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「お前はこれな」 一旦リビングを離れてキッチンから戻ってきた|信武が、ほわりと甘い香りが湯気に乗って漂うマグを日和美の前に置いた。
それを見て、日和美が「ココア?」とつぶやいたら「ああ」と答えながら、自身は日和美の正面に座る。
「フードストッカーん中にあったから。鉄分も補給できるし血行もよくなって身体もぬくもる。腹痛が落ち着くまではコーヒーとか紅茶はやめてこういうの、飲んどけ」
自分はブラックコーヒーを飲みながらそんなことを言う信武に、わざわざ飲み物、別々に作ってくれたんだと思ったらそれだけで幸せな気持ちになれた日和美だ。
***
「――じゃあ、気ぃ付けてな」
いつもなら日和美が出た後で出かける信武だったけれど、時間が押していると言うのは本当なんだろう。
今朝は一緒に玄関を出て。
向かう方向が逆だったから、アパート前で別れたのだけれど、日和美が「行ってきます」をしたら信武にそう声を掛けられて、何だか無性に照れ臭くなった。
数歩歩いたところでちらりと振り返ったら、信武は彼と初めて出会った日――。布団を彼の上に落っことした時にスーツ姿で歩いて来た方角へ向けて逆走中で。
信武の背中を見遣りながら、日和美は信武のマンションはあっち方面なんだな、とぼんやり思った。
***
信武に朝食の支度をしてもらった日和美は、その流れで結局昼食用のお弁当を作り損ねてしまった。
それで、行きがけにどこかでお昼ご飯を調達しなければいけないな……と思っていたのに、ぼんやりしていてそのまま職場にたどり着いてしまった。
(習慣って怖いっ)
いつも何だかんだ言いながらお昼に食べるものは家でちゃっかり準備して持ってきていたから、行きしなに買うという感覚自体が抜け落ちていて。
生理痛は鎮痛剤のお陰か大分緩和されているけれど、集中力は落ちているらしい。
今日は昼休み、どこかでお弁当を買うなり食べに出るなりしなければいけなさそうだった。
***
比較的緩やかに時間が流れた午前中。
先輩たちは混んでいる時間帯は避けたいから、と言う理由で昼休憩は遅めが人気だ。
「先に行っておいでよ」
それで必然的。新入りの日和美がみんなから口々に正午過ぎのお昼休憩を勧められて。
日和美は十二時五分にお財布を手に外へ出た。
薄手のスプリングコートを羽織って出てきたのはお腹を冷やさないためだけれど、それでも今日はちょっぴり風が冷たくて肌寒い。
建物と建物の間を通り抜ける風がひんやり感じられるのは、恐らく太陽が雲間に隠れてしまっているからだろう。
ふと見上げた空は、厚めの層積雲に覆われていて、太陽が顔を出すチャンスは万に一つもなさそうに思えた。
そろそろ梅雨が来る。
それまでの間ぐらいもっと晴れ間を見られればいいのになぁ~なんてぼんやり思いながら、通りを一本入った先の一角にある小さなお弁当屋さんを目指した日和美だ。
お弁当屋さんと言っても、そこのお店はお弁当だけじゃなく、おにぎりも種類が豊富。しかもとってもリーズナブル。
『コロッケ亭』という名の通りコロッケがメインのお弁当が目立つお店だけれど、おにぎりの具材は鮭、昆布、高菜、おかか、梅……と割とオーソドックス。
日和美は今日、そこで鮭とおかかのおにぎりを買って、職場の休憩室で頬張ろうかなと思っている。
ついでにばら売りの肉じゃがコロッケを一つ買っても良いかもしれない。
ちょっぴり甘めの肉じゃがが入ったコロッケは、日和美のお気に入りだ。
(飲み物は自販機で温かいお茶とか買えばいいよね)
お茶、と思い浮かべた途端、信武がなるべくカフェインは摂るな、と言っていたのを思い出して……。
日和美は麦茶のホットあるかな?とぼんやり思った。
確か麦茶はノンカフェインだったはずだ。
よもやホットがなかったら愛用のマグカップに移して休憩室の電子レンジでチンをすればいいだろう。
やはりお昼時とあって、ちょっぴり待たされたけれどお目当ての品々は無事ゲット出来た。
ルンルン気分でおにぎりとコロッケの入ったビニール袋を振りながら歩いていたら、ふと通りに面したカフェが目に入る。
店舗外へ出された立て看板に『喫茶まちかど』と書かれたその喫茶店は、落ち着いた雰囲気の昭和レトロな店舗だ。
日和美自身バタバタしていてまだ一度も入ったことはないのだけれど、実は学生時代からいつか行ってみたいなと思い続けている憧れのお店だったりする。
(信武さんと一緒なら入れちゃうかな?)
