れっ子作家さんって……ホント大変なんだ)
無意識。そんなことを思いつつ。お腹をかばうみたいに下腹部に手を当てながら寝室へ向けてトボトボと歩いていたら、背中越し。信武に「こんな時に早く帰れねぇですまねぇな? マジで一人で大丈夫か?」と投げかけられる。
大丈夫も何も、今までずっと。毎月一人で乗り越えてきた生理痛だ。
別に今更そんなに心配されなくても平気なんだけどな?と思った日和美だったけれど。
そこでふと、昨夜信武が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたことを思い出して、ぶわりと顔が熱くなった。
***
昨夜は風呂から上がってしばらくしたころ、湯冷めして身体を冷やしてしまったのだろうか。
生理痛が段々酷くなってきて、日和美はソファーでお腹をかばうみたいに身体を縮こまらせて痛みに耐える羽目になった。
そんな日和美を、横に座って不機嫌そうに見下ろしていた信武が、何も言わずにふぃっと離れて行った時にはお腹の痛みも手伝って泣きそうになって。
(こんな時こそ抱き締めてくれればいいのに)
とか、何とも勝手なことを思ってしまった。
ひとり鎮痛剤を飲んで、ソファの上。土下座スタイルでうずくまってうんうんうなっていたら、不意に背中に温かな手が載せられて。
「――?」
涙目で顔を上げたら、
「ほら、飲め。ちったぁー楽になるはずだ」
そっと身体を抱き起されて、湯気のくゆるマグカップを手渡された。
「え? 何……で?」
「うずくまっちまうほど腹痛ぇくせにそばで待っててもちっとも俺を頼ろーとしてこねぇ。……結局俺から動いちまっただろーが。……ホントお前強情でムカつく!」
吐き捨てるようにボソリと抗議されて。
何が何だか分からないままに握らされた温かなマグカップから、ショウガの香りがふわりと漂う。
「これ……?」
ぼんやり問い掛けたら、
「ショウガ湯だ。俺は男だからよく分かんねぇけど……身体温めたら痛みが緩和されるんだろ?」
ムスッとした顔でそう返された。
どうやら信武。冷蔵庫にあったチューブ入りのショウガと、棚にあった蜂蜜でちょっぴり甘めのぽかぽかのショウガ湯を作って来てくれたらしい。
「ホントはカモミールとかローズヒップなんかも効くんだけどな。お前ん家にゃねぇだろ」
さも自分の家にはあるみたいな口ぶりで信武がそう言うから、日和美は何だかおかしくなってしまった。
マグを手にしたままクスクス笑ったら「――書くのに色々勉強した結果だ。似合わねぇのは分かってるからそれ以上は何も言うな」とどこか照れたように話を終わらされて。
そんな信武の仏頂面をショウガ湯からくゆる湯気越しに見詰めていたら、「早く飲め」と急かされる。
ふぅーっと吐息をかけてひとくち口に含んだら、甘くて刺激的な液体が喉を通って胃に落ちていくのが分かった。
「ショウガ紅茶んが美味いけどさ、あれはカフェインが身体を冷やすから今日の所はそれで我慢しろ」
これはこれで美味しいのに、信武はどうも色々言い訳をしたいらしい。
きっと照れ隠しだ。
そんな信武の優しさが、日和美にはとても嬉しかった。
***
それを思い出した日和美は、信武に限って生理中だからと言う理由だけで自分を放り出すような真似はしないかな?と思い直す。
寝室の扉前。引き戸に手を掛けた状態で信武を振り返ると、日和美はニコッと微笑んでみせた。
お腹が痛いからうまく笑えていない気がしたけれど、そんなことはこの際どうでもいい。
「えっと……そんなに気を遣ってもらわなくても大丈夫です。忙しい時に移動時間が出来ちゃうのってもったいないですし……別に無理して戻っていらっしゃらなくても」
信武は、書くのは自宅が中心だと言っていた。
ここ数日、仕事をしにアパートを出るのだって、別にどこかへ出勤しているわけではなくて、自宅へ執筆をしに戻っているだけらしい。
そんな話を彼から聞かされていた日和美は、忙しい時なら尚のこと。行ったり来たりする時間がタイムロスになるのではないかと思って。
日和美だって一人前の大人の女性だ。生理痛だからってひとりで過ごせないわけじゃない。
このところずっと不破なり信武なりがいてくれたから(どちらも同一人物だけれど)ちょっぴり寂しく感じてしまうだけ。
まぁ本音を言うと夜中でも何でもいいから戻って来て欲しい。
最悪朝帰りでも構わないから朝食くらいは一緒に食べられたら幸せだ。
そんなことを思ってしまう程度には誰かと――というより彼といることに馴染み過ぎてしまっている自分に気が付いて、日和美は心の中、一人苦笑する。
笑顔がちゃんと取り繕えないのは、何も生理痛のせいばかりではなかったのかもしれない。
日和美の精いっぱいの虚勢に、信武は不機嫌そうに瞳を眇めると、
「そういう気遣いは俺のこと必要ねぇって言われてるみたいでムカつくから今後一切するな。真夜中だろうが午前様だろーが絶対帰ってくっからドアチェーンだけは閉めずにおけ」
吐き捨てるようにそう言うと、信武が「この話は終わり」とばかりにくるりと背中を向けて冷蔵庫を開けた。
日和美はそんな彼の背中を見遣りながら「暴君……」とつぶやいて――。
でも、言葉とは裏腹。
口元は自然とほころんでいた。
***
朝食はトーストに目玉焼きとウィンナー、それから冷蔵庫に入っていたトマトをスライスしただけのサラダと言う、何だか喫茶店のモーニングみたいなメニューだった。
「すまねぇな。このぐらいが俺の限界だ」
冷凍庫を開ければ日和美が色々ストックしている常備菜があるのだけれど、それをどう使っていいのか、またそもそも使ってもいいのか自体分からなかったのだろう。
冷蔵庫を開けて、とりあえず目についたものをかき集めたみたいなラインナップに、だけど日和美の心はほわりと温かくなった。
「私、時間ない時はトーストにバター塗っただけとかやっちゃいますよ」
リビングのローテーブル前。
信武が並べてくれた朝食を前にいただきます、をしながら言ったら、意外そうな顔をされる。
「日和美が?」
「はい、私が」
ここ最近は信武(や不破)がいてくれたからちゃんとした朝食を摂っていたけれど、一人の時なんてそんなものだった。
下手したら栄養補給のゼリーをチューッと吸ったら終わり、とか……そんな日だってあったくらいだ。
「一人ってそんな感じになりません?」
言ったら「確かに」とクスクス笑われて、日和美もつられて笑顔になる。
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