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放課後の図書室は静かだった。
カーテン越しに差し込む光が本棚の背を照らし、ページをめくる音だけが空間を満たす。
その片隅――
窓際の席に、一人で本を開いている男子生徒がいた。
整った髪型に、きちんとアイロンがけされた制服。
背筋はまっすぐ、目線は本のページからぶれない。
それが――ハヤテだった。
ココロは一瞬、躊躇した。
だが、自分の指先を見て、決意する。
(……この人なら、冷静に話を聞いてくれる。たとえ、“信じられない”話でも)
静かに足を踏み出し、ハヤテの前に立つ。
「……ハヤテさん」
その呼びかけに、彼はすっと目を上げた。
「……ココロさん。何か御用ですか?」
「……少し、話をしてもいいですか」
ハヤテは本を静かに閉じた。
「構いません。こちらへどうぞ」
彼は隣の椅子を軽く引いた。
その仕草も、彼らしく整っている。無駄がなく、そして静かだった。
ココロは座り、少しだけ躊躇ってから、指先を見せた。
「……ハヤテさん。これは、信じてもらえない話かもしれませんが……あたしの“手”が、消えかけているんです」
一瞬、空気が揺れる。
だがハヤテは、顔色を変えなかった。
「……なるほど。ジブンが想像していたよりも、少々非現実的なお話ではありますが……ココロさんが本気で仰っていることは、理解しました」
その返答に、ココロはほっと小さく息を吐いた。
「……あたしの存在には、“条件”があるんです。円ちゃんが、みんなとうまくやっていること。……喧嘩していないことが、条件なんです」
「それが……崩れたと?」
「はい。……でも、誰と喧嘩しているのか、わからなくて。円ちゃんは、あたしからも、距離を取っていて……」
ココロは、そこで言葉を止めた。
目を伏せたまま、拳を膝の上で握る。
「……自分のせいかもしれないって、思ってしまうんです。あたしが、円ちゃんに何かしてしまったのかもしれないって」
それは、珍しくココロの“弱さ”がにじむ言葉だった。
その静かな告白に、ハヤテはしばらく黙ってから――ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「貴女は、自分のせいだと感じているのですね」
「……はい」
「ですが……“誰かの心”を全て理解することは、決してできません」
ココロが、顔を上げる。
ハヤテは、静かな目で彼女を見つめていた。
「人の心は、目に見えません。見えないものに対して、正しい距離を保つには……“信じること”が必要です」
「……信じること、ですか」
「ええ。ジブンは、貴女が貴女なりに、円さんのことを想っているのだと感じました。その想いに、嘘はないはずです。ならば、信じることを恐れないでください」
「……でも」
「……それでも、どうしても不安になるのなら――向き合ってください」
ハヤテの声は、低く、揺るがない。
「“避けられている”と感じてしまうなら、なおさらです。想いを伝えることから逃げれば、すれ違いは深まるばかりです」
「……怖いです」
珍しく、ココロが素直な本音を口にした。
「距離を置かれるのも、話して“嫌われていた”とわかるのも……どっちも、怖いんです」
その震えた声に、ハヤテは静かに言葉を重ねた。
「……では、貴女にひとつだけ、言葉を贈ります」
ココロが顔を上げた。
ハヤテは、真正面から目を合わせて――まっすぐに、こう言った。
「人を信じるということは、痛みを受け入れる覚悟を持つということです。
ですが、その覚悟を持った先にしか、“通じ合う心”は存在しません」
ココロの瞳が、大きく揺れた。
まるで、その言葉が、胸の奥のなにかを照らしたように。
「……ハヤテさん」
「貴女が円さんを大切に思うなら、その想いは、必ず“形”になります。たとえ今は伝わらなくても。……だから、どうか、貴女自身を疑わないでください」
それは、どこまでも静かで――けれど、確かな“支え”になる言葉だった。
ココロは、膝の上の手を見た。
その手は、まだ薄い。けれど……さっきより、少しだけ温かく感じた。
「……ありがとうございます。ハヤテさん」
「どういたしまして」
「……貴方の言葉に、救われました」
ハヤテは、小さく頷くだけだった。
けれどその表情は、確かに――少しだけ、やわらかかった。
図書室を出たあと、ココロは窓辺で立ち止まった。
夕陽が差し込む校舎の廊下。そこを歩いていく生徒たちの声が遠く響いていた。
(……向き合う)
心の中で、もう一度つぶやく。
(信じることは、もう怖くない。逃げたくない。)
