テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
芙月みひろ
5,379
#虐げられヒロイン
「高校に入った頃から、俺はいつしか兄貴を憎むようになった。兄貴さえいなければ……そんな思いで家の中からも孤立していった。苦しくて、苛立って。毎日何のために今まで努力してきたのかもわからなくなって……。大学と同時に俺は逃げるようにアメリカへと渡った。そしてある程度自分でできるようになってからは、宮田の家には戻っていない。でも俺は兄貴にも宮田の家にも迷惑を掛けたから……」
そこまで言って一度芳也は言葉を区切った。
「今日、俺は兄貴を見て逃げ出した。兄貴は俺を許さない……」
それだけ言うと、芳也はギュッと唇を噛んだ。
なんで許さないのか理由を聞いていいのか、麻耶は芳也の様子を推し測った。
微動だにせず、ただ懺悔のように、自分を傷めようとする芳也にその事を聞くことはできなかった。
何も言葉を掛ける事ができずにいると、芳也はまたウィスキーのグラスに手を伸ばした。
「ダメ!」
麻耶は必死に芳也の手を止めた。
麻耶の手を振り払おうとする芳也の手を、両手で握りしめた。
「これ以上、自分を傷つけないで!」
「俺は傷つかなきゃいけないんだよ」
「いや!そんなの嫌!私が嫌……」
止まっていたはずの涙が流れ出し、麻耶はそのまま芳也を抱きしめた。
「み……」
芳也が動きを止めたのがわかった。
「過去に芳也さんが何を思って、お兄さんに何をしたのかわからない。でも。私はこれ以上芳也さんが傷つくのを見たくない。お願いだから今だけでも……」
そう言うと、麻耶は更に芳也を強く抱きしめた。
「慰めてくれるのか?」
しばらくして発せられた芳也の言葉と表情からは、感情をうかがい知ることはできなかったが、芳也の言葉の意味が解らないほど麻耶も子供ではなかった。
自分にこれっぽっちも愛情があるとは思えない。初めから惚れるなと言われた相手だ。
(今目の前にいる芳也を放置することはできないよ……。守りたい、抱きしめたい。……もっとふれたい)
基樹の時に感じた優しく穏やかな気持ちではない、はっきりと感じる欲望。
たとえ自分の物にならなくても、身の程知らずだとしても、いま目の前にいる人を感じたい。
「私にできるなら……」
そう言うと、麻耶は抱きしめていた腕に力を込め、目の前に在った芳也の首筋にそっと唇をつけた。
「やめろ!馬鹿かお前は!」
芳也は顔を逸らすように、麻耶の肩を押した。
「いいから!こんな私で慰められるなら、少しでも芳也さんが楽になるなら……それでいいから」
麻耶は自分で自分が信じられなかった。ここまで言われれば、いつもの自分なら絶対にこれ以上踏み込まなかったはずだ。
しかし、今目の前にいる芳也をどうしても抱きしめたかった。
小さい頃からどんな思いでいたのか、それを思うと胸が締め付けられた。
「欲求のはけ口でいい。明日になったら忘れるから。今だけ」
呆然とその言葉を虚ろな目で聞いている芳也の頬に触れた。
「お前をそんな事に使いたくない……」
絞り出すように言った芳也の言葉を無視して、麻耶は芳也の頭を抱きしめた。
「人が恋しい事もあるでしょ?誰かに抱きしめてもらいたい事。私も今そうして欲しい」
麻耶はそっと顔を上げると、そっと芳也にキスしようとした。
ふっと顔を逸らされて麻耶は心が折れそうだった。
私じゃやっぱり無理なんだ。身体ですら求めてもらえない。
涙が頬をつたった。
麻耶は触れていた芳也の頬から手を離すと、その手が芳也に握られた。
驚いて麻耶は芳也を見ると、その涙をいつものように芳也の指が拭った。
麻耶はギュッと握られた手が震えていたことに初めて気づいた。
その震えを止める様に芳也の両手が麻耶の手を包み込んだ。
その温かさに、また麻耶の目から涙が零れ落ちた。
その涙にそっとキスを落とすと、芳也は麻耶を組み敷いて首筋に唇を這わせた。
何も言葉を発しない芳也だったが、その手は熱く、あっと言う間に麻耶の部屋着を取り去ると、芳也は麻耶を翻弄した。
激しく揺さぶられて意識が飛びそうな中、見上げた芳也の瞳は、悲しみなのか、怒りなのか、欲情なのか……それすら分からなかった。
ただ一言、呼ばれた「麻耶……」その言葉を聞きながら、瞳に吸い込まれるように麻耶は意識を手放した。
どれぐらい時間が経ったのだろう?麻耶が目を覚ますとそこは芳也の寝室だった。
芳也のTシャツを着せられて寝室に運ばれたようだった。
そして隣には眠る芳也の姿があった。
(やっちゃったな……)
麻耶はゆっくりと起き上がると、リビングに行き散らばった自分の下着や部屋着を集めてそっとバスルームへと向かった。
(後悔は……してない)
熱いシャワーを頭から浴びると、麻耶は自分の心の中を整理した。
あのままの芳也を放置することはできなかった。
―― ただそれだけ。事故だ。
麻耶は何度となく自分に言い聞かせた。
これ以上芳也を好きになってはいけない。麻耶の中ではそんな思いでいっぱいだった。
―― 惹かれてはいけない人。好きになっては行けない人。
ただ欲求を満たすだけの行為。そこには愛情なんて存在しない。
大人になればそれぐらいの事は理解しているつもりだ。
