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「お父さんが倒れた?わかりました。○○病院ですね?すぐに向かいます」

わたし、水沢祥子は休憩室で留守電を聞いた。

父親がアトリエで倒れていたところを通いの家政婦が発見し、すぐに病院に搬送した。どうやら脳梗塞を起こしたらしく、今も意識混濁が見られた。

医師の話では左半身に麻痺が残るかもしれないという。ただ、わたしは左半身麻痺でも命だけは助かってほしいと切に願った。

父親は高名な画家である。若くして才能を開花させた父親。水沢峻三氏は日本のみならず、海外の画商をも唸らせる描き手であり、三年前には紫綬褒章を授与されるほどだった。だから、マスコミがこぞって病院に集まって、良い情報、悪い情報、なんでもいいからニュースバリューになりそうなネタを持って帰ろうと必死だった。

わたしは水沢峻三の娘であるが、マスコミはわたしを娘だとは認識していなかったので、正面玄関から堂々と入ることができた。

病室の前には家政婦の平川宮子さんがいた。顔は真っ青で事態の深刻さを物語っていた。

宮子は何を訊いてもしどろもどろで、要領を得なかった。

処置室から医師と看護師が姿を現した。

医師は非情に厳しい表情だった。

父親は午前三時前後に脳梗塞を発症した。真夜中は家には誰もいない。わたしは三年前に家を出て一人暮らしをしていた。だから、父親の世話は家政婦の宮子さんに任せきりだった。

母親を亡くしたわたしたち姉妹は父親に育てられた。母親は病弱だったこともあり、早逝した。母親からの愛情をわたしは注ぎ込まれたが、妹は生まれて間もなく母親が亡くなったこともあり、愛情を受けられなかった。

そんな不憫な妹の母親代わりになった。妹は母親がいないことで、情緒不安定になった。夜中に突然、癇癪を起したかのように泣き叫ぶことがあった。その度にわたしは妹を寝かしつけるまで傍らに寄り添った。

そんな中、父親は家政婦を雇った。経済的に余裕ができたこともあったし、わたしの負担を少しでも減らしてやろうという親心があったのかもしれない。

父親は絵を描く以外に能がなかった。家事ひとつまともにやれた試しがなかった。もし、わたしや家政婦がいなかったら、父親は餓死してもおかしくはなかった。

だけど、わたしたちが学校へ行けたのも父親がいてこそだ。互いに迷惑をかけているのだから、それが家族というものだと思った。

その父親が倒れた。今更ながら、わたしは家を出たことを後悔した。

もともと父親とは反りが合わなかった。わたしは大学を卒業したら家を出ようと考えていた。だが、あの事件が起きてからわたしを取り巻く状況が変わった。

あの事件とは、妹の亜美がトンネル内で皮ベルトで首を絞められ、殺害された事件。当時はセンセーショナルな事件だったため、マスコミが過熱報道した。

何よりも、被害者があの高名な画家、水沢峻三の娘という事情もあって、マスコミはハイエナのように家の周りをうろついた。

父親はマスコミの前で顔を真っ赤にして怒鳴った。おまえらは血も涙もない人間の集まりだとカメラに向かって吠えた。

わたしもマスコミからしつこく、亜美のことを訊かれた。わたしの職場である信用金庫にも押し寄せた。わたしの精神は決壊寸前だった。

その時、上司の課長がわたしの防波堤になってくれた。父親然り、こういう時に男性というものは頼りになると思った。だから、わたしが一人暮らしをすれば、マスコミの格好のターゲットになると父親は考えた。わたしも父親と同じ考えに至ったので、一人暮らしの計画は先延ばしになった。

しかし、マスコミが妹は被害者にもかかわらず、妹がパパ活をして、男をたぶらかしていただのと、根も葉もない誹謗中傷を始めた。

マスコミは犯人の男もパパ活でストーカーと化した被害者だと言って、被害者を叩き、加害者を擁護する論調になった。勝手すぎると思った。一番悪いのは加害者であるストーカーなのに。

加害者は陸奥丈雄という三十代の独身男性だった。亜美とはSNSで知り合い、二度ほど会って、デートをしたらしい。工場に勤めていた陸奥は、なけなしのお金を亜美のために使った。