薄れかけた指先に、そっと力をこめた。
(……円ちゃん。ちゃんと話しましょう。あたしは、貴女を信じたい。)
その決意を胸に、ココロは静かに歩き出した。
放課後の廊下は、窓の外から差す夕陽で橙色に染まっていた。
その中を、ココロは一人歩いていた。
静かに、しかし確かな足取りで。
(……円ちゃんに、ちゃんと話をしないと)
そんなときだった。
──「ガシャーンッ!」
鈍い衝突音と、椅子か何かが倒れる音。
ココロは反射的に、音のした方向へ向かった。
音の出どころは、旧校舎の物置部屋だった。
扉をそっと開けると、ほこりっぽい空気の中で、そこに倒れているのは――
「……円ちゃん!」
膝をつき、両腕に擦り傷を作った円が、床にうずくまっていた。
その前に立っていたのは、見覚えのあるクラスの女子生徒ふたり。
「……やっぱり、あなたよね」
ひとりが低く唸るように言った。
「鈴蘭のように綺麗なココロ様を、汚したのは……あなただけ」
「……っ」
円は顔を伏せて、なにも言えない。
立ち上がろうとするが、脚が震えていた。
「あなたなんかとつるんだせいで、ココロ様は時折、悩んだような表情をお見せになるようになったのよ!」
「“円ちゃん”って、名前を呼ぶときのココロ様の声が、少し寂しげになるの……全部、あんたのせいじゃないの!?」
女子のひとりが、感情を抑えきれずに手を振り上げた。
「……あんたのせいよ! あんたのせいで!」
その手が振り下ろされる寸前――
「やめなさいっ!!」
風のように駆け寄ったココロが、円の前に身を滑り込ませ、
その体を抱きしめるように庇った。
「……ココロ……ちゃん……?」
円が呆然と呟いたとき、
女子の振り下ろした手は、ココロの頬を打っていた。
パシッッ……!
乾いた音が、物置部屋に響き渡る。
真っ白だったココロの頬に、赤い痕が浮かび上がった。
だが、彼女の目は、泣いてもいなければ、怯えてもいなかった。
その瞳は、ただ静かに、冷たく、しかしどこまでも強く女子ふたりを見据えていた。
「……貴女たちは、何をしているんですか?」
静かな声だった。
しかし、その場にいた誰もが一瞬で息を呑むほどの、張り詰めた空気を纏っていた。
そのとき。
「おい、何してんだよ……!」
声が響いた。
レキ、ヒカル、ケイ、カンジ、ハヤテ――
みんなが物陰から現れ、物置部屋の中に飛び込んできた。
「ココロ! 顔……っ、おい! 何があったんだよ!? 円、大丈夫か!?」
レキが血相を変えて走り寄る。
ヒカルが慌てて円を抱き起こし、ケイとカンジは女子ふたりの間に割って入る。
「……今の、見てた。見逃すわけにはいかねぇだろ」
ケイが静かに言い放つ。
だが、その混乱の中、ハヤテは黙っていた。
ゆっくりと歩み寄り、頬に痕の残るココロの前に立つ。
「貴女が、傷つく必要は、なかったのに」
低く、しかしはっきりとした声。
「……人間たちは、“想い”というものを、時に履き違える。
誰かを大切に思う気持ちが、本当にその人を守るとは限らない」
ココロが、少しだけ瞳を揺らした。
「貴女がどう生きようと、誰を想おうと、誰かに咎められることではない。
人の感情は、もっと複雑で、繊細で、……そして自由なものです。
だからこそ、誰かを傷つけることでしか伝えられないのなら、それは――“想い”とは呼べません」
その言葉に、女子ふたりの顔色が変わった。
「……ごめんなさい……。私たち……っ、ただ、ココロ様が……」
震える声が漏れた。
だが、ココロは彼女たちを責めることはなかった。
ただ、円の手を取り、静かに言った。
「円ちゃん、立てますか?」
「……うん、でも……ごめん、ココロちゃん……わたし、何も言えなくて……」
「違います。謝るのは、あたしの方です。……気づくのが遅れて、ごめんなさい」
円が、目を見開いた。
その手をぎゅっと握りしめる。
「貴女が、誰といても、どんな言葉を交わしても……それでも、あたしにとって“円ちゃん”は、大切な人です」
その言葉に、円の目に涙が溢れていった。
「……うんっ……!」
小さく、でも力強くうなずく円。
物置部屋の扉が開き、外の空気が流れ込んできた。
夕陽は、少しだけ赤みを増していた。
それはまるで、今ここにある傷と涙、そして想いを、やさしく包み込んでいるかのようだった。
ココロは、そっと振り返る。
顔を赤く染めたまま、毅然と立ち尽くす。
ふと、ココロに濡れた布が差し出された。
「……ほら、言ったでしょ?今の貴女、格好良かったですよ。」
ハヤテのその言葉に、ココロはふっと微笑んで頷いた。
物語は、まだ終わらない。
でも、たしかに今――少しだけ、心が近づいた。
つづく