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みら

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その日のうちに。
佐久間とラウールは、さっそくカフェの仕事を覚えることになった。
ちょうど気まぐれで店に来た渡辺も加わり、阿部と二人で教える。
「まずこれが水の場所ね。グラスはここ」
「はい!」
佐久間が元気よく返事をする。
「返事だけは完璧」
渡辺が言う。
「翔太ひどくない?」
「事実」
「ラウは?」
阿部が聞くと、ラウールは棚の位置を確認しながら頷いた。
「大丈夫。覚えた」
「早いね」
「佐久間くんよりは」
「なんで俺と比べるの!」
朝からずっとこんな調子だった。
それでも。
二人とも思っていたより覚えは早い。
阿部は、自分が最初に渡辺から仕事を教わった時のことを思い出した。
分からないことを忘れないように。
その場で一つずつ書いたメモ。
ドリンクの作り方。
カップやグラスの場所。
注文を取る時に気をつけること。
レジの簡単な手順。
今でも残してある。
阿部はそのメモを持ってくると、カウンターの内側に貼り始めた。
客席からは見えない場所。
でも、働く側からならすぐ確認できる。
「これ見れば、大体分かると思う」
佐久間が覗き込む。
「すご」
ラウールも横から見る。
「これ全部あべちゃんが書いたの?」
「うん。俺も最初分かんなかったから」
「字も細かいし、めちゃくちゃ分かりやすい」
「必要なことしか書いてないよ」
渡辺が笑う。
「最初からこんなん書いてたからね」
「だって覚えられなかったら困るじゃん」
「俺、そんなこと一回もしたことない」
「翔太は感覚でやるからでしょ」
「できるからいいの」
それを聞いて。
ラウールが少し笑った。
「やっぱりさ」
「何?」
「あべちゃん、学校の先生だったんじゃないの?」
阿部は手を止めた。
「学校の先生?」
「うん」
ラウールはごく自然に言う。
「数学教えるのも上手いし、人に説明するのも上手いし。こういうの作るのも、教えるのも慣れてる感じする」
「そうかな」
阿部は貼ったメモを見る。
確かに。
自分でも不思議なくらい、誰かに順番立てて説明することには抵抗がない。
「先生かあ……」
少し考えていると。
佐久間が横から入ってくる。
「あべちゃん先生?」
その言葉に。
ラウールの表情が変わった。
阿部からは見えない位置で。
佐久間を鋭く見る。
笑っていない。
明らかに。
それ以上言うな。
そんな顔。
佐久間もすぐ気づいたらしい。
「あー……いや」
慌てて笑う。
「なんか似合いそうだなって!」
「そう?」
「うんうん! めっちゃ似合う!」
少し不自然なくらい明るい。
阿部は首を傾げたものの。
それ以上は気にしなかった。
「昔何してたのかは分かんないけどね」
そう言って。
また仕事を教え始める。
その様子を。
目黒はずっとカウンター席から見ていた。
コーヒーを飲みながら。
話に割って入ることもなく。
ただ静かに。
阿部が佐久間にトレーの持ち方を教えて。
ラウールにドリンクの場所を説明して。
渡辺と一緒に二人の動きを見て。
時々笑っているのを。
ずっと見守っていた。
阿部がふと視線を向ける。
目黒と目が合った。
「……何?」
「何も」
「ずっと見てるじゃん」
「見てるよ」
「なんで?」
目黒は少し笑う。
「楽しそうだから」
それだけ言って。
またコーヒーを飲んだ。
阿部は少しだけ照れながら。
仕事へ戻った。
ランチ営業が終わる頃には。
佐久間もラウールも、かなり店の動きに慣れていた。
最後の客を見送り。
片付けを終える。
「疲れたー!」
佐久間が椅子に座る。
「まだ初日だけど」
渡辺が呆れる。
「初日だから疲れるんだよ!」
「俺は結構大丈夫」
ラウールは平然としている。
「ラウ若いから」
「佐久間くんもそんな変わらないでしょ」
「気持ちの問題!」
厨房から宮舘が声をかける。
「賄いできたよ」
