テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
校門の影が、夕陽に溶けて消えていく。足元に伸びた自分の影は、まるで別人のように見えた。
遥は歩いていた。無言で、ゆっくりと。
どこにも帰りたくなかったが、立ち止まっている場所もなかった。
重たい空気の中、ただ一歩ずつ、靴の裏を地面にすりつけるようにして。
「……遥」
その声は、後ろからかけられた。
振り向かずとも、誰かはすぐにわかった。
喉の奥が、ひとつ鳴った。
日下部だった。
彼がここにいる理由はわからない。でもきっと、探していたのだろう。
そんな想像が、遥の胸の奥に、微かな波紋を落とした。
「もう、帰るとこ?」
どうでもいいような問いかけ。
だが遥の耳には、過去の記憶や想像や罪の意識までもが貼りついて聞こえてきた。
「……うん」
答えはかすれていた。
声が震えているわけではない。ただ、口の内側に引っかかっていた言葉の棘が、少しだけ舌を刺した。
日下部は無言で隣に並ぶ。
それだけで、遥の肩に重みがのしかかった。
彼の存在は重たい。優しさの顔をして近づいてくるものほど、恐ろしくなる。
「家まで、送るよ」
「……いらない」
反射で言った。だが、拒絶の響きは弱かった。
心の奥では、誰かに引き止められることを、ずっと求めていたのかもしれない。
そんな自分に気づいて、さらに嫌悪する。
「いいから」
その言葉が優しさなのか、罪滅ぼしなのか──遥にはわからなかった。
わかりたくなかった。
感情の名前を与えるたびに、心が軋む。
二人の間には、微妙な距離があった。
けれど、距離以上に、遥の中では不安定な何かが揺れていた。
ひとつ言葉を交わすたびに、心のなかの足場が崩れていく。
「……今朝、教室、出てったろ」
その声に、背中が強張る。
触れるな、と言いたかった。
あの瞬間、自分がなにを思ったのか。なぜあんな行動を取ったのか。
自分でも、まだ、整理できていない。
「……ごめん。俺、何もできなかった」
謝るな。
そう言いたかった。
謝られるたびに、遥のなかの罪が深く沈む。
優しさは刃だ。
触れられるたびに、自分の中の汚れが際立つ。
「──おまえ、自分がいちばん怖かったんだろ」
その言葉に、遥の呼吸が止まる。
一瞬、全身の筋肉が固まった。
言葉の意味はわかる。でも、それを認めた瞬間、崩れてしまいそうで。
「……違う」
それは反射的な否定だった。
だが、心の奥では、何かが強く頷いていた。
違うと否定したのは、自分に対してだった。
怖かった。
壊れるのが怖かったんじゃない。壊したくなる自分が、いちばん怖かった。
手を伸ばしたら、誰かを壊してしまいそうで。
でも、触れられたら、全部壊されてもいいと思ってしまいそうで。
「……おれさ、もっと前に止めたかった。蓮司のことも、おまえのことも。でも……どうしていいかわかんなくて」
わかってたくせに、黙ってたんだろ。
心のどこかで、遥はそう思った。
でも、だからといって、日下部を責めたいわけじゃなかった。
ただ、どうしても信じられないだけだった。
信じたい気持ちが、喉元まで込み上げてきているからこそ。
それを飲み込むには、もうひとつの声で塗りつぶすしかなかった。
「おまえが近づいてくると、……ぐちゃぐちゃになるんだよ」
小さく、掠れた声。
それでも、日下部には聞こえたようだった。
「……それでも、そばにいちゃ、ダメか?」
遥の目が、わずかに揺れた。
その言葉は、優しさでもなければ、罪でもなかった。
ただ、そこにいる人間としての、誠実な問いだった。
だからこそ──
答えを出せなかった。
「……いまは……無理だ」
足が震えそうだった。
顔を見られたくなくて、俯いた。
地面に映る影が、二人分。けれど、交わることはなかった。
信じたい。でも、信じてしまったら、全部が壊れる。
愛されたい。でも、それが本当だったら、自分の存在があまりにも惨めすぎる。
そんな矛盾の中で、遥はまた一歩、内側に沈んでいく。