テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
音が、何もなかった。
天井から吊るされた蛍光灯は切れて久しく、
壁の時計も、針を止めたままだった。
遥は、旧図書館の片隅に座っていた。
ひとりで。
誰にも見つからない場所で。
この学校で、夜を過ごすのは初めてじゃない。
でも今夜は、意味が違った。
──家に、帰りたくなかった。
それだけだった。
帰れば、沙耶香がいる。
晃司がいる。
玲央菜がいる。
颯馬がいる。
──母がいる。
どうせ、全部知っているくせに。
「また、やられたの?」
「男のくせに、泣いてんの?」
そんなふうに笑う声が、頭の奥でこだまする。
(違う。泣いてない。泣く価値すらない)
泣けるような感情は、とっくに手放した。
ただ、鼓膜の裏で脈打つ心臓だけが、自分の存在を主張していた。
(なんで、日下部に……あんなこと言ったんだろ)
あの言葉は嘘だった。
ほんとは、あいつに来てほしかった。
でも、ほんとに来られたら──
もう全部が、壊れそうで。
“見られる”のが、怖かった。
“汚れた”って、思われるのが怖かった。
(……でも、もう、全部バレてる)
誰も助けてくれないってわかってる。
日下部にすら、「俺を見ていい」って言えなかった自分は、
もう、きっと“だめな側”なんだ。
そのときだった。
きぃ……と、ドアが軋む音がした。
遥はびくりと肩を震わせた。
息を殺す。
──けれど、何も起きない。
風かもしれない。
野良猫かもしれない。
それでも、怖かった。
この空間にすら、自分は「いられない」と思った。
誰にも見つからずにいたくて、
でも、誰かに見つけてほしくて──
その矛盾が、胸の奥で錆びついていた。
やがて、風の通り道が静かになる。
遥は、体育座りのまま、額を膝に押しつけた。
誰にも触れられたくなかった。
でも、誰かの指先が──優しい声が──
頭の奥で、こびりついて離れなかった。
(……ごめん)
誰に謝っているのかも、もうわからない。
家にいないことがバレたら、
沙耶香が“ごほうび”を用意してくる。
兄たちも、嗅ぎつけてくるだろう。
──でも、今夜は、どうしても戻れなかった。
今日の教室の匂い。
彫られた言葉。
背中に感じた手のひら。
誰にも止められない笑い声。
そして、日下部の目。
「……信じたかっただけ、なのに」
声にならない言葉が、口の内側で砕けた。
自分の中でいちばん深く、
誰にも知られたくなかった部分に、
もう誰かの手が届いてしまっていた。
(──これが、終わりだったらよかったのに)
思わず、そんな考えがよぎった。
でも、自分にはその勇気すらなかった。
だから、ここにいる。
学校という「牢獄」で、夜の闇を吸い込みながら、
遥はただ、ひとつの願いだけを胸に押し込んだ。
──誰にも、見つかりませんように。