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おまる
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「…高瀬君。でも、これは私のプライベートなことで……会社を巻き込むわけには……」
震える声でそう言いかけた私の言葉を、彼は鋭く、そして静かな拒絶で遮った。
「いいえ。会社のドメインを冠したパソコンに届いた以上、これは単なる私事ではありません」
「明白な業務妨害であり、我が社のセキュリティに対する重大な脅威です。先輩一人の問題として完結させていい段階は、もう過ぎています」
高瀬君の声は、いつもの甘え上手な後輩のそれとは似ても似つかない
驚くほど冷徹でプロフェッショナルな響きを帯びていた。
彼は迷いのない手つきで、私の震える指をマウスからそっと退けると
代わりにその大きな手でデバイスを支配した。
モニターの青白い光に照らされた彼の横顔は
彫刻のように険しく、近寄りがたいほどの威圧感を放っている。
「まず、証拠の保全を最優先します。画面キャプチャ、ヘッダー情報の詳細コピー……」
「よし、PDF化と物理印刷も完了。……先輩、このメール、何があっても絶対に削除しないでください。これは、あの男を社会的に抹殺するための、警察への重要な提出物になりますから」
彼は機械的な正確さで淡々と証拠を揃えると、淀みのない動作でデスクの内線電話を手に取った。
受話器を握る指先に、強い力がこもっているのが見て取れる。
「部長ですか。営業二課の高瀬です。……はい、お忙しいところ恐縮ですが、例の嫌がらせの件で、今すぐお伝えすべき深刻な状況が発生しました」
「……はい、佐藤課長も同席します。今から伺います。失礼します」
「高瀬君……部長にまで報告するの? おおごとにしたくないって言ったのに……」
「おおごとにすべきなんです。会社に、あなたを守らせるんです。……行きましょう」
彼は短くそう告げると、私の背中にそっと手を添えた。
その掌の熱だけが、冷え切った私の身体に残された唯一の現実味だった。
部長室での面談は、終始高瀬君が主導権を握り続けた。
彼は、さきほど収集したばかりの証拠を整然と机に並べ
法的なリスク管理、そして何より社員の安全確保という観点から
淡々と、しかし力強く状況をプレゼンしていった。
「……以上の点から、これは明白な実害を伴う脅威です」
「会社として、佐藤課長の物理的な安全確保、IT部門による当該アドレスからの発信元ブロック、そして速やかな警察への被害届提出を強く具申します」
普段は「大型犬」のように懐いている高瀬君の
氷のような冷静さと気迫の同居した豹変ぶりに、部長は圧倒されたように数回瞬きをした。
だが、彼の論理的な説明に抗う余地などなかった。
「……わかった。高瀬君の言う通りだ。佐藤君、今まで一人で怖かっただろう。会社として全面的にバックアップすることを約束しよう」
「即座に警備員へ顔写真を共有し、社内への立ち入りを厳重に禁止しよう。法的措置についても、顧問弁護士と連携を取る」
その言葉を聞いた瞬間
胸の奥底にずっと居座っていた鉛のような塊が、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
「……あっ、ありがとうございます、部長」
一人で抱え込み、必死に支えていた壁。
その重圧から解放され、視界が急に開けたようだった。
部長室を後にし、静まり返った廊下に出たところで
私はようやく堰を切ったように深く息を吐き出した。
膝の力が抜けそうになり、壁に手を突く。
「高瀬君……本当に、ありがとう。私、自分一人でどうにかしなきゃ、職務を全うしなきゃって、そればかり考えてて……」
「……先輩は、頑張りすぎなんですよ」
高瀬君は、そこでようやく、いつもの柔らかい
陽だまりのような表情に戻って微笑んだ。
その落差に、不覚にも心臓が跳ねる。
「今は、頼ってください。会社も、警察も。……そして、俺のことも」
その言葉が鼓膜に届くか届かないかのうちに、私のデスクの方で電話が鳴り響いた。
警察からの、相談受理の連絡。
「鉄の女」として、自分を守るために築き上げてきた孤独な壁。
それは今、組織という巨大な盾と
隣で歩調を合わせてくれる一人の男の熱い献身によって、確実に塗り替えられようとしていた。