小ぢんまりとした店内にはカウンターに五席、二人掛けのテーブル席が三つと、如何にも常連さんに支えられていますという雰囲気で。初めて入るお店としてはちょっぴり敷居が高いな?と思ってしまった日和美だ。
始終色んな人が出入りしているような、ムーンバックスコーヒーや、サリーズカフェ、ヨネダコーヒーみたいな大きめのチェーン店ならまだしも、マスターと奥さんが二人で経営しているようなこの喫茶店は、日和美にとって扉を開けること自体難易度が高い。
扉上に取り付けられたカウベルみたいないぶし銀のドアベルを響かせることが出来るのは、もう少し先かな?と思う。
窓ガラスの色味のせいだろうか。
外から見るとセピア色に見える店内は満席だった。
日和美は入ったことがないから分からないけれど、案外ランチセットなどがあるのかもしれない。
「――あ、れ?」
ふと窓近くの二人掛けのテーブル席につく男女を見た日和美は、思わず声に出してつぶやいていた。
左手に男性、右手に女性。
窓に横顔を向けて親し気に話している二人ともに日和美は既視感があった。
「信武さんと……えっと……」
見たことがあるはずなのに何故だか頭に靄がかかったみたいで、今一歩のところで真相に手が届かないもどかしさが募る。
そのまま窓辺に張り付いて彼らを見ているのはいけないことだと思って。
一歩、二歩と後ずさった日和美だけれど、一番逸らしたいはずの目線だけがなかなか二人から離れてくれない。
眉根を寄せて喫茶店から距離をとる日和美の視線の先。
腰まで届きそうな長い黒髪をポニーテールに束ねた、薄桃色のワンピース姿の女性が、信武の手をぎゅっと握る。
そのまま信武の目をじっと見つめて、二言三言何かを告げた後、信武の頭を親し気にふわふわと撫でた。
信武の柔らかな金髪が彼女の手の動きに合わせて形を変えるさまに、日和美は息を呑む。
信武に撫でられたことはあっても、日和美から彼にそんなことはしたことがなかったと気が付いた途端、何故だか分からないけれど指先にギュッと力がこもった。
信武だったらきっと……。 意に沿わないことをされたなら、相手の手を振り払うだろうなと分かるのに、そんなこともしないでおとなしく撫でられているから。
(……嫌じゃないんだろうな)
そのさまを見せつけられるのがしんどくてたまらないのに、目が釘付けになったみたいに離せないまま、日和美は喉の奥に何かがつかえたみたいな息苦しさを感じて身動きが取れなくなった。
心臓が押しつぶされそうな痛みにビニール袋を持っていない方の手で思わず胸を押さえて。
ここが外じゃなかったら、痛みの元凶の胸元を外側から搔きむしって、この痛さはそのせいだと錯覚してしまいたい、と思ってしまった。
プレゼントだろうか。
ひとしきり信武の頭を撫で回した女性が、すぐそばに置いていた小さな紙袋を彼に手渡して。
信武は中をチラリと覗き込むと、すごく嬉しそうに微笑んだ。
日和美はそんな二人のやり取りに、とうとうくるりと踵を返すと、それでも歩き出せないままにその場へ立ち尽くしてしまう。
「信武さんの、バカ……」
無意識に口をついて出た言葉に、自分自身驚いた日和美だ。
そんな日和美の頬を、一際強い風がざぁっと撫でて――。
それと同時、まるで水に濡れたところに風を当てた時みたいな冷たさを感じた日和美は、思わず頬に手を触れた。
(え、うそ……、なん、で?)
指先が濡れたことで初めて。
自分がほろほろと止めどなく涙を流しているのだと気が付いた日和美は、ますます困惑してしまう。
(――こんな苦しい気持ち、私、知らない……!)
日和美は手にしていたビニール袋をその場へドサリと落とすと、泣きながら駆け出していた。
――信武さん。貴方がそんな風に無防備になれる。その女性は誰ですか?