(唇にキスはしてくれなかったな……)
唇の上のキスは愛情のキス。何度も新郎新婦に言った言葉が自分自身に突き刺さった。
これはただの慰めだと。
愛を伝える必要はないと。
そう芳也に言われている気がして、涙が落ちた。
(それでも私は後悔はしない……)
麻耶はキュッとシャワーを止めると、鏡の中の自分を見つめた。
麻耶がゆっくりとベッドから出て、扉が閉まる音が聞こえると、芳也は目を開けた。
(止められなかった……)
後悔と罪の意識が襲い、これからどうすればいいのか推し測った。
確かに感じるこの愛しさを、麻耶に知られる訳にはいかない。
絶対に麻耶を求めてはいけない。そうわかっていたのに。
芳也を抱きしめる腕が、指が小刻みに震えていた。どれだけ勇気をだしてくれたのか……。
それを思うと芳也は胸が潰されそうだった。
(結局俺も言い訳のように、アイツの震えを止めたいそう思って触れてしまった……。でもこれ以上、麻耶に気持ちを持つことは許されない。抱いといて何を俺……)
ぎゅっと瞳を閉じると、麻耶が部屋に入ってきたことが分かった。
ベッドに入ることはなく、そばで見下ろしている感覚がしていたが、芳也はそのまま眠ったふりをした。
そっと頬に触れた麻耶の手がすぐに離れた。
その手を掴みたい衝動をなんとかこらえると、そっと麻耶の気配が消えパタンという音とともに寝室に静寂が訪れた。
一緒に眠ることが無い事に、安堵なのか、寂しさなのか分からない感情を押し殺すと、芳也はまた目を閉じた。
それから芳也は麻耶に会う事ができずにいた。
どう、別れを切り出していいのかわからずにいた。
本当ならばひどい言葉を投げつけて、自分の事など忘れてもらうのが一番いい。その事は理解していた。
家に帰る時間を遅くするために仕事に明け暮れた。そして限界を感じて始を呼び出した。
薄暗いホテルのBARを指定して、芳也は一人グラスを傾けると大きく息を吐いた。
「大丈夫か?」
後ろから声を掛けられ、芳也は振り向いた。
「悪いな。付き合わせて」
静かに言った芳也を見て、始は大きくため息をついた。
「ひどい顔色だぞ」
「ああ」
わかっていると言った芳也に、始はまたため息をつくとゆっくりとカウンターの隣の席に座った。
「ウィスキーばかり体に悪い」
そう言いながら、始も同じものを頼むとゆっくりと話し始めた。
「なあ、もう自分を許してもいいんじゃないか?10年もたったんだぞ」
「そんな訳にいかない」
「そのために水崎を傷つけるのか?お前以上にアイツもひどい顔してるぞ」
その言葉に芳也は言葉に詰まった。
自分の欲望の為に、麻耶を傷つけた。
そして今もなお、麻耶を傷つけている。
「いい加減に、アイツを開放しないとな」
表情のない顔で言った芳也に、始はため息をついた。
「なあ、好きなんだろ?好きじゃなかったら今頃そんな顔はしてないし、水崎だってあんな顔してないだろ?」
「好きだよ」
「じゃあなんで?」
「俺は、俺だけは幸せになってはいけないんだよ」
その言葉に始は10年ぶりの名前を出した。
「そんなの健斗さんが望んでいるとは思えない!」
吐き出すように言った始の言葉に、
「兄貴は俺を許さないよ。兄貴の大切な物を俺は奪ってめちゃくちゃにした。誰かに愛される資格なんてないよ」
「だからって……俺は、俺はお前にも水崎さんにも幸せになってもらいたい。あんなに幸せそうなお前たちだったじゃないか……」
辛そうにいった始の気持ちが嬉しくて、「ありがとな」そう言うと芳也は始の肩に触れた。
「そうだな。付き合うって言葉にはしなかったけど、俺にとっては十分すぎるほど幸せな時間だったよ。アイツと一緒にいると何でも乗り越えていける気がしたよ。許されないとわかっていても手を離せなくなったのは俺の方だ。でも……もう終わりだ」
「なんでだよ!?」
だったらこのままでいいんじゃないか?始がそう言いたいのがわかり、芳也は始に頭を下げた。
「これ以上、一緒にいたらアイツを不幸にするだけだ。これ以上もう限界だ……もう遅いかもしれない。頼むアイツを水崎を……支えてやってくれ。俺はあいつまで傷つけた……」
最後の方は言葉にならない芳也に、始も掛ける言葉を失った。
「告白……されたのか?」
その問いに、芳也は首を振った。
「じゃあ、何が……」
「抱いた」
「え?」
始にとっても意外すぎる言葉に、驚いて芳也を見据えた。
「こないだ、兄貴にあった日、勢いに任せて抱いた」
「お前……」
「わかってる。最低な事をしたって。でも……。抑えられなかったんだ……。でも俺はあいつの思いに答えられないだろ?こんな俺じゃ……。なのにアイツの優しさに漬け込んだ……」
その言葉に、大きく始は息を吐くと、芳也を見た。
「なあ、それぐらい気持ちがあるって事だよな?」
「……初めて人を愛するってことが分かったよ。あの時どれだけ兄貴が辛かったって事もな。これが本当の俺への罰なのかもしてない。でも……水崎を巻き込んでしまった……」
苦し気に呟いた芳也に始も黙ってグラスに手を掛けた。
――ただ一緒にいたい。楽しい時も、泣きたいときも隣にいたい。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!