テラーノベル
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誰かが何か言っていた。
教室の空気が、またざわつき始めていた。
──でも、遥にはもう、何も聞こえていなかった。
耳の奥で、水の中に沈んだように、
ざらざらとこすれる声だけが響いている。
視線の端に、日下部の顔があった。
(やめて……見ないで)
そう言おうとしたのに、
口は開かなかった。
喉の奥が、固まっていた。
「遥、帰ろう」
──その言葉に、
遥の中の何かが、ほんの一瞬、ざわりと揺れた。
けれど。
違う。
これはそういう話じゃない。
「帰る」場所なんてない。
「帰ろう」なんて言われるほど、自分は人間じゃない。
──何で、そんな顔をするんだよ。
優しい顔なんか、しないでくれ。
誰かを信じるって、そういうことじゃない。
これは罰だ。ずっと前から決まってる罰だ。
(だって──日下部がいない間に、俺は……)
また“そういう目”で見られて、
また“そういうこと”されて、
また、何もできなかった。
助けてもらえなかったんじゃない。
──助けて、って言えなかったんだ。
「遥……」
自分の名前を呼ばれるたびに、
皮膚の下で、過去が疼いた。
あの日。
小さな旧校舎の一室で。
幼い日下部が、自分を床に押さえつけたときの──
あの、ちいさな痛み。
声は出なかった。
叫び方を、知らなかった。
なのに──
「……やめろよ。全員。今すぐ」
日下部の声が、もう一度響いた。
その言葉に、クラスの空気が凍った。
数人が舌打ちし、笑い声が小さくなっていく。
でも。
遥は、もう知っていた。
これは、止まらない。
止めようとするやつがいても、
“やったこと”は消えない。
それどころか──
日下部のその言葉が、
遥にとってはなによりも「残酷」だった。
「……俺、行くからな」
言って、日下部は遥の腕をそっと取ろうとした。
そのときだった。
「触んなよ」
声が出ていた。
遥の声だった。
教室中が一瞬、静まる。
「……は?」
日下部が、戸惑うように手を引いた。
遥は俯いたまま、微かに震えながら言った。
「来るな。今さら……見たくなかった。おまえにだけは……」
それは、呪いのような言葉だった。
(違う。本当は、違うのに──)
けれど、口に出した言葉は、
もう、取り戻せなかった。
日下部は、黙っていた。
その目に、確かに痛みがあった。
でも──遥の中には、もうそれすら受け取る余地がなかった。
“遅かった”。
“汚された”。
“見られた”。
そして──“信じてた”。
だからこそ、もう、無理だった。
──その夜。
遥は家に帰らなかった。
どこに行ったのかも、誰も知らなかった。
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