コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
褞袍に燃え移った火は、僅かな面積を焼いただけで消失した。無我夢中で炎を払い除けた紅林の手は、赤く腫れ上がり出血していたが、痛みを感じるよりも先に、理解し難い状況に陥った恐怖に、身体と脳が混乱し、その場にへたり込んでしまった。
自ら犯した罪を背負い、冤罪を主張することもなく大人しく死んでいった児玉詩織は、警察にしてみれば程の良い人物だった。
金欲しさに子供を誘拐し、殺害後に身代金を要求。その後、共犯の内縁の夫とその愛人をも殺害。戦後稀に見る凶悪犯罪に、世間の目も釘付けとなり、初動捜査の遅れを新聞各紙は指摘した。
そんな状況下で、入水自殺間際で保護された児玉詩織を、警察は徹底して調べ上げ、有りとあらゆる可能性を模索し、証拠を捏造した上で自白に追い込んだ。
世論も納得しているのだから、これは正義である。
と、捜査一課課長はしきりに話していたが、当時の紅林も同じ思いだった。
ただひとつ違うのは、課長は児玉詩織の死刑執行日の翌日に自殺したことである。
その理由を詮索する者はいなかった…。
紅林の記憶の断片は、破壊的に年老いた脳を追い詰めて行った。
目の前の女は、間違いなく児玉詩織である。
幾度もねじり上げた華奢な白い腕。
いつも潤んでいた抗議の眼差し。
長くて細い首筋と、小ぶりな胸の膨らみ。
忘れるはずがなかった。
紅林は後退りしながら、ゆっくりと近付く詩織の声を聞いた。
「ヨガマサノ、キイトキレルヤ、カスラムシ」
詩織は手のひらを口もとへあてた。
紅林は、恐怖に慄きながら叫び続けている。
そこには威厳も風格もなかった。
詩織がふっと息を吹くと、幽怨蟲の大群が宙に舞った。
虹色のちいさな甲虫がまず目指したのは、紅林の足の指と爪の隙間で、そこから体内へ侵入すると、全ての爪が剥がれ飛び、ギャッという悲鳴が室内に響き渡った。
詩織は言葉を続けた。
「カスラムシ、キイトカラメヨ、チシオナミカセ」
次に幽怨蟲の群れは、静脈内への侵入を始めた。
血管は静脈瘤となって足の皮膚を突き破り、赤黒い血液が吹き出して畳を染めた。
詩織は微笑みながら、血の海でのたうち回る紅林を見下ろした。
白く濁った左目に生気が宿る。
詩織は呟いた。
「死ね」
紅林の腎臓や膀胱を突き破った幽怨蟲の群れは、肝臓内で一旦留まり、臓器を膨張された。
鈍い音と共に背骨がへし折れる。
風船のように膨らみ続ける腹部で褞袍が裂ける。
紅林の身体が痙攣を始める。
体内の幽怨蟲は一斉に発光し、800度の熱を一瞬で放出した。
紅林は瞬く間に燃え尽きて、炭化した黒焦げの遺体だけが残された。