その一言で。
佐久間がすぐ立ち上がった。
「涼太、今日何?」
「今日はエビチリ」
「最高!」
みんなでテーブルを囲む。
宮舘。
渡辺。
阿部。
佐久間。
ラウール。
そして。
ずっと店にいた目黒も当然のように一緒だった。
「いただきます」
食べ始めて少しすると。
佐久間が満足そうに言う。
「俺、もう仕事覚えた気がする」
「早くない?」
阿部が笑う。
「だって結構できたじゃん」
「まあ、思ったよりは」
「ラウも大丈夫そうだよね」
「俺はもう大体分かった」
ラウールが頷く。
「メモあるし」
「あれ便利だよね」
佐久間も続く。
「だからさ」
そう言って。
佐久間が目黒を見る。
「蓮」
「何?」
「もうあべちゃん毎日来なくても大丈夫だよ」
阿部が顔を上げる。
佐久間はにやっと笑った。
「いっぱいデート行きなよ」
「ちょっと」
阿部がすぐ反応する。
「仕事中に何言ってんの」
「今休憩中じゃん」
「そういう問題じゃない」
目黒はというと。
全く動じなかった。
むしろ。
少し嬉しそうに笑う。
「じゃあ毎日行こうかな」
阿部の箸が止まる。
「毎日?」
「うん」
「どこに?」
「どこでも」
「毎日は多くない?」
「だめ?」
目黒が見る。
阿部は返事に困る。
周りに。
全員いる。
渡辺は面白そうに見ているし。
佐久間はにやにやしている。
ラウールまで少し笑っている。
宮舘は何も言わないけれど。
確実に聞いている。
「……別に」
阿部は目を逸らす。
「だめじゃないけど」
「じゃあ決まり」
「決まってない」
「明日どこ行く?」
「もう決めるの?」
「毎日行くんでしょ?」
佐久間が楽しそうに口を挟む。
「佐久間は黙ってて」
「なんで!」
笑い声が広がる。
阿部は恥ずかしくて。
エビチリを食べることに集中するふりをした。
でも。
心の中では。
少しだけ。
違うことを考えていた。
毎日。
めめと出かける。
行ったことのない場所へ行って。
一緒に何か食べて。
写真を撮って。
また新しいことを知っていく。
それを想像すると。
胸の奥が少しだけ弾む。
楽しみだな。
誰にも聞こえないように。
阿部は心の中だけで呟いた。
その日の夜。
バーでは、康二がギターを抱えていた。
週に一度の弾き語り。
阿部がこの店で初めて康二の歌を聴いた時と、同じ曲だった。
静かなイントロが流れ始める。
優しいギターの音。
少し切なくて。
でも、最後にはちゃんと帰る場所があるような。
誰かのお守りみたいなバラード。
阿部はカウンター席に座ったまま、じっと耳を傾けていた。
「……」
知っている。
ような気がする。
でも。
知らない。
初めて聞いた時にも感じた、不思議な感覚。
曲そのものを覚えているわけではない。
歌詞が先に浮かぶわけでもない。
それなのに。
胸の奥だけが。
この曲を知っていると言っているような気がした。
阿部は少し眉を寄せる。
思い出せそうで。
何も出てこない。
その時。
隣に座っていた目黒の手が、そっと阿部の手に触れた。
阿部が見る。
目黒は何も言わず、康二の方を見たまま手を握ってくる。
阿部も自然に握り返した。
温かい。
それだけで。
何かを必死に思い出そうとしていた気持ちが、少しだけ落ち着いた。
曲はゆっくり進んでいく。
阿部は目を閉じた。
明るい場所。
たくさんの人。
歌っているような感覚。
誰かが隣にいるような。
ほんの少しだけ、何かが浮かびそうになる。
でも。
やっぱり。
何も思い出せなかった。
曲が終わる。
拍手が店の中に広がった。
阿部も笑って手を叩く。
「康二、やっぱりこの曲好き」
康二がギターを抱えたまま笑った。
「ほんま?」
「うん。なんか落ち着く」
「そっか」
康二は嬉しそうに笑う。
でも。
ほんの一瞬だけ。
何かを待っていたような顔をした。
阿部は気づかなかった。
演奏が終わり。
康二もみんなのいるテーブルへ戻ってくる。
その頃には、佐久間も来ていた。
「そういえばさ」
佐久間が目黒を見る。
「蓮、あべちゃんとデート行くんでしょ?」
「うん」
