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あの夜、強大な悪魔に支配されたアーサーは、言うも憚られる過ちを犯した。彼を抱いたあと、失神した彼を見てようやく正気に返ったアーサーは、動転したまま彼の部屋を飛び出し、本国へ帰った。それからすぐに第二次産業革命の波に飲まれた世界の中で、いつしか彼との一夜は過去のものとなっていった。
だから、顔を合わせてないうちに彼の弟分によって彼は傷つけられたのだ、と聞いた時も、過去の自身と弟の間の苦い思い出を想起した程度だった。薄情かもしれないが、国として何千年も生きるということは適度な忘却と無関心で成り立つものである。並の人間の精神なら発狂していただろう数多の歴史を超えて、それでもなお人として存在するために必要なスキルであった。
だが、こと親しい間柄にあった菊と耀に、忘却と無関心はどこまで作用するのだろうか。
開国以来国を挙げて近代化を目指す日本は、「脱亜入欧」の言葉の通り東アジア文化圏を完全に脱する覚悟をその刃でもって証明した。近代化に必死になる日本の背景にあの二度に渡る清との戦争があったというのなら、あの日アーサーが懸念したようにいつかのツケを払わされる時が来たということなのだろうか。
自分のまいた種だ、とアーサーは思った。東アジアのゆらぎは、あの日の懸念を体現したものなのだと。光栄ある孤立を捨てて日英同盟を組むに至ったのは、単にロシアと西欧の危機に由来するものではなかった。そして複雑な世界情勢の中に取り込まれることで、彼の存在とあの日の衝動について深く考えることを拒否した。
_日本の化身、本田菊はひどくおとなしい男だった。欧州には決していないような、もしいたとしてもプロイセンかフランスあたりに潰されていそうな、気の弱い男だった。しかし一方で、一度決めたら頑として譲らない頑固さと、なんだかんだと国際社会を生き抜く強かさをもった、なんとも不思議な男だった。島国同士であるからか、互いに孤立気味だからなのかはわからないが、アーサーと菊はとても気があった。菊のそばにいる時、アーサーはいつでも居心地の良さを感じていたし、それは欧州では味わったことのないものだった。菊との穏やかな時間は、長年の孤立からすっかり閉ざされいた、アーサーの氷でできた心の檻をじんわりと溶かしていった。
だから、信じられなかったのだ。今自分とにこやかに談笑しているこの男が、他方では軍拡を続け、東アジアを手中に収めんとしていることが。
そして日露戦争も、まさか日本の勝利で終わるとは思っていなかった。イギリスの支援とロシアの帝政打倒の動きが、これほど嵌まるなんて。
そして、危惧した。ロシアを破った自信を得た日本の国民が向かう先に。
中華民国の成立は大正時代の幕開けと相成った。
二年前の韓国併合を成功させた日本の勢いはとどまるところを知らず、次は中国へ、と矛先が向かったのも当然のことであった。
そして更に二年後、愚かな若きドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の野心が、地獄を引き起こした。
第一次世界大戦である。極東にかかずらっている場合ではなくなったイギリスも、日英同盟を口実に多少の日本兵とその他殖民地からの兵を引き連れ、八月には対独宣戦をした。そして彼の国は決定的な過ちを犯した。俗に言う三枚舌外交である。当初同盟(ドイツ、オーストリア)側で参戦していたイタリアだが、オーストリア有する未回収のイタリア問題により、15年のロンドン秘密条約で秘密裏に協商(イギリス、フランス、ロシア)側に参戦することを約束。さらなる兵力を求めたイギリスは、同年フサイン=マクマホン協定でアラブ諸国のオスマン帝国からの独立を認めることと引き換えにアラビア人兵を得た。しかし一方で英、仏、露間ではサイクス=ピコ協定によって戦後のアラブ地域の分割を進めた他、自分たちの故郷を求めるシオニズム運動の盛んなユダヤ人とも独立国家の約束であるバルフォア宣言を出す。当然、これらは矛盾する内容であり、それはイギリスも知るところであったが、とにかくと目先の勝利を優先したのである。
大戦前年に北部アルスター地方での暴動を、16年にはアイルランドでのイースター蜂起を鎮圧する必要にかられ、兵力と団結力が落ち込んだイギリス政府の苦肉の策とも言えよう。
かくしてロイド=ジョージ挙国一致内閣のもとで18年11月には休戦協定を、19年6月にはヴェルサイユ条約を結ぶに至った。
しかし、17年に北の大地で起きた共産主義革命は西側世界に大きな脅威を与え、15年の21か条要求に始まる日本の中国進出は懸念点として残った。
聞くところによると、21か条要求で中国国民の対日感情は悪化の一途を辿っているらしい。
どうしたって兄側の目線に立ってしまうアーサーは、中国の心痛を想うと同時に、あの穏やかな菊のどこに、それほどまでの兄への領土欲求が隠れていたのか不思議でならなかった。
大戦後も日本は表面上国際協調を取っているように見えたし、連盟の中心国として活躍してもいた。彼がその激しい片鱗を見せるのはいつだって彼の周りの国々に対してのみであったが、彼の本性が一体どこにあるのかはわからないまま、国際協調路線から同盟は解消してしまった。
同盟も解消してしまったあとはあまり会う機会もなくなっていたアーサーと菊だが、アーサーには菊の激情がなんとなくわかる気がした。あの夜、熱に浮かされたように耀をいたぶった自分の中に、菊が見えたのだ。体裁として日本の横暴を他の列強とともにたしなめたアーサーだったが、それらは耀を知らない国々の詭弁か、知った上で自分と同じようにしらを切っているのだと思わざるを得なかった。
一度あの熱に支配されてみろ!二度と俺や菊を非難できなくなるぞ!と。