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冨岡義勇視点――
午後の陽が障子越しにやわらかく差し込み、畳の上に長方形の淡い光を描いている。
蝶屋敷の一室。義勇は報告書を机に広げ、黙々と筆を走らせていた。背筋はぴんと伸び、眉間には自然と小さな皺が寄っている。紙の上を墨の濃淡が流れてゆく様は、まるで水面に波紋を描くように静かだった。
――ふと、すぐ側に気配を感じる。
足音はない。けれど、空気の密度が変わる。
その変化が誰のものか、義勇はもう知っていた。
「そんな真顔ばかりじゃ、モテませんよ?」
軽やかで、ほんの少しからかいを含んだ声が耳に届く。
筆先が紙の端で止まり、義勇は顔を上げた。
そこには、蝶屋敷の主――胡蝶しのぶが、にこやかに立っていた。
その笑みは、花が風に揺れる瞬間のように自然で、見る者の視線を無意識に惹きつける。
「……俺は別に、モテたい訳じゃない」
義勇は淡々と答え、また視線を報告書に戻そうとする。
しかし、しのぶは動かない。むしろ、彼の正面に回り込み、机越しにじっと見つめてきた。
距離が近い。
彼の呼吸と、彼女の吐息が混ざるほどに。
「……」
義勇が無言のまま視線を逸らすと――。
ふいに、両頬に柔らかな感触が触れた。
しのぶの両手が、彼の顔を優しく包み込んでいる。
ひんやりとした小さな掌が、火照りを帯びつつある義勇の頬をそっと覆い、その指先がわずかに震えているのを感じる。
「じゃあ……私には?」
その声はさっきまでの軽い調子ではなかった。
わずかに瞳が潤み、頬に紅が差し、上目遣いで義勇を見上げている。
いつもの挑発的な笑顔とは違う、どこか儚げで、真っ直ぐな視線。
――近い。
まつげの一本一本まで見える距離。
義勇の胸の奥が、不意打ちのように跳ねた。
「……っ」
瞬間、義勇は息を詰め、視線を横へ逸らした。
普段、人の感情に動じない彼の表情が、一瞬で崩れる。耳の奥がじんわり熱くなるのを自覚するが、抑えられない。
しのぶはその変化を見逃さない。
くすり、と口元が緩む。
「あ、照れました??」
声音に甘い笑いが混ざる。
「……してない」
「うふふっ、可愛いですね♡」
義勇の無表情を崩すことに成功した満足感が、しのぶの顔にあからさまに浮かぶ。
そして小首を傾げ、まるで秘密を囁くように言葉を続けた。
「義勇さんのそういうところ……私、大好きですよ」
彼女はそのまま、ゆっくりと手を離し、満足げな笑みを残して踵を返す。
すれ違うとき、ふわりと甘く清らかな香りが義勇の鼻先をかすめ、彼は一瞬だけ目を閉じた。
障子の向こうへと消えていく小柄な背中。
義勇は、その場からしばらく動けなかった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……お前は本当に……“戯れ”が上手いな」
耳はまだ熱を帯び、口元はわずかに緩んでいる。
それは、任務の最中でさえ滅多に見せない、柔らかな表情だった。
胡蝶しのぶ視点――
午後の蝶屋敷は、静けさの中にもどこか温かみがある。
障子から差し込むやわらかな光が、畳の上に淡い模様を描き出し、薬草の香りと一緒に部屋を満たしていた。
私は、ふと廊下を歩いていて、机に向かう背中を見つけた。
――義勇さん。
無言で筆を走らせているその姿は、まるで風のない水面のように静かで、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっている。
·····でも、私は知っている。
その奥には、少し不器用で、言葉より行動で気持ちを示す人間らしい温もりがあることを。
机の上の紙に向かう彼の顔は、今日も変わらず真顔だ。
眉間には小さく皺が寄っていて、あれでは誰かが近づこうにも躊躇してしまうだろう。
だから、つい口が動いてしまった。
「そんな真顔ばかりじゃ、モテませんよ?」
わざと軽く言ってみる。
振り返った義勇さんは、ほんの一瞬だけ私を見て――
「……俺は別に、モテたい訳じゃない」
すぐに視線を戻す。
それは予想通りの答え。
でも、私の狙いはその先だ。
机を挟んだままじゃもったいない。
私は机から少し身を乗り出し、彼との距離を詰める。彼は少しだけ面倒そうな顔をして視線を逸らす。
そんなところもまた、彼らしい。
さて、今日はもう一歩踏み込んでみようか。
私は両手をそっと伸ばし、義勇さんの頬を包み込んだ。
少しひんやりとした肌の感触と、私の掌の温度が混ざり合う。
彼が一瞬、息を止めたのがわかった。
「じゃあ……私には?」
瞳を少し潤ませて、上目遣いで見上げる。
声も、ほんの少しだけ震わせてみる。
そうすることで、からかい半分、本音半分の響きになる。
義勇さんの目が、驚きと戸惑いで一瞬揺れた。
……可愛い。
こうして心を揺らす瞬間を間近で見ると、なんだか得した気分になる。
「……っ」
やがて彼は視線を逸らした。
それだけで、私の胸の奥にくすぐったいような嬉しさが広がる。
「あ、照れました??」
「……してない」
「うふふっ、可愛いですね♡」
心の中で「してますよね」と笑いながら、最後の一押しをする。
「義勇さんのそういうところ……私、大好きですよ」
そう言って手を離し、踵を返す。
背中越しでも、彼がまだ動けないでいるのが分かる。
·····きっと耳まで赤くなっている。
廊下に出て、私は静かに息をついた。
――からかっているように見えて、本当は。
少しずつでも、あの頑なな表情を緩めたい。
その笑顔を、私だけが見られたらいいと思っている。
『恋する蝶の”戯れ” [続く]』
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