三度目のデートを申し込もうとしたが、無視され、それが引き鉄になってストーカーになった。

メディアに頻繁に顔を出している社会学者は誰でも、ほんの些細なきっかけでストーカーになると言った。陸奥はストーカーになる前は堅実な男で、酒、ギャンブルすらやらなかった。そんな生真面目を絵に描いた男がストーカー殺人にまで手を染めてしまうという現実に、市民は慄然としたことだろう。

父親はみんな、どうして加害者を擁護する方向に向くのだろうと、悔し紛れにわたしに訊いた。

それはわたしが訊きたかった。もちろん、明確な答えをくれるものなどいなかった。

わたしはしばらく休職することになった。わたしは事件の当事者になって初めて、被害者感情を知った。それと同時に、亜美が殺害された日、ゼミ合宿で長野でキャンプファイアーを楽しんでいた自分が許せなかった。あの時、亜美は恐怖のどん底にいた。なのに、わたしは能天気に合宿を楽しんでいた。

わたしはそんな自分を擁護したい気持ちが働き、父親になぜ迎えに行かなかったのかと詰った。

父親はすべては自分の責任だと素直に認めた。いつもはわたしの攻撃にやり返してくる父親は、この時ばかりは牙を抜かれていた。

亜美はストーカーのことはわたしたち家族に言及しなかった。黙っていた理由はわからないが、亜美は心配をかけまいとしていたのかもしれない。

それともパパ活をしていたことを秘密にしたかったのか?それにしても、亜美が一言でもストーカー行為をされていることがわかっていたら、殺されずに済んだのかもしれない。

わたしはそう考える度に、歯噛みした。


事件は犯人の男が自首してきたことから、簡単に幕引きとなった。

思えば、事件は形式的に終わりを迎えたが、加害者と被害者がいる限り、終わりはなかった。

陸奥が捕まって罪を悔い改めたところで、亜美は戻って来ない。その命を奪った人間が改悛したところで、被害者遺族には空々しく聞こえるだけだ。

ストーカー規制法があろうとも、それは抑止にはならない。亜美と同じように被害者を量産しているこの国の病巣を治療する手立てはもう、ない。

ただ、事件が起きる度に、加害者の素顔と被害者の素顔がマスコミによって晒され、市民はそれに対して好奇な眼差しを向けるだけだった。

父親の意識が戻ったと看護師が知らせてきた。

ベンチで憔悴していた宮子さんとわたしは弾かれたように立ち上がると、処置室に飛び込んだ。

父親は酸素マスクをしていた。顔色はいいとは言えないが、目を開けて何が起きたのかわからない様子でわたしたちを見上げた。

「ご主人、わかりますか?平川宮子です」

宮子は父親の傍らに寄り添って手を握った。

わたしはというと、ただ突っ立ったまま、父親の変わり果てた姿を見下ろしていた。

「ああ、宮子さんか。ありがとう。宮子さんがいなかったら、わたしは今頃、天国だったよ」

「何をおっしゃいますか。縁起でもありません。ご主人、ご主人はアトリエでカンバスの前で倒れていましたのよ。それも絵筆を握ったまま。ご主人も歳なんですから、仕事はセーブしていただかないと」

宮子さんは軽く窘めた。

「そうか。うん。わたしも絵を描くこと以外、何もないからな。どうしても完成させたい絵があってね。これからは気を付けるよ」

父親はわたしに視線を転じた。

「お父さん、やっぱり一人暮らしは何かと心配だから、わたし、家に戻ろうか?」

「いや、大丈夫だ。祥子はもう、いい大人だ。わたしから巣立って当然だ。そう言えば仕事はどうした?」

「今日は半休をとったから。それより、具合はどう?」

わたしは自然と顔が強張った。父親とは実を言うと、ここひと月ばかり会っていなかった。仕事が繁忙期ということもあったが、折り合いが悪い父親と会う必要性を感じなかった。家政婦の宮子さんから、ちょくちょく父親の近況も聞いていたので、尚更距離ができた。