「どこ行くの?」
目黒はグラスを持ちながら少し考える。
「どうしようかなって思ってる」
「決めてないの?」
「まだ」
すると。
佐久間がすぐに身を乗り出した。
「プラネタリウムとかよくない?」
その言葉に。
阿部の胸が、ほんの少しだけざわつく。
プラネタリウム。
行ったことがあるのだろうか。
分からない。
でも。
なぜか。
その言葉だけが耳に残った。
「ええやん」
康二も続く。
「それか沖縄!」
「沖縄?」
阿部が聞き返す。
「そうそう。海めっちゃ綺麗やし、ご飯も美味しいし」
「急に旅行?」
目黒が笑う。
「デートの規模じゃないでしょ」
「ええやん、五泊六日くらい」
「長いよ」
阿部は笑う。
でも。
五泊六日。
その言葉にも。
なぜか。
胸の奥が少しだけ揺れた。
プラネタリウム。
沖縄。
どちらも。
知っているような。
でも。
やっぱり何も思い出せない。
「もう」
渡辺が呆れたように口を挟む。
「二人が決めるデートでしょ」
深澤も頷く。
「そうそう」
そして阿部を見る。
「あべちゃんが決めなよ」
佐久間が少しだけ黙る。
康二も。
何も言わなくなった。
阿部はそんな二人を不思議に思いながら。
「俺?」
「そう」
渡辺が答える。
「今あべちゃんが行きたいところ」
深澤も笑う。
「昔行ったことあるかとか、そういうのじゃなくてさ」
阿部は少しだけ目を瞬く。
昔。
その言葉が気になったけれど。
深澤はもう何でもない顔でグラスを飲んでいた。
目黒が阿部を見る。
「じゃあ、あべちゃん」
「ん?」
「どこ行きたい?」
改めて聞かれると。
悩む。
どこ。
今の自分が行きたい場所。
旅行。
水族館。
映画館。
買い物。
いろいろ浮かぶ。
でも。
ふと。
最近、店に来た家族連れの会話を思い出した。
子どもが楽しそうに話していた場所。
大きなお城。
キャラクター。
パレード。
一日中遊べる。
聞いているだけで。
なんだか楽しそうだと思った。
「あ」
「決まった?」
目黒が聞く。
阿部は少しだけ照れながら笑う。
「俺さ」
「うん」
「夢の国、行ってみたい」
目黒が少し目を見開く。
「夢の国?」
「うん」
「行ったことあるかもしれないけど」
阿部は笑う。
「覚えてないから、今の俺にとっては初めてじゃん」
誰かが。
一瞬だけ息を止めたような気がした。
でも阿部は続ける。
「この前、お客さんが話してるの聞いて。楽しそうだなって思ってた」
目黒の表情がゆっくり柔らかくなる。
「じゃあ行こう」
「ほんと?」
「もちろん」
「混んでるかな」
「それも含めて楽しめばいいじゃん」
「めめ、人混み大丈夫?」
「大丈夫」
目黒は笑う。
そして。
テーブルの下で。
さっきまでと同じように阿部の手を握った。
「手繋いで行こうね」
阿部の顔が少し熱くなる。
「……迷子対策?」
「違うよ」
「じゃあ何」
目黒は当然のように答える。
「恋人だから」
「みんないるところで言わないでよ」
佐久間がすぐ笑う。
「いいじゃん!」
康二も楽しそうに続く。
「ずっと手ぇ繋いどき!」
「康二まで」
阿部は恥ずかしくなって目黒の手を離そうとする。
でも。
目黒は離さなかった。
むしろ少しだけ強く握る。
「嫌?」
小さく聞かれる。
阿部は目黒を見る。
優しい顔。
この人と。
知らない場所へ行く。
今まで見たことのない景色を見て。
一緒に笑って。
また写真を増やす。
そう考えると。
胸が弾んだ。
「……嫌じゃない」
小さく答える。
目黒が嬉しそうに笑った。
プラネタリウムも。
沖縄も。
何かを知っているような気はした。
でも。
結局。
何も思い出せなかった。
それなのに。
不思議と。
今日は残念だとは思わなかった。
昔の自分がどこへ行ったのかより。
今の自分が。
めめとどこへ行きたいのか。
その答えが一つ増えた。
それだけで。
今は十分な気がした。
コメント
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ああ、もう、この回めっちゃ良かった……!