「ああ、しばらく寝てなかったから、いい休養になりそうだ」

看護師が入室して、面会の時間の終わりを告げた。

まだ、完全に完治したわけではないので、これ以上のおしゃべりは厳禁となった。


「握った絵筆を取れなかったから、ご主人は絵筆を握ったまま病院に運ばれたのよ」

帰りのタクシーの中で宮子さんは笑いながら話した。今こうして笑っていられるのも、父親が一命を取り留めたからで、もし、意識が戻らなければ、こんな雰囲気ではない。

「お父さんは本当に絵ばかり描いてたから、お母さんの容態が悪くなったことにも気づけなかったんだなあ」

「まあ、確かに男の人は仕事に夢中になると周りが見えなくなるそうだから。でも、男の人は家庭を持ったら、家族を養わなければならないから致し方ないと思うわ」

わたしは宮子さんの横顔を見つめた。宮子さんはうちに入って三年以上経つが、わたしは彼女のことを何も知らない。宮子さんもわたしのことや亜美の事件のことを知っているかどうかは疑わしい。

亜美の事件は十二年経って世間から忘れ去られようとしていた。でも今はインターネットですぐにわかる。酷い時は被害者の顔写真まで載っている場合がある。どこの誰が無断で写真を載せているかわからないので、対処のしようがない。

「宮子さん、本来、娘のわたしが父親の身の回りの世話をしなければならないのに、宮子さんに任せきりで、これからはわたしも協力します」

「大丈夫よ。祥子ちゃん。祥子ちゃんはキャリアウーマンだもの。お仕事に専念なさって」

「ありがとうございます」


タクシーから降り立つと、すっかり日が暮れていた。

「ねえ、わたし、お夕飯作るから、いっしょに食べない?」

唐突に宮子さんが提案した。

正直、空腹を感じていた。宮子さんの料理は母親の味付けに近くて、わたしは好きだった。

考えてみれば、宮子さんの手料理をご馳走になるのは、本当に久しぶりだった。

一度だけ、宮子さんに味噌汁の作り方を教わった。自分でも試してみたが、宮子さんのようにはならなかった。

宮子さんは冷蔵庫の中にある材料で手早く調理をした。

テーブルには鮭の塩焼き、エビチリが並べられた。

不思議なことに食卓には三人分が配膳された。

「あの、宮子さん、一人多いような...」

「あら、そんなこと言ったら、亜美ちゃんがかわいそうじゃない。だって、今日は亜美ちゃんの誕生日でもあるんだから」

宮子さんは豆腐の鉢をテーブルに置くと、椅子に座り、いただきますと言った。

「あの、亜美のこと、知っていたんですか?」

「もちろんよ。ご主人もよく、妹さんの話をしてくれましたから。だって、亜美ちゃんの息遣いがするもの。だからね、こうやって誕生日になると、夕飯をひとつ増やしてるの。亜美ちゃん、今夜はお姉さんもいっしょよ」

宮子さんは天井に向かって言った。

わたしは隣の椅子を見た。いる!亜美は存在していた。

「お姉ちゃん、仕事、頑張り過ぎないで。お姉ちゃんは部活動はやってこなかったから、体力面は心配だな」

わたしは隣の亜美に微笑む。

「何言ってるの?わたしは最寄りの駅まで片道十五分以上歩いているんだからね」

わたしと妹の会話に、宮子さんは涙を流した。


「実はご主人には見せないようにと釘を刺されているんですけど...ちょっとだけですよ」

夕食の後に、わたしは父親がどのような絵画制作品に取り掛かっていたのか、興味が湧いた。

それは好奇心というよりも、父親の深層心理に触れたいという気持ちからだった。

アトリエはわたしが生まれてから父親の聖域だった。だから、常に鍵がかけられていた。

鍵は母親が持っていた。わたしは一度だけ、母親におねだりして、アトリエを見たいと言ったが、母親は首を縦に振らなかった。

人には見られたくないものがある。亜美も人に知られたくないものがあったからこそ、事件に巻き込まれるまで、わからなかった。

宮子さんは扉の前でわたしを振り返った。わたしは緊張して、暑くもないのに汗をかいた。

扉が開かれた。

そこには画布がかけられたカンバスがあった。宮子さんが画布をかけたらしい。

宮子さんは再び、わたしを直視した。わたしが頷くと、画布を勢いよく払った。

わたしはカンバスの絵に釘付けになった。

足音 わたしとストーカーの60日